隠しごと
昨日はエルマーと昼食を食べ、街を歩き、思う存分会話を楽しんだ。そのおかげか、いつになく気分が浮かれている。
そんなロベリアが、制服に着替えて、いつものきつい顔の化粧を施し、リンジー隊の詰所へ顔を出すと。
「あ、シレネ。なんかさ、陛下がすぐ、謁見室に顔を出せって」
「……陛下が?」
グイッと顔を近づけてくるダンから逃げつつ、ロベリアは怪訝な表情を隠さない。
小隊長なら、ごくまれに呼び出されることがある。だが、たかが一隊員をわざわざ呼び出すなど、聞いたこともない。
しかも、詰所へ出てきてすぐ、だ。
浮かれていた心も、足取りも。すうっと冷え切ってしまう。
「……仕方ないな」
ボソリと呟き、ロベリアは自分の机の引き出しを開ける。
そこには、目元を覆い隠すための仮面が、ズラリと並んでいた。しかも、どれもまったく同じ形だ。
そのひとつを手に取ったロベリアは、仮面をサッと目元へ当てる。両脇から出ている紐を後頭部できつく結んで、ついでのように腰の武器を確認した。
キリッとしているが女性らしい目元が隠れると、ますます性別がわからなくなる。
「やっぱり、シレネはその姿じゃないと、なんかこっちも気合いが入らないね」
「何なら、後で訓練につき合うか?」
「いや、それはちょっと……いや、絶対に遠慮するよ」
さりげなく腰に回そうとしてきたネイサンの腕を、手刀で容赦なく叩き落とす。叩かれた場所を押さえて悶絶しているネイサンには、見向きもしない。
仮面は嫌でも視野が狭まるから、少しだけ苦手だ。
そもそも、仮面をつけ始めた理由は、化粧だけではいずれ素顔が見破られる心配があったからだ。ただ、夜は暗くて顔はわかりづらいことと、視界が利きにくいため、基本的には仮面をつけないようにしている。
(父さんの娘とわかると、いろいろ面倒だからな……)
警備隊には、父が死んだ理由を知る者しかいない。そして、仇と言える第一王子を、絶対に憎んでいない、殺したいとは思わないと、証明することは難しい。
警備隊の『シレネ』は、前隊長グレッグの娘ロベリア。そのことを知っているのは、リンジー隊の面々と、現隊長および副隊長と各小隊長のみだ。そして彼らは、ロベリアが第一王子に対して、二心を持っていないと信じてくれている。
他は、国王も含め、じゃじゃ馬が過ぎたどこかの貴族令嬢とでも思っていることだろう。
そのために、素顔を知っている者には、徹底して顔を隠してきた。その上、堂々と『シレネ』が偽名であることを告げてある。
それでもなお、王国警備隊にふさわしい者として。『シレネ』は入隊試験に合格し、今も残留し続けているのだ。
「では、私は謁見してくる」
「いってらっしゃぁ~い」
今までで最強に気色の悪い、ヴィンスの声を背中で聞く。一瞬で何もかもが嫌になり、げんなりするほど強い脱力感に襲われる。
ロベリアは、クラクラする強烈な頭痛を堪えてドアを開けた。
詰所は、各隊と隊長、副隊長の部屋がある。ロベリアが着替えをしているのは、物置となっている部屋のひとつだ。必要なものはすべて他に移したため、今は完全にロベリア専用の更衣室となっている。
閉まっている各部屋のドアを、何となく横目に見ながら。コツコツと軍靴を鳴らして、ロベリアは黙々と歩いていく。
仮面をつけ、他の隊員よりひと回り以上小柄な隊員。それが『シレネ』だ。見てわかる特徴があるからか、見かけてもわざわざ声をかけてくる者はいない。
一旦外に出て、城へ向かう。
警備隊の制服と、仮面。たったこれだけで、名乗らなくとも、門番はすんなり通してくれる。恐らく、即座に通すよう伝えられているのだろう。
詰所と違い、華やかな絵画や、色とりどりの花が飾られた花瓶が、地味になりがちな城内を彩っている。下働きの者たちも、ひと目でそれとわかるものの、清潔感のある格好だ。
廊下を歩き、階段を上り、謁見室へと突き進む。
「謁見希望者。王国警備隊、シレネ」
謁見室前の番兵が、ドアに向かって声をかける。かすかないらえがあり、番兵はおもむろにドアを開けた。
他国からの訪問者も訪れる謁見室は、城内の廊下より、さらに豪奢な印象だ。
入り口から玉座まで敷かれた赤い絨毯は、踏むと足がググッと沈み込む。両側に並ぶ窓は大きめで、謁見室の中は十分明るい。加えて、天井にもいくつか、明かり取りの窓が作られている。
絨毯を踏みしめて歩いていると、玉座に座る人物がはっきり見えてきた。
口元を覆う髭が、厳めしさを強調する。堂々として威圧感さえ受ける王は、本来の体躯以上に大柄に映った。
そんな王の斜め後ろに立つのが、前髪で顔の上半分を隠した第一王子だ。今日はさらにうつむいているため、なおさら顔がよくわからない。猫背に加え、王のそばということもあって、単独で見た時よりずっと小さく感じられる。
一定の距離で立ち止まり、その場でロベリアはスッと跪く。
「シレネよ、我が息子エルバートに、稽古をつけてやってくれんか?」
挨拶もなしに、いきなり本題へ入った王を、思わず見上げかけた。そこをどうにかグッと堪える。ロベリアは赤い絨毯をジッと睨みつけ、あれこれ返答を考えた。
まず、問題になるのは『エルバート』という名だ。
(……よりによって、第一王子に、私が?)
