表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

淡い恋

作者: 竹内謙作

十六の僕にはじめて彼女ができた。高校での新しい生活に慣れない五月、彼女が学校裏に僕を呼び出したのだ。ちょうど桜の花びらが舞い落ちる頃であった。僕はただ散ってゆく哀れな桜を少し感傷的な気持ちで見つめながら待っていると、彼女が小走りで僕の傍にやってきた。好きです。そのことだけ言って彼女はすぐに僕の元を離れて、またどこかに消え去ってしまった。桜の花びらよりもよりピンクに染まった彼女の頬を今でも鮮明に覚えている。

 僕は少し冷めた感情で立ち去った彼女の言葉を何度も反芻していた。好きです、か。ただそれだけ。他には何もないのだ。私と付き合ってくださいとも、仲良くしてくださいとも、何にもないのだ。全く無責任なものだ。自分の感情だけざっくばらんに話して後処理は僕にお任せだ。そしてその後処理で、またざっくばらんな感情を抱くのだろう。無計画。大雑把。そんな印象を受けたが、案外そういう人生を突っ走っていくような人間を僕は好ましいと思っていた。そして特に断る理由もないので、その日の夜ラインでこんな僕でも良ければどうぞ付き合ってくださいと彼女に連絡した。すぐに彼女からやったー!よろしくねとの返信をもらった。こうして今まで一言も話したことのなかった彼女と、僕は交際を始めることになった。

 最初のデートではさすがに彼女は緊張している様子であったが、二度三度会うたびに次第に自分に打ち解けるようになっていった。僕らは水族館にも行ったし、動物園にも行った。どこに行こうともそこには必ず彼女の笑顔があった。しかし彼女はよく笑うものである。僕がどんなに面白味のまるで無い話をしても、彼女はただ意味もなく無邪気に笑っていた。最初に愚鈍という印象を受けていた僕であったが、何度か接しているうちにそのような態度に自ずと居心地の良さを感じるようになった。彼女はさして美人というわけではなかったが、愛嬌があり、女性的な可愛らしさをもっていた。いつしか僕は彼女が大好きになり、そうして彼女の笑顔のなかにある種救いのようなものを求めるようになった。

 僕は青春の荒波に懸命に耐えようとする一人の哀れな青年である。青春、それは僕にとって膨れ上がる不安、疑い、孤独。それ以外の何物でもない。到底処理することのできない人生そのものに対する疑念が、僕の精神の全部である。やがて死をもって終焉する生の混沌のなかで何をすべきか。いったい何が意義をなすというのだろう。僕は生をその根本から諦めていたが、しかし死に対しても漠然と諦念を感じていた。僕はまるで綱渡りの芸に失敗して、足だけ綱に引っかかったまま宙ぶらりんになっているサーカスのピエロのようである。生きるという綱渡りから落ちた僕は、しかし死へ自分の身を委ねる勇気を持ち合わせることすらもできない。

 そういう生への病を抱える僕にとって、彼女の笑顔のもつ楽天性から生きる支えをもらっていたのは確かである。何も考えなくてよいのだ。今まで散々多くのことを考えてきたのだから。彼女が笑うたび、僕には彼女が全身でそんな感慨を僕に伝えているような気がした。実際、僕の常に考えていることなどは存外考える必要のないことで、凡そ馬鹿らしくてなんとなく空々しく、実際上の生活から切り離さなければならない何の価値もないことかもしれない。そうして物事の深い妙、虚構、幻想などは立ち入って考えないほうが楽に明るく生を乗り越えられるのだ。考えないというのは慰めではなく、一つの処世術ではないか。僕は彼女と会わないときでも荒涼たる思いでその笑顔の面影と戯れていた。

 しかし僕の心のよりどころであった彼女の笑顔を眺めているとき、僕はその笑顔の中に一種の空虚を感じるときがあった。彼女の笑顔は、全然自分に向けられていないような気がしたのだ。彼女は自分を自分としてではなく、より理想的な何か特別なものとしてみているような感覚を受けた。彼女はよく僕にこのような内容のことを言う。

