王国警備隊の紅一点
あれから人影を見ることはないまま、シレネは夜間警らを終えた。合流した同僚たちとともに、城にある詰所へと戻る。
詰所には、各小隊ごとの部屋が用意されている。そこで警らの報告書を書き上げ、交代要員が来る夜明けまで、暇をつぶしながら待機しなければならない。
シレネが所属するのは、王国警備隊だ。その名のとおり、ファナクルアス王国の王都近辺の治安維持を主な目的としている。基本的に城で詰め、日夜、訓練や警備に明け暮れるのが仕事だ。
国王直属の部隊ということもあり、王国警備隊には誰でも入れるわけではない。
腹筋と腕立て伏せを各百回以上、ウサギ跳びで城の周りを十周以上、通常の駆け足で城を二十回以上の周回。さらに、王族や貴族と接する機会も多いため、上流階級における常識や、幅広い知識も求められる。
これらの内容は、試験を受ける人間によって増減することはない。
真っ白な生地のコートとズボンに、黒の縁取りと軍靴。これをまとうためだけに、シレネは幼い頃から、懸命に体作りに励んできたのだ。
もっとも、今のところ、警備隊が相手にするほとんどが、義賊と呼ばれる者たちだ。
義賊は、貴族の屋敷から金品を盗み出す。品物は換金し、貧しい庶民の家々に配り歩くのだ。治安維持の観点からは、絶対的に取り締まる必要がある。しかし、肝心の貴族からは、盗難の届け出が一切出てこない。
夜に出歩く不審者を捕まえる。それ以外、王国警備隊が義賊を処罰する方法がないのが現実だ。
飴色の短い髪を指先でふわっと持ち上げ、軽く空気を含ませる。目尻がやや上がった、きつい印象のある緑色の瞳が、周囲を神経質そうに見回す。
背筋をしゃんと伸ばして、シレネはスッと立つ。きっちり化粧をしているにもかかわらず、どこか中性的な雰囲気を漂わせている。
「なあ、シレネ。明後日の朝までの休み、なんか予定があんの?」
グイッと顔を近づけてきた同僚から、詰められた分だけ自然と距離を取る。
見たところ、彼はシレネと変わらない年頃のようだ。
「ダン、相変わらず顔が近い。今回は、姉さんへの贈り物を選んで、後は父さんに会いに行くくらいだ」
「あらぁ? もうそんな時期?」
妙な艶と抑揚のある野太い声は、二年聞き続けて、ようやく慣れてきたところだ。それでも、どうしても顔が引きつってしまう。
恐らく、警備隊随一の整った顔立ちなのに。クネクネしながら近寄ってきた同僚からは、無意識に体ごと退いていく。
「今年は入隊試験が早かったから、うっかり忘れそうだったよ」
トン、と背中に何かが触れた。壁や棚といった類いではなく、もう少しやわらかい。
「……ネイサン、私に触るな、と何度言えばわかる?」
腰に差した金属製の棒に手を置くと、背中の感触がフッと消える。かと思うと、今度は肩に似たようなものがドン、と遠慮なく乗ってきた。
金属の棒を引き抜く振りをして、シレネは左手で左腰の後ろにある短剣をスッと引き抜く。馴れ馴れしく肩に回された腕に、ピタリと正確に突きつける。
「利き腕と顔、どちらをダメにされたい?」
「腕!」
「よし、顔を出せ」
「ちょっ、シレネ……聞いた意味は?」
「いいから顔を出せ」
知力、体力、顔面。すべてに優れた者が集まっている。そう謳われる王国警備隊だが、隊員の性格にまでは重きを置いていない。その結果、シレネは、やけに個性的な同僚たちに囲まれている。
比較的まともな他の隊員に聞いたところによると、どの隊でも少なからず問題児がいるらしい。
(……まあ、必要のない世話を焼かれたり、犯罪者は全員死刑と言い出したり、急にフラッといなくなったと思ったら女の子を口説いてる、っていうわけじゃないから、まだマシ……じゃないな、この部隊も)
誰にでも顔をグッと近づけて話しかけるダン。クネクネとしなを作り、野太い声で場末の女店主のようなしゃべり方をするヴィンス。何度注意しても、やたらとベタベタ触ってくるネイサン。
まともな隊員二人と、シレネ。部隊長のリンジーを加えた七人が、王国警備隊リンジー隊の面々だ。
