4.
たとえば、今日見た黒い物だ。
たぶん、目の錯覚とか、思い込みに違いない。思春期を過ぎ、母の言葉に惑わされないようにと自分で気をつけることができるようになってからは、むやみに物の中に目を探すことはやめていた。だけれど、今日のように音が伴うことがある。そうすると、どうしても気がついてしまうことがある。
それを不用意に母に言ってしまって失敗したことがあったため、章一は用心深くならざるを得なかった。
その章一の情報を元に、母は近所の人にまで「あなた、だれかに妬まれていますよ」などと言い出したり、「これを食べた方がいい」と母独自の「生霊落とし」の食べ物をふるまったりする。ときどきはそのことで感謝されることもあり、良く思ってくれた人もいたが、だいたいは、近所の人からも嫌われ、なんとなく居心地が悪くなり、また、母はそういう疎外感にも敏感で、
「ショーイチ、ここの人たちはなんだかおかしいよ。あたしのことを変なものを見るような目で見るからね、もうここにはいられないよ。今度の更新の時に引っ越そう」
などと言い出し、四年くらい同じ所に住むと必ずそのようなことになってくる。
章一は面倒くさいと思いつつも、母に毎日のように苦情を言われることにも苦痛を感じてくるので、できる限りは母の意向に沿って引っ越しもしてきたのだ。
パソコンを切ってキッチンのテーブルに座ると、母がうれしそうにそこに座って待っていた。
「ねえねえ、その人さまみたいなものは、どこにあったの?」
母は、もう、ピンポイントで章一の気持ちの揺れを突いてくる。
「交差点だよ」
どこから話をごまかすことができるのか? 慎重にしないと母は章一の嘘を暴き、ごねる。章一は注意深く言葉を選んで、母の反応をうかがった。
「どういうもの?」
「黒い…、袋みたいなもの」
「じゃあ、回収できるね!」
「う~ん、でも車道なんだ。駅前の交差点は車が多いだろ。そこでそれを回収しても危ないよ。命を落としてまで回収する意味はないだろ? やめておいた方がいいと思うよ」
「そうなの?」
と母はしょんぼりした。
「そうだよ。今度、回収できるような時には、オレが回収しておくからさ」
「ほんとなんだろうね?」
と母は目を輝かせた。
章一は心底うんざりして、
「ほんとだよ」
と答えた。
母に邪魔されずにまたゲームを再開したい。今、この時間にはそれが章一の第一優先事項だった。
それから部屋に戻ると、ゲームを再開した。
章一はゲームに没頭しすぎるということがない。頭が疲れると眠くなるのだ。適当なところでゲームを切り上げると、シャワーを浴び、ゆっくりと眠った。
「ショーイチ、ショーイチ」
次の日の朝、母の声で目が覚めた。
時計を見るとまだ四時で、日も上っていない。いったいなんだっていうんだろう。
章一はむかつきながら、「何?」と答えた。
「あったよ。あんたの言う黒い袋が」
「あ、そう」
なんと、母は章一が気になった黒い物を取りに行ったらしい。釘を刺しておいたのに…。
母の独自すぎる世界に付き合うのは疲れる。特にこれから一日が始まるという朝だとなおさらだ。
「ねえねえ、見てみるかい?」
母はまるで獲物を取って来た猫みたいに、その獲物を章一に見せたがっているのだ。
「ねえ、わかってると思うけど…。今日仕事に行くためには十分に寝ておく必要があるんだよ! 寝る!」
そう宣言すると、章一は残りの数時間を愛おしむように深く眠った。
仕事に行くために起きると、思った通り、母がキッチンのテーブルに座って章一を待ち構えていた。
「よく眠れたかい?」
母はなんだか生き生きとしており、それが気色悪くて、章一は「ああ」と、吐き捨てるように言った。
「見るだろ?」
と母が言う。たぶん、今朝回収してきたという、黒い物のことだ。
「見なくていいよ。まだ朝だろ。とにかく会社に行って、今日のことは今日のことで済ませてくる。お金が大事だろ? 帰って来てから話につきあうよ」
「そうかい…」
と寂しそうにしながらも、母は喜びを隠せない様子だった。
「また貯金ができたよ」
と母はうれしそうに言った。
「そう、良かったね」
章一はうんざりしながらも、母の用意した煮物を食べ、外に出た。
アパートの外に出ると、気持ちが広がる。心のシャッターをもう閉めなくてもいい。今日家に帰ると、母は朝のできごとを喜々として章一に話すだろう。それまでに外で英気を養うのだ。
まだ朝の用意の始まっていない商店街には、静かな活気が眠っている。そこを歩くだけで、章一の中にも今日一日分の力がたまってくるように感じた。そのお気に入りの商店街をいつものように歩き、交差点の信号の所までやってきた。
信号待ちの間に、昨日、道に張り付くように存在していた、黒い物の方を確認する。
それはもうなかった。
やっぱり母が回収したのだろうか。
まあ、そんなことどうだっていい。それは帰ってからのことだ。
章一は気持ちを切り替えて仕事に向かった。