「わたしはあなたに一目会った日からずっと恋していたのよ。あなたと一緒に毎日会える日をどんなに夢見ていたことか。わたしいま本当に満ち足りていて幸せだわ。」

彼女が眺めていたのはいわば僕の化身としての白馬の王子さまであり、僕の現身に対しては何の興味もないように思われた。しかし僕はただの人間であり、彼女の理想世界とは別の次元で生きる平平凡凡たるつまらぬ一人の若者にほかならなかった。ここでも僕はピエロであった。常に彼女の理想と僕の現実の間をさまよっていた。思春期の恋愛は二人の男女の桃源郷であり、幻想でしかない。それは確かにそうに違いないが、その根底にある寂しさを僕は打ち明けずにはいられない。大いなる恋愛の情熱はつまり虚無に由来するという疑いを僕は自分の中から消し去ることができないのだ。彼女の笑顔を見ている間は光が見えているような気がするが、彼女がいないとき僕は内に秘める苦悩懊悩を投げ出して自分の魂をどこかに埋めたい衝動に駆られていた。結局はどこかで僕は彼女を理想化していたのだ。僕が毎日欠かさず彼女に会ったのは、必ずしも彼女に恋していたからではなくなっていた。会わないでいると彼女を全く現実とはかけ離れた別物として思い描きそうで、そうしてそのことに気付かず順応しているであろう僕が恐ろしかったのだ。

けれども僕は必死に彼女の白馬の王子様になろうという演技を続けるほかはなかった。彼女の幻想を壊し、僕が人間となって彼女を失望させるのが怖かったのだ。そして僕自身、まったく気持ちよく、調子に乗って彼女の幻想に溺れていたからでもある。僕は彼女の思い描くものが現実となるように自分自身をすべて変えた。彼女の好きな髪型、服装、靴…。見た目で思い当たるものはすべて作り替え、肉体さえも筋トレによってより剛直なものに変えていった。僕の外界から変えていけば内なる自己も、この寂莫たる思いも変えることができるのではないかと希望をもっていた。しかしどこか飽き足らず、彼女の満足な笑顔に比して、僕の精神は荒んでいた。僕の行動は他人には愛にあふれ、まったく清潔なものに見えたであろうが、その動機はなんと不正直で人間の欲望に毒されているであろう。彼女の笑顔を僕はいつしか恨むようになった。毒気のない恋愛はただそう見えるだけの表面的なもので、その実情は人間らしい毒気にまみれており、僕らはそれを必死に隠そうとあくせくしていて、物事の現実をどこにもつかんでいなかった。しかし結局人間なんていうのはそんなもので、どこかに理想を抱かずには、現実のなかに幻想を持たなければ生きていけないのだ。しようがないことだ、第一美しいではないか。僕はそう自分自身につぶやいて諦めにも似た言い訳でごまかしていた。

 虚構はいつだって美しく、真実ほど汚いものはなかった。僕は神のように振る舞って彼女の前で仮面をかぶって舞を踊っていたが、実のところただの人間で、そして人間だということを告白しないことが僕を人間よりもいっそう卑しい妖怪へと変貌させていた。彼女の幻想に取りつかれ、彼女の満ち足りた思いのために献身し、常に彼女が思う通りに行動し、しかしそれでいて生に対する実感はなかったのだ。灰色の薄汚れた疑心暗鬼の目で、彼女の笑顔ばかりを真実だと信じ、前後不覚、情緒不安定、意識がただぐるぐると彼女のまわりで情けなく旋回し、しかし馬鹿馬鹿しいその旋回だけが僕の宇宙で、そしてそれさえも彼女の支配のなかにあった。僕の主観などは全く消滅し、彼女だけの主観的世界に閉じ込められ、その檻で天国を見つめていた。依存しあうことは愛だが、まことにわがままな愛で、自分の世界を他人と共有しあうことはつながりにほかならないが、その代わりに個人としての自己が自分の世界に占める割合は減ってしまう。この世界の主人公は僕であるというのに!まして彼女のおかげで、全く彼女の支配の影響で、この世界に僕はいないのである。彼女は僕の世界を貪り食らう一人の魔女で、そして自分自身が魔女であることを自覚せず、それ故に純朴で悪気がないのだ。しかし悪気がないことそのものが悪徳であり、むしろその純粋さがより僕に対する支配を悪どいものにしている。

