2.
章一の暮らしている部屋はアパートの一階、東側の角部屋だ。
部屋のとびらを開けると、むっと熱気に包まれた。
母が何かを煮ているのだ。
母は煮物が得意で、常に何かを煮ているのだ。
キッチンは玄関を入ってすぐの所なので、母の姿がすぐに目に入った。
「おかえり」
と母はしげしげと章一を見つめた。
「今日は少し遅かったんと違うか? なにかあったんか?」
母は、大鍋の中のなにかをかき回しながら章一に聞いた。
「うん。ちょっと駅の信号の所で気になったものがあったから、見てたらおそくなった」
「ほお」
と母は手を止めて興味を示した。
章一はふっと息をつくと、そのまま自分の部屋に入って、部屋着に着替えた。
三つある畳の部屋の、隣家に面したいちばん西側が章一の部屋だ。真ん中の部屋と東端の部屋は二部屋とはいえ、障子で仕切られているだけだ。東端は母の部屋になっており、章一の部屋とその部屋に挟まれた真ん中の部屋には祖母が寝ている。祖母は数年前からほぼ寝たきりなのだが、デイケアに行くでもなく、入浴などのためにたまにヘルパーさんが来てくれる以外は、母がかいがいしく身の回りの世話をしていた。
ダイニングキッチンはその三つの部屋に面している。ダイニングキッチンにはテーブルが一つ置かれ、その周りにはいろいろなものが積み上げられているが、三人の家族がゆうゆうと食事をするには十分なスペースがあった。
「ショーイチ! ごはんにするよ! ばあちゃんをテーブルに連れてきてな」
と母が声をかけた。
「あ。わっかった」
章一はこの家に帰ると心のシャッターを閉ざす。
何か見たくないもの、感じたくないものがこのアパートの部屋には満ちている。それは社会に出るようになってからだんだんにわかってきたことだ。自分の家は何かが違うと。だけれど、章一にはそれをどうとらえ、どうしたらいいのかは、わからなかった。
心を閉ざすというのは、「返事をしない」とか「反応しない」というのとは違う。母の言葉には答え、言葉の中の章一への要望だけはかなえる。ただ、そこに感情をつなげたり、感想を抱いたりしないようにする、という意味だ。
大学を卒業してから、章一は社会との接点を探すように仕事を見つけ、流れるようにSEや事務職などをそれなりにこなし、そして流れるように辞めてはまた職を探すというような生活を二十年続けてきている。会社は八回ほど変わっただろうか。
大学に行けというのは、父の口癖だった。
「おれには学がなかったから、ろくな職につけなかった。だから、お前が大学に行き、りっぱな社会人になってくれることが、おれの夢なんだ」と。
章一はこの家の中では希望のかたまりのような存在で、祖母にもかわいがられた。父は元はこの祖母の一人だけの希望のかたまりで、大事な息子だった。それなのに、章一が大学に進学した年に一番先に旅立ってしまった。
祖母の部屋に置いてある折り畳み式の車いすを広げ、章一は祖母に声をかけた。
「ばあちゃん、ごはんだよ」
「おやショウスケ。今日はお休みかい?」
章介というのは章一の父のことだ。祖母はここ数年、そんな風に昔の記憶と今の記憶の境目をさまよっている。
「さ」
章一は祖母に肩を貸すと、手慣れたしぐさで祖母を車いすに乗せ、キッチンテーブルまで押して行き、テーブルの所でストッパーをかけた。
「ばあちゃん。みんな、ばあちゃんの食べられるものに合わせて、やわらかく煮てあるんだよ。ばあちゃん、幸せだな」
と母が言った。
祖母の前にはおかずとご飯が一緒になったような、どろどろのものが置かれた。
「ばあちゃん、ばあちゃんの大好きなショーイチが食べさせてくれるよ。幸せだな」
「ああ、ああ。ありがと、ありがと」
と祖母は目を潤ませて章一の方をちらりと見ると、章一が食べさせるペースに合わせて口を開き、ぺちゃぺちゃとご飯を飲み込んだ。
「な、ショーイチ。今日見たものについて話してくれるだろうね」
と母がギロリと章一を見つめたので、章一はしまったな、と思った。アパートに帰る道すがらも、交差点で見た黒い物が気になっていたので、帰った時、ふいに質問されて、ついつい母によけいな情報を与えてしまった。
章一はその母の言葉を無視するように自分も母の作った煮物を食べ始め、それでいて祖母のことも気にしながら、祖母のペースで食べられるようにと気をつかっていた。
「な、ショーイチ、聞いてるん?」
母が少し怒ったような声を上げた。
「ばあちゃん、おいしいか?」
と章一は、祖母の方に焦点を合わせて、母の言葉を遮ろうとしいていた。
「ははあ。なんか、人さまっぽいものを見たんだな? そうだろ?」
章一はもくもくと食事を続けた。
「ふふ~ん、目があったのか? それには目があったのか? それとも身体の一部があったのか? 人さまっぽい何かを見つけたんだろ? そうだろ?」
「やめてくれ!」
この家にはテレビがない。
「電波はな、それじゃなくても世界に充満している。家にまで電波が届くものを置くこたあないんだよ」
とある時母が言い、章一が中学生の頃から家にはテレビを置かなくなった。だからいつでも外の音以外の音がない。学校で友達との話題にも着いて行けなかった章一は、いつも人から外れたところにいた。
ときどきいじめられもしたが、それがどうとは思わなかった。感情を切り離す訓練ができていたので、行動を示した奴をじっと見つめる。そうすると人は離れて行った。そうやって人と離れている方が心地良かった。それに、そんなことがあっても、家にいるよりは外の方が良かったのだ。昼のうちは。
家に帰ってからは、心のシャッターを下ろす訓練をしていたおかげで、外でも適度にシャッターを閉ざし、適度に人とつきあえるようになったのだ。