稽古をつけること自体は、やぶさかではない。しかし、第一王子についてこられるのか。そこが最大の難関だ。
せっかく時間を割いたのに、途中で投げ出した。そんな無意味な結果を、ロベリアは最も嫌っている。
そもそも、警備隊長でも小隊長でもなく、一隊員でしかない自分に。なぜわざわざこんな頼みをしてくるのか。そこが、どうしても解せない。
「忙しいとは思うが、エルバートたっての希望だ。どうか頼めぬか?」
「……ありがたいお申し出ではありますが、私が引き受けるからには、中途半端は許しません。最後まで逃げ出さずに、エルバート王子がこなしてくれる。そう確信が持てるまで、引き受けることはできません」
そもそも、本人たっての希望というなら、当の本人からひと言あるべきだ。これでは、やる気というものが大きく削がれてしまっても、致し方ないだろう。
「ですから、とりあえず一ヶ月でかまいません。病気などの理由がない限り、エルバート殿下が毎日、腕立て伏せと腹筋を二十回ずつ、城の周囲を三周走ること。それらをきっちりとこなせた場合にのみ、お引き受けします」
ロベリアはどちらも三倍以上、毎日こなしている。それを王は知っているから、何も言えずに低くうめいた。
「……やります」
静寂の隙間を縫うように。覇気のない声で、ひっそりと呟かれた言葉。
思わず耳を疑い、ロベリアは顔を上げる。エルバートは相変わらず、うつむいて小さくなったままだ。
「あなたの言ったことを、やります」
今度はもう少し大きな声で、弱々しいながらもはっきりと。ジッと顔を伏せたエルバートが囁く。
「わかりました。では、確認の意味も含め、私の前でこなしてください。そうですね……毎日、午前中に行いましょうか」
夜勤明けでも、日勤でも、午前中ならば対応できる。だから、そう指定したのだが。
ことさら深く考えることなく、素直にこくりと頷いたエルバートに。ロベリアは、なぜか鬱々とした気持ちを抱え込んだ。
†
午前中、の指定どおり。エルバートは毎日詰所を訪れ、ロベリアが見ている前で黙々と課題をこなした。
これでもう、十日目だ。
(……噂に聞く出来損ないとは、到底思えないな)
腕立て伏せにしろ、腹筋にしろ。たった数回で音を上げると思っていたのに。
意外なことに。エルバートは、楽々とは言わないが、毎日すべてやり遂げている。
「十九……二十。今日の分も終了ですね」
終始うつむき加減で、腹筋も終わらせた。そんなエルバートが城へ入っていくのを見守ってから、ロベリアは詰所へ戻る。
ここまでが、すっかり日課になっていた。
夜勤明けの今日、今から明日の朝まではリンジー隊の休日だ。
もうじき、日勤の隊が合同で訓練を始める。
詰所に人がいない隙に、さっさと着替えを済ませて出て行かなければ。
(……街に出たら、また会えるかしら)
ニコニコしっぱなしのエルマーを思い出して。ロベリアの顔には、ふわりとしたやわらかな笑みが、ごくごく自然に浮かんだ。
誰にも見つからないように、こっそりと。手早く着替えを済ませたロベリアは、そっと詰所を後にする。グルリと城壁のそばを歩き、人目に触れなくなったら姿を現す。そして、門から堂々と、ロベリアとして出て行くのだ。
門番が入れ替わるのは、夜明けと日暮れを知らせる鐘が鳴る頃。それも、朝と夜それぞれ、二人一組が四組で、交代しながら二つある門の番をする。
だからこそ、顔ぶれが変わった直後を狙えば。それほど違和感を与えずに、すんなり通り抜けることができてしまう。