 僕をめぐるすべてが陰鬱としており、確かな感触のない頼りなさだけが残されていた。理想と現実の間に押しつぶされ、僕は自分自身が生きているのが嫌になってきた。この息苦しく窮屈な世界、彼女の世界に僕自身が形だけでも存在している意味はないと思うようになっていた。彼女の理想は今はまだ僕の現身をひとつの在り方であると認めてはいるが、次第にその必然性を疑い、僕がまだこの世に存在しているということを呪わずにはいられないだろう。僕が人間として生きることはもう許されなくなるのではないか。恐ろしい予感が、しかしはっきりとこの世の最後の僕の奉仕として認識されようとしていた。しかし彼女の笑顔が僕の死を導くということに恐怖を抱きながら、その瞬間が来たらもうどうということもないという流されるままの安心感が僕を捉えていたことも確かである。もう現実は僕のものでもなく彼女のものなのだから、今更どうあがいてもどうしようもないではないか。僕は魂も身体も彼女の欲するがままに委ねようと思っていた。たとえ彼女への献身のためにこの身が砕けようとも、彼女の中に僕の仮の姿の魂が眠っていればそれで十分ではないか。永遠に眠っていればそれでいいのではないか。一人の少女の淡い空想のために死ぬこの僕は悲壮な英雄なのかもしれないが、こんなに良いエンターテイメントはないだろう。望まれて死ぬなんて最高の人生じゃないか。

 そういう人生の最後に惚れ惚れとし自分自身に酔っていながら、それでも生きるというありのままの欲求に僕は敗北を喫してしまった。彼女との学校のいつもの帰り道、僕は自分自身の世界と僕自身を取り戻すために、彼女にこう告白するしかなかった。

「いつも僕をこの上もなく愛してくれるのはありがたいのだけど、結局僕は完全に君の理想になるなんてできやしないよ。今まで必死になって君のために尽くしてきたけど外面をいかに君の思うように変えても、僕の精神だけはどうすることもできなかった。僕のありのままを見てほしいんだ。甘い言葉ばかりじゃなくて本当の僕の姿を、卑劣で不潔な僕をまっすぐに見つめてほしい。」

僕は夕方に吹く初夏の湿気を伴った風を感じながら、やはり言葉なんて風のようなものだという失望を抱いていた。僕の本心は言葉にすることなど無意味で、そしてその本心さえも言葉からできているために本当の僕の思いは僕自身ですらも認識することができなかった。しかし言葉を僕は信じていたのだ。彼女に言葉ではない僕の無意識が伝わることができれば。僕は必死になってひたすらに思い、叫ぶようにささやき、傍らにいる彼女の反応を待っていた。

 その瞬間、思いもよらないことが起った。僕の言葉にふりむいた彼女は笑っていたのだ。満面の笑み。この笑いのエネルギーはどこからくる?僕はとっさに自身に疑問を投げかけずにはいられなかった。君の笑いは膨大なエネルギーで、なおかつ空っぽじゃないか。そんなに空っぽなのにどうして僕をこんなにまで引きつけるのか。僕は彼女のすべてがわからなくなった。僕は彼女に身も心もすべて捧げようとしていたが、僕自身は彼女の肉体も精神も全然知らなかった。僕は彼女の甘い言葉を流れるように、そうして自分自身も甘い言葉に流されながら聞いていただけだ。思えば僕たちはキスもしたことがなかったし、手をつなぐことすらもしていなかった。お互いがお互いの表面すらも知る由もなく、一緒にいただけだった。徐々に落ちていく夕日の中で、僕はオレンジ色の世界にいながらどす黒い迷いに浸っていた。何が彼女の真実で、何が彼女の虚構であろうか。僕はおそらく、彼女の虚構しか見ていなかったのではないか。僕は本能的にそのとき彼女を見た。そしてその彼女は、僕と一番最初につきあっていたころの彼女ではなくなっていた。彼女の服装も髪型も化粧も僕好みのものだった。僕は自分の好みなんて一言も言ったことがないのに、彼女は自分の理想に変わっていたのだ。僕は彼女に人間の悲しい性を感ぜずにはいられなかった。この世界には僕もいなかったし、彼女もいなかったのだ。すべてが夢の中でふわふわと浮遊し、そういう偽りの居心地の良さだけが二人を覆っていた。