王国警備隊は、七人の小隊が十集まって構成されている。警備隊長と副隊長は独立した指揮系統で、彼らの下に小隊長十人と、各小隊長に六人の隊員がいる形だ。
もちろん、さまざまな要因で、小隊が七人ではないこともある。
足りない部分は、翌年以降の入隊試験に合格した者で補う。不足がなければ、入隊試験自体行わない。その上、中途入隊は絶対に認めない。それが決まりだ。
「私は報告書を書くから、邪魔をするな。邪魔立てしたやつは、休暇明けに私の訓練につき合わせてやる」
一度入隊できたら、王国警備隊にずっと残れるわけではない。ふさわしい者かどうか、毎年試験が待っている。その試験のために、シレネは自主訓練を欠かさない。
「げっ……シレネの訓練になんかつき合わされたら、その日は死亡決定じゃん」
「シレネちゃんったら、残留試験、去年も今年もトップ合格だものね」
ネイサンとヴィンスがため息を混ぜつつ、ボソボソと言葉を交わしている。それを聞こえない振りで通し、シレネは自分の机で報告書と向き合う。
夜間警らで、不審者を発見したこと。単独で声をかけるという手抜かりを犯し、逃げられてしまったこと。見かけた位置と、見失った位置。使っていた道具や、逃げる時の身軽さなども書き加えていく。
「ふむ……シレネが会ったのか」
報告書に夢中になっていて、声が降ってくるまでまったく気づかなかった。これもまた、警備隊としては大きな失態だ。
慌てて立ち上がり、シレネは額に左手を当てて敬礼する。
「街の外から、城の方角へ逃げた、か。しかも、屋根を伝って逃げるとは……確かにずいぶんと身軽な賊だ。その賊がいた辺りは、調べたか?」
「あ、いえ……失念しておりました!」
その足で飛び出していこうとするシレネを、彼は手で制した。
「ああ、シレネは行かなくていい。位置もわかっているし、他の隊に頼んでおく」
「し、しかし……」
「今日は早く上がって、グレッグさんのところへ行ってあげてくれないか。きっと、君が来るのを、今か今かと待っていらっしゃるだろうから」
不意打ちで父の名を聞き、シレネは大きく目を見開く。軽く目を伏せ、こくりと素直に頷いた。
着替えるために、詰所を辞して左に向かい、隣の部屋に入った。ここだけは、中から鍵がかかるようになっている。
「さて、と……」
まずは、姿見で確認しながら化粧を落とす。綺麗さっぱり落としてしまうと、きつくて中性的な印象は消えた。代わりに、やや垂れ目気味の、ぼんやりした顔が映っている。
次にシレネは、後頭部に手を当てた。ゴソゴソと触り、いくつかの細い髪留めのピンを外す。一本外すごとに、短かった髪から、サラリと長い髪がこぼれ落ちていく。
それから制服を脱ぎ、綺麗に畳む。持ち帰るために布に包んで、大きめの可愛らしい鞄に放り込んだ。軍靴は脱いで、決められた場所へ置く。
あられもない下着姿のまま、シレネは部屋の隅にある棚を開いた。
箱を取り出してふたを開けると、中には化粧品がずらりと並んでいる。慣れた手つきで、シレネは姿見を見ながら化粧を施していく。
「これでいいわね」
鏡の中でニッコリ微笑むのは、目尻が垂れて愛敬のある、おっとりしていそうな少女だ。
王国警備隊の一員とは思えない、ほっそりした腕や体つき。サラリと流れる長い髪と相まって、どこぞの貴族令嬢でも十分通る。
化粧品をしまった箱を棚に戻し、そこから今度は服を取り出す。
丈が長く、ふわりとスカートが広がるワンピースだ。肩紐はレース編みの花が連なったもので、袖はない。胸元や裾にも、綺麗なレース編みの花が飾ってある。その服を着て、薄い長袖のボレロを羽織った。靴も、服装によく似合う、可愛らしい薄茶のショートブーツだ。
仕上げに、つばが広く、幅広のリボンがついた、白い帽子をかぶる。
誰が見ても、そこにいるのは、王国警備隊のシレネではない。警備隊姿しか知らない者には、まったくの別人に映るだろう。
シレネは荷物を持って鍵を開けると、出て左に向かう。他の部屋はなく、すぐに外へとつながっていて、人目に触れにくいからだ。