もちろん、警備隊の制服を着ていれば、警備隊専用の通用門からも出入りは可能だ。しかし、外に着替えられる場所はない。シレネの格好で街を通って自宅に帰るのは、無意味な危険が伴うばかり。
髪を短く装い、化粧でパッと見た時の印象を変え、仮面をつける。これは、入隊試験でもやってのけた。着替えに関しては、配属される隊が決まった後、警備隊長たちと相談の上で決めたことだ。
(入隊以前から、ロベリアとして詰所には来ていたから……)
街へ出たついでに、父の顔を見たくなって。そんな口実に手土産持参で、ふらりと詰所を訪れていた。詰所に差し入れする習慣は欠かしていない。今では、渡した後で着替えて、シレネとして現れているだけだ。
とにかく、大多数には、実はロベリアであることを知られてはいけない。そう考え、懸命に隠している。
前回同様、着替えを入れた鞄は自宅に置いて。かすかな期待に、フワフワと浮かされながら。貴重品の入った小さな鞄ひとつ持って、ソワソワしながら街の広場へ向かう。
賑わう広場は、相変わらず人があふれている。エルマーを見つけることは難しそうだ。
(そういえば、兄様からは、義賊に盗まれたことのある貴族はかなりいるらしいと聞いたけど……)
城で働く兄の耳には、ちょこちょこと噂が入ってくるようだ。そうして聞いたことを、噂だけど、と前置いて教えてくれる。
警備隊員であることを秘密にし、あれこれ理由をつけて夜会には出ていないロベリアにとって。こうして兄がくれる情報は、非常にありがたいものだった。
兄だけでなく、他の隊からも。連日連夜、不審者と遭遇した報告が上がっている。うまくいけば、近いうちにとらえられるかもしれない。そんな期待があったものの、今回、リンジー隊は誰も不審者と会うことがなかったのだ。
ピンと張り詰めた挙げ句の落胆は、気力を大きく削いでくれた。
(……この夜勤が順番で、何があっても絶対に崩れないなら、エルマーにも会える日を伝えられるのにね)
家族や親密な友人にかかわる祝いごと。恋人との、貴重な休日。
そういったさまざまに、休みを取ることはできる。その代わり、休んでいる隊員のいる小隊は、夜勤から外されてしまう。結果、人数のそろっている小隊が繰り上がるのだ。飛ばされた小隊は、翌日以降でそろっている日に夜勤が待っている。
恋人でも、家族でもない相手と、単に会いたいから。そんな理由では、どう頑張っても休みはもらえない。
ため息をこぼしそうになって、ロベリアは慌てて飲み込む。
何となく、今、ため息をついたら、エルマーと絶対に会えなくなる気がしたのだ。
(会えても会えなくても、眠くなる前に帰らなきゃ)
まだ眠くないのは、きっと、再会の期待に胸を躍らせているからだろう。しばらく歩いて会えなければ、あっという間に眠くなるに違いない。
再度、広場を見回してみる。けれどやはり、エルマーらしき人影は見当たらなかった。
(今日は縁がなかったのね……残念だわ)
無意識に思って、しかし違和感を覚えない。
「ロベリア!」
縁がないものは仕方がない。そう考え、広場を後にしようとした瞬間だ。
ゆっくりと、緩慢な動作で振り返った先に、肩で息をするエルマーがいた。
「よ、よかった……間に合った」
ふうっと息を吐き出して、エルマーはニッコリ笑う。
「チラッと見えたから走ったんだけど、移動しそうだったから焦ったよ。でも、毎日ここに来てたかいがあったかな?」
「……毎日、来ていたの?」
隠していることを、残らず打ち明けられないから。彼を日参させていたことが、あまりに申し訳なくて。
「ごめんなさい……」