 その後はとりとめもない話をして僕らは別れたが、僕はなんとなく煮え切らない、納得のいかない思いであった。あんな僕の薄っぺらい言葉で、僕たちの生活に対する認識が変わるとは思っていなかった。何が、僕たちを変えてくれるのか。何が、僕たちを救ってくれるのだろう。答えが欲しい。経験をくれ。惨めじゃないか。どうして僕らは出会った?出会って、その理想の中に泳いでいれば行き着く先は死しかないじゃないか。僕は恋愛を恨んだ。現実はどこに眠っている?運命なんてくそくらえだ。僕は自分の本質を見破ってもらおうという厚かましい欲望ばかりが先行して、現実の中に彼女の本質を見ることはできなかったのだ。僕は彼女のすべてを抱きしめたかった。彼女の肉体から魂を感じたい。抱きしめたい。そうしなければならないのだ。信用できるのは僕の感覚ばかりで、それだけが頼りでしかない。しかしそれさえも幻かもしれないが、それを通じてしか僕はこの世界にとけこむことなどできないだろう。感触の世界に現実という名前をつけるなら、彼女の現実を僕は彼女の肉体に触れることからしか感じることはできない。これは愛欲ではない。一つの願いだ。僕たちは触れ合っていないとお互いがここにあることを認識できず、また深い理想郷のなかに自らの陶酔を見出すことしかできなくなる。理想とか死なんてどうでもいいなんだ。思考を停止しろ。このよくわからぬ世界によくわからぬ二つの生命体が肩を寄せ合っている。それだけが事実、嘘偽りがひとつもない驚くべきありのままであることを自覚しろ。そう思い込むことからしか、僕たちは己を救うことなどできやしない。

 僕は暗くなっていく道を家へと歩いていたが、しかしその魂はいずこへさまようのか。僕の魂の行き着く先は彼女でありうるべきであった。結局のところ、僕も彼女も全く同じ一人の人間で、その悲しみを二人の戯れで忘れようとしているだけなのだ。僕と彼女は同じ悲しみのもとにいる。僕は泣きながらいつのまにか駆け出していた。彼女を抱きしめようと走った。けれでも、抱きしめたところで、触れたところで、僕たちはバラバラの個人であることに変わりはなく、しかもそうすることでよりいっそう、僕たちは孤独だということを考えざるをえないのだ。愛とは大いなる皮肉だ。愛を確かめれば確かめるほど、個人へと収束されるに決まっている。僕は自己の世界が愛によって征服される恐れを抱いていたが、むしろそれは哀れな妄想でしかなく、愛が自己を自覚させるのだ。

 僕は彼女のもとへ無我夢中で走った。走っているうちに僕の髪型は乱れ、服は転んで破れ、靴は傷ついて汚れてしまったが、そんなことは構わなかった。理想を越えたところに本当の現実が始まる。二人の理想が終わったところに本当の人間らしい愛が始まるのだ。確かな思いがあった。僕ははじめて自信をもって言えるのだ。あなたが好きです、と。あなたを骨の髄まで感じたい、と。彼女の後ろ姿が見えてきた。僕は大声で彼女の名前を呼んだ。彼女が振り向いた。笑顔だった。けれどもその笑顔のなかにある悲壮さを僕はやっと見つめることができたのだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