空はすでに、うっすら白み始めていた。街では、朝の早い職人たちが動いている気配がする。
「あ、ロベリアさん……!」
街へ続く門で番をする片方に、正しい名前を呼ばれた。
年頃は、シレネ──ロベリアと大差ない。彼の顔に何となく覚えのあるロベリアは、ニッコリ微笑んでみせる。
「今日は早いですね」
「ええ。今日は、父の……。だから、早めに警備隊へ差し入れて、これから父のところへ行こうと思っているの」
「あ……もう、二年なんですね」
まだ、二年だ。
そう言いたい気持ちをグッと堪え、ロベリアはにこやかに笑みをたたえ続ける。
「……また、来ますね」
何とか出てきた言葉は、たったこれだけ。
もう一度口を開こうものなら、恐らく暴言が出てしまうだろう。
「は、はい! 行ってらっしゃい!」
邪気のない、ニコニコしている彼に、文句を言うつもりはかけらもない。だからロベリアは、さっさとその場を後にする。
肩に鞄の紐をかけて、ロベリアは足早に、街の外れへ歩いていく。
細い丸太で作られた柵に囲われる、ひっそりとした寂しい場所。ここが、今日一番の目的地だ。
一歩踏み出すたびに、サクサクと土を踏み砕く。
あまり訪れる人がいないのか、地面には足跡ひとつない。
「父様、一年ぶりね」
地面に無造作に置かれた大きな石の前で、ロベリアは立ち止まって呼びかける。
「夜勤明けで真っ直ぐ来たから、花は持ってきてないの。後で、持って来るわ」
なめらかな石の表面には、年号と日付、名前らしき言葉が刻まれていた。
年号は二年前。日付は、今日だ。
「私ね、今年も残留が決定したの。それも、全隊員の中で、一番の成績で。父様にも、見せたかったわ」
王国警備隊に入るのは、子供の頃からの夢だった。その夢には付随しているものがあったが、そちらはもう、永久に叶わない。
「……私の警備隊姿も、父様は見ないままね」
自慢の娘だと、だらしなく相好を崩す父が見たかった。
娘が褒められて、嬉しそうにする父が、どうしても見たかった。
父の下で、国のために働きたかったのに。
「……入れ違いになるなんて、ひどいわ」
二年前のこの時期、ロベリアは十四歳で、史上初の女子警備隊員となった。その入隊試験の三日前に、父は、第一王子を狙った暗殺者によって命を落としたのだ。
当時は、暗殺者よりも、第一王子を深く恨んだ。
第一王子さえ、いなければ。
そう考えたこともある。だが、父が命を賭して守った人だ。その人の死を願うのは、父の命を意味のないものにするのでは。
(……せめて、第一王子が、父様が守るだけの価値がある人だと、思わせてくれたら)
あれから二年経っても。考えを改めた今でも。やはり、どうしても、素直に第一王子を評価することはできないでいる。
「……ねえ、父様。どうしてあの日、第一王子を助けたの?」
しんと静まり返った空間に、ロベリアの穏やかな声だけがしめやかに響いた。
†
一旦帰宅したロベリアは、警備隊の制服を置いてから、姉への贈り物を探しに出かけた。
二つ上の姉は、もうすぐ結婚する。このところ、暇さえあれば、そのお祝いの品を探しに行くのだが、なかなかコレというものが見つけられないでいた。
(できれば、長く使って欲しいわ。でも、姉様が自分で決めたいと思いそうなものは、やっぱり贈れないし……)
結局、結婚祝いとしては無難な、普段使いのリネンで落ち着きそうだ。
リネンを扱う店へと、ロベリアは即座に足を向けた。その店は、豊富な品ぞろえと、客の注文に応えてくれることで知られている。そのためか、いつも賑わっていて、じっくり眺めるのも一苦労だった。
(姉様は、花が好きだから……)
無地のリネンも、淡い色合いが綺麗で目を引く。しかし、ロベリアがついつい目を向けてしまうのは、淡い色の地に色とりどりの花が咲く、可愛らしいリネンばかりだ。
定番はバラ、コスモス、ダリア、ヒマワリ。華やかさでは劣るが、愛らしさは抜群の、スノードロップやかすみ草やロベリア。変わり種に、シレネやリナリア、アイビーにロニセラまである。