「どうして謝るの? 僕も長い時間、ここで見てたわけじゃないし。ちょっとすれ違ってただけだよ」
違う。そうじゃない。
そう言ってしまえたなら、楽になれるのだろうか。
ゆるゆると顔を伏せたロベリアは、スカートの下にチラリと顔を覗かせているつま先へ視線を落とす。
「ねえ、ロベリア」
腰をかがめて、顔を覗き込んで。目が合ったエルマーは、パッと破顔する。
「やっと会えたんだし、笑ってよ」
無邪気な彼に対する申し訳なさが、堪えきれなかった。
ゆるりと数回首を横に振って、ロベリアは踵を返す。その足で、今が『ロベリア』であることも忘れて駆け出した。
変わらない速度で、長々と走る。短い距離を全力で駆け抜ける。そのどちらも、割と得意な方だ。いくら軍靴でないとはいえ、細い踵の靴ではない。貴族子息と思われるエルマーは、きっとすぐに諦めるだろう。
ただ、相手に追いつかれない速さで、逃げ切るまで走った経験はない。未知数の挑戦だが、ロベリアには投げ出すつもりは一切なかった。
人の間をスルスルと縫って、人気のない方向へ。自然と足は、街の外れへ向いている。
街の外に出るのは、検問があって時間を取られてしまう。街の中だけにこだわれば、逃げ続けることは可能なはずだ。
墓地へ続く道の手前で、分かれ道を街側へ進む。墓地は行き止まりなので、入り込むわけにはいかない。
そのままの速度で、念のため、街の外周を半周ほど回った。
さすがに、もういないだろう。
少し速度をゆるめて、ロベリアは全身で振り返ろうとする。
視界の外で、タタッ、と軽快な足音がした。
「……追いついた!」
ガクンと衝撃を感じ、体が勢いに負けて倒れ込む。視界が暗くてはっきりしないが、体が背中から落ちていく感覚がある。
何が起きたのか。
まったく把握できなかった。しかし、すっかり習慣づいたロベリアの体は、とっさに受け身を取ろうとする。
(え……?)
何かに邪魔をされて、受け身が完璧にはできなかった。
首をできるだけ丸め、頭はどうにか守り抜く。しかし、腕や体が自由に動かせない。そのため、背中はほぼ勢い任せで、地面に叩きつけられる。
激しい衝撃で息が詰まり、声も出せない。
そっと呼吸するだけで、体のあちこちがキシキシ、ズキズキと痛む。
「わっ、ゴ、ゴメン!」
慌てている声が聞こえたが、苦痛をやり過ごすだけで精一杯だ。目を明けて確認することさえ、今は億劫でたまらない。
「ロ、ロベリア……大丈夫?」
ギュッと目を閉じて、唇を引き結んだまま。ロベリアは、かろうじて首を上下させた。
ケガをしたような痛み方ではない。何かあるとしても、せいぜい、大きな青あざが背中にできるくらいだろう。誰かに背中を見られることなどないし、その程度なら後に響くほどのことではない。
気合いと根性で、どうにかできる範囲だ。
「本当にゴメンね……勢い余って、君にぶつかるなんて……しかも、守れなかったし……」
懸命に謝っている声は、間違いなくエルマーのもので。
そのことに気づいた瞬間。襲っていた痛みなど、どこかへ吹き飛んでしまう。
全力で駆けた時は、警備隊の中でも五本の指に入れる。そんな速度で駆けたのに、ちっとも引き離せなかった。
その事実が、あまりにも衝撃的で。
「それにしても」
ふわっ、と顔にかかった吐息に、思わずパッと目を開ける。
「ロベリアって、本当に足が速いんだね。僕、足には結構自信があったんだけど、ちょっと置いていかれそうだったよ」
痛みが原因ではなく、声が出せなかった。ただ、目を見開いて、そこにあるものをまじまじと見つめるだけ。
(……え?)
エルマーの顔が、思ったより近い。それこそ、接近して話す癖のあるダンと、ほとんど変わらないくらいに。
これがダン相手なら、遠慮なく「近い」と文句をつけるところだが。
「……どう、して……」
聞きたいことが多すぎて、まずは何から問うべきなのか。
混乱しきった頭はまったく働かず、ただ口を開け閉めするだけだ。
「どうして、って……それは僕が聞きたいよ。どうして君は、いきなり駆け出したの? ……もう、僕と話したくなかったから?」
問われた原因はないと、ゆるゆると首を横に振って否定する。けれど、理由を残らず明かせる勇気は、一向に湧いてこない。
「じゃあ、どうして?」
真摯でひたむきで、痛いほど真っ直ぐな。彼の視線を至近距離で、残らず受け止めきれなかった。
浴びれば浴びるほど、ひた隠しているもうひとつの顔が、無性に疎ましくなりそうで。
「……実は、婚約者がいるからって言われても、驚かないよ。もしそうなら、覚悟をもろもろ決めて、正々堂々と君を奪い去りにいくから」
あまりに真剣な眼差しに。
ロベリアは慌てて、首をブンブン横に振る。
「婚約者がいるなら、最初に言っているわ」
「……じゃあ、もう結婚してるの?」
「それなら、やっぱり最初に伝えてるわ」
一生を添い遂げると決めた相手を、裏切ることなど考えられない。
「あ……うん、そうだよね。ロベリアは、誰からも真面目って言われそうな人だもん」
言外を察したのか。エルマーは照れたように横を向き、左手を持ち上げようとして、焦った様子で左手を地面に置き直す。
エルマーの態度に、安心したのか。ほろりと、言葉がこぼれ落ちる。
「……私ね、隠していることがあるの」
だから、逃げた。
そうつなげるには、まだいくらか言葉が足りない。けれど、これ以上は、ひょっとしたら察知されるかもしれない。
そんな可能性を、大いに危惧しなければいけないだろう。
「エルマーだけじゃなくて、家族とごく一部の人以外は知らないことなの……」
「……それは、今、僕が聞いても、教えてくれないこと?」
頷くことで返事に代えた。
エルマーは吹聴する人間ではない。それは信じられる。
しかし、何がきっかけとなって、どこから真実が漏れるか。それは、ロベリアにもわからない。
万全を期すことが不可能ゆえに、慎重にならざるを得ないのだ。
「どうしても?」
もう一度、はっきりと首肯する。
「……僕も、君に秘密にしてることがある。そう言ったら、君はどうする?」
「誰だって、隠しごとくらい抱えているでしょう? 聞こうとは思わないわ」
生真面目で仕事の鬼、と城で言われている兄ですら。それまで一切匂わせず、ある日突然婚約者を連れてきたのだ。両親も驚いていたことから、それは見事な隠しぶりだったのだろう。
エルマーの秘密がどんなものか、想像はつかない。けれど、取り立てて聞き出すことでもない。
「……ねえ、ロベリア。君は、僕の秘密が気にならないの?」
「ならないわ」
「……そんなに、僕に興味がない?」
思ってもみなかったことを問われ、ロベリアは首をこてんと傾げて瞬きを繰り返す。
「僕は、ロベリアが隠していることがどんなことか、気になるよ。教えて欲しくてたまらない。……ロベリアは、違うの?」
「人が隠していることに、興味がないだけよ」
他人に知られたくないから、隠すのだ。知られてもかまわないなら、わざわざ黙っている必要はない。
隠していることを無理に聞き出す趣味など、あいにく持ち合わせていない。
「……じゃあ、別に隠す必要のないことなら、教えてくれるんだよね? あえて君に聞くけど、第一王子をどう思ってる?」
よりによって。
そんな言葉を、真っ先に言い放ちたくなった。そこをグッと飲み込む。
(エルマーは、あえて、と言ったわ。つまり、どういう理由でかはわからないけれど、私を前警備隊長の娘と認識しての問いかけね……)
頭がすうっと冷静になると、答えるべき言葉はすんなりと見つかった。
「よくわからないわ」
「え……?」
「だって、あまり見かけないもの。噂は聞くけれど、どんな人となりか、ほとんど知らない方のことを聞かれても、他に答えようがないでしょう?」
できるだけ、ニッコリ微笑んで。不自然に見えないように、言葉を選びながら。警備隊とは無縁の小娘を演じなければ。
「それとも、エルマーは、よく知らない人のことを聞かれて、いろいろ答えられるの?」
「え……あ、いや、できない……よね」
「ね? 私は、自分で責任を持てないことは言わないって決めてるの。それより」