(兄様ならともかく、姉様にシレネの描かれたリネンを贈っても、笑い話にすらならないものね)
花が好きだった父にならい、偽名を花の名前にした。
偽名で王国警備隊にいることを、姉はよしとしていない。父がくれた名に誇りがないのか、と叱られたこともある。そんな姉を、城で働く兄は窘め続けてくれた。兄自身も、父の息子という肩書きに、ひどく苦しめられたからだろう。
もちろん、姉の気持ちは理解できる。兄からしても、偽名と変装で周囲をやり過ごす自分が、気に入らないかもしれない。
それでも、今の状態を覆すつもりは、毛頭なかった。
(……どれがいいかしら)
ウロウロと迷った挙げ句。
ヒラヒラと舞い遊ぶ蝶のようなロベリアと、可憐に頭を下げるスノードロップ。鮮やかに咲き誇るバラとダリア。この四種類を、それぞれ地の色を違えて引き抜く。
贈答用に包んで、自宅に届けてもらうように頼むと、ロベリアは店を後にした。
次に向かうのは花屋だ。
「ロベリアの花を、花束にしてもらえますか?」
「ロベリアを、ですか?」
店員が驚くのも無理はない。
ロベリアは背丈が低く、花も小さくて、飛んでいる蝶のように可憐な花だ。根元近くから切っても、たくさん集めても、こぢんまりとした花束にしかできないだろう。
「亡き父が好きだった花なので、墓前にそなえようと思いまして」
理由を説明すると、すんなり納得してくれたようだ。
数回頷いた店員は、大きな鉢に数株を植えているロベリアの花を、なるべく長くて花の綺麗なものを選んで切り始めた。
赤、青、白、ピンク、紫と、とりどりの花が小さな花束へと変わっていく。
「できましたよ」
渡された花束は、ロベリアでも片手で持てる程度の大きさしかない。それでも、ロベリアは満足げにニッコリ微笑んだ。
「ありがとう」
代金を払って、わがままを聞いてくれたことへの礼を言い、店に背を向ける。
街中を通り、昨日も訪れた墓地へと足を進める。父親の墓前に花束を置き、そっと目を閉じた。
ひどく、感傷的な気分だ。
夜警で失態を犯したことも含め、どうにも気分が晴れてこない。
「……ねえ、父様。もし、私の声が聞こえているなら、教えて。あの日、どうして、第一王子のところにいたのか……それが、どうしても知りたいの」
いつ見かけても、前髪で顔の上半分が隠れている。自信がなさそうに、背中を丸めて歩く子だ。噂で聞く限りは、武芸も勉強もいまいちどころか、出来損ないと言われてもおかしくない出来らしい。
明るく朗らかで、懸命に知識を増やしている、彼よりずっと幼い第二王子。そちらの方が、よほど王子にふさわしいと言える。
そう考える者が多いからか、城内でも、第二王子につく者が幅を利かせていた。
(王子たちが、逆だったら……)
父がなげうった命にも、それなりにすんなりと納得ができたはずだ。
もう、二年経ったのに。まだ、そんなことを考える。
「……父様。また、来るわ」
今度も、一年後かもしれない。けれど、一年後の今日には、必ず来るだろう。
いつか、結婚しても。王国警備隊を辞める日が来ても。
この日にここへ来ることは、変わりそうにない。
きっと、夜勤明けで疲れていて、賊を発見したことで気が高ぶっているのだ。だから、あんなに感傷的になってしまったに違いない。
ここは一度戻って、しっかりと休憩か仮眠を取ろう。
そう決めたロベリアは、のんびり自宅へ向かっていた。
長いワンピースの裾をヒラヒラ、フワフワと遊ばせながら、店先を賑わせて歩く。
「──っ」
左腕にかけた小さな鞄が、いきなりクイッと引っ張られた。とっさに右手が左腰に伸びるも、無様に空振りするだけだ。
今は『シレネ』ではない。
痛感させられ、ロベリアは引っ張る主を振り払うことに主眼を置く。
「その手を離しなさい!」
ピンと糸の張った声で警告を発しつつ、勢いをつけて振り返る。
まったく見覚えのない顔が、三つ。年齢は、三人とも二十前後だろうか。