一度言葉を切って、エルマーの青緑色の瞳をジッと見つめる。
「また、ラナーンを買ってきて、一緒に食べない?」
エルマーは、しばらく目をパチパチと瞬かせた後。プッと小さく噴き出した。
「君は、本当に、ラナーンが好きだね」
「ええ、大好きよ」
パッとはじける笑顔で。心の底からそう思っている声音で。ロベリアはきっぱりと断言した。
†
午前中に、エルバートは課題をこなしに来る。黙々とやり遂げた後、黙って帰っていくのが常だったのだが。
「……シレネ」
ぽそりと呼びかけられ、気づかずに一度目は聞き流した。少し声を張り上げた二度目でようやく気づいたロベリアは、仮面の奥で怪訝な色を瞳に宿す。
「何かご用ですか?」
「……えっと、シレネは、最近、街を賑わせている義賊を、知っていますよね? あの、ああいう存在を……その、シレネ個人は、どう思いますか?」
ポソポソとオドオドした口調で問われ、味わわされた落胆を思い出す。思わず、眉をギュッと寄せた。
昨日はエルマーに、第一王子について聞かれ。今日は今日で、その第一王子に、義賊について聞かれるとは。
(他人について誰かに聞くことが、社交界では流行っているのだろうか……)
ハアッとため息をついたロベリアは、肘を張って、握った右拳を胸に当てる。
「他の方の見解は知りません。ただ、身銭を切るならまだしも、他人の金品を奪い、それを施す行為には、私は賛同しかねます」
はっきり、きっぱり、冷ややかに言い切ったシレネに。なぜか、エルバートの口元に、ひっそりした笑みが浮かんだ。
エルバートが戻っていくのを見守ってから、詰所へ戻る。とたんに、ダンが猛烈な勢いで駆け寄ってきた。
「ねえ、シレネ!」
「だから、顔が近いと何度言えば……」
「それどころじゃないって! 何か、ロベリアに関して、変な噂が流れてるんだけど!」
「変な噂?」
シレネに関して流れるならば、そう気にはしない。どうせ、元々存在していないに等しいのだ。しかし、ロベリアに関することは、そのまま受け流すわけにはいかない。
「ちょくちょく、見たことない男とデートしてるって。心当たり、ある?」
「……ああ、誰かに見られたのか」
ロベリアを知っている者は、街にはそれなりにいる。
あれだけ堂々と、二人並んで街を歩き回れば、嫌でも誰かに見とがめられるだろう。これまで話題に出なかったのが、かえって不思議なくらいだ。
「え、ちょっ! 誰!?」
「先に言っておくが、私はエルマーという名前しか知らないぞ。それも、本名かどうか、私には確かめる術もないしな」
「何で? ねえ、何で!?」
問い詰めてくる理由を聞きたいのは、こちらだ。
そう言い放ちたいのをグッと堪えて。さらにググッと近づいてきたダンから、ロベリアはスルリと逃げる。
「夜勤明けに絡まれた時、助けてもらった縁だ。ちょくちょく、と言うが、会ったのは昨日で三回だな」
「いや、十分事件だって! だって、ロベリアが、ロベリアが……うわーっ!」
突然叫んで、頭をガシガシとかきむしっている。
そんなダンが薄気味悪くなって。ロベリアは露骨に眉を寄せ、さらに彼から距離を取った。
「ロベリアにも、とうとう春が来たのか」
感慨深げに呟いたリンジーに、ロベリアはあからさまに訝しむ視線を向ける。
「特に何もないと思いますが……ただ、私と一緒に、ほぼ同じ量のラナーンを食べられる人間には、初めて会ったものですから。そういう点では、非常に貴重かと」
詰所にいたリンジー隊の面々が、一斉に噴き出した。
運悪く、非常に運悪く。たまたま茶を飲んでいたまともな一人は、ゲホゴホと激しくむせて床に突っ伏した。彼のそばには、テーブルからポタポタとしたたる水滴で、小さな水たまりができている。
「……そ、それは、確かに、何もないな」
まだ笑いの残る声で言い、リンジーは苦笑いを浮かべた。
「っていうか、ロベリアと同じだけ、ラナーンを食べるって……」
「普通はひと皿か、せいぜいふた皿よねぇ? ロベリアちゃんって、五皿は食べるんでしょう? 二人で、最低でも十皿ぁ? いやぁん!」
いつも以上にクネクネしているヴィンスを、絶対に視界に入れないように。ロベリアはわざとらしく、視線をあらぬ方へ向けた。
そこでは、ツボに入ったと思しきネイサンが、息も絶え絶えに笑い転げている。
「……そういうわけで、いわゆる春の訪れがあるとは思えません」
きっぱりと言い放って。ロベリアは汗に湿った仮面を外し、新しいものとつけ替えた。