素手で、なおかつ私的な格好で、この人数を相手にするのは──あまりに不利だ。だからといって、怯む理由にはならない。
「聞こえなかったの? 私の荷物から、その汚らしい手を離しなさい、と言ったのよ」
強気で言い放つロベリアに、三人は呆気に取られたようだ。
ぽかんと口を開けた、間抜け面を披露する彼らに。ロベリアもようやく、第三者から見たこの状況が、いくらかおかしいものだと察した。
(……ずいぶんと、シレネが板についてきたのね)
切り替えたつもりでいたが、まだきっちり切り替わっていなかったのかもしれない。これもまた、眠気と興奮のなせる業か。
清楚でおっとりした、貴族令嬢。そう見える状態で、ごろつきと思しき彼らに啖呵を切るだなんて。
「僕にはちゃーんと聞こえたよ。お兄さんたちには聞こえないの? もしかして、耳が聞こえない人? えーっと、どうやったら伝わるかな?」
のんきな声が割って入ってきた。
ごろつきを警戒しつつ、ロベリアはそちらをチラリと見る。
額の真ん中で分けた、サラサラしたヘーゼル色の髪に、青緑色のぱっちりした瞳。幼さの強い顔立ちは、服装を変えたら少女にも見えそうなあどけなさだ。身長は、かろうじてロベリアより高い程度か。
総合的に判断して、どうやら彼は、自分よりいくつか年下の少年らしい。
男性なら誰でも着る。ありふれたシャツとズボン姿だが、生地はかなりいいものだ。妙な動きをしている点を除けば、どこかの貴族子息と言われて納得できる。
「何を、して……」
「声が聞こえないなら、身振り手振りで、君が嫌がってるってわからないかなって」
喉に何かがペットリと張りついて、言葉が続かない。だが、少年は言いたいことを理解してくれたようだ。
それでも少年は、言いたいことがこれっぽっちも伝わってこない、奇妙な動きをやめる気はないらしい。それどころか、ますます必死になって、大げさに手足や表情を動かし始める。
すっかり毒気を抜かれたのか。はたまた、あまりに真剣にやっている少年の必死さが、かえっておかしくなったのか。ごろつきたちは首を何度か横に振って、いびつな表情で去っていく。
ごろつきたちが完全に見えなくなるまで、少年はひたすら妙な動きを続けていた。
当然、周囲からも哀れむ視線を向けられている。
「えっと、大丈夫? ケガはない?」
「え……ええ」
パッと動きをやめて、ニコッと微笑んだ少年に。ロベリアも大いに戸惑った様子で、しどろもどろになってしまう。
「そう、よかった。こんな綺麗な人に何かあったら、空も太陽も木々も花も、もちろん僕も、悲しくなるからね」
私的な時間でも、できるだけ目立たないようにしている。だから、容姿を女性らしく褒められることには、ちっとも慣れていない。
自分の意思とは無関係に、頬がじわじわと熱くなる。
「でもね、いつだって誰かが助けてくれるわけじゃないんだから、ああいうのにケンカを売るようなことは言っちゃダメだよ?」
何かが引っかかった。
まだ幼かった頃に、誰かから同じようなことを言われた。そんな気がする。
いつ、誰に言われたのか。それが出てこなくて、ひどくもどかしい。
「……ええ、反省しているわ」
「そっか。じゃあ、気をつけてね!」
つられて笑顔になりそうな、満面の笑みを浮かべて。少年は手を振って駆け出そうとする。そんな彼の腕を、ロベリアは思わずつかんで引き止めていた。
引っ張られてガクンと体勢を崩し、少年は胡乱げに振り返る。
「なぁに?」
「あ、あの……助けてくれたお礼を……」
ありがとう。
そんなひと言すら、まだ伝えていない。
何より、なぜ彼の言葉が引っかかったのか。その謎も解けていないのだ。
「気にしないで」
「いいえ、私の気が済まないの」
「あははっ、君って、よく真面目って言われない? んー、でも、素敵なレディをもやもやさせたままっていうのは、やっぱり紳士じゃないよね」
笑みの消えた少年は、腕を組んで呟く。
知らず知らず背筋がしゃんと伸びるような、張り詰めた緊張感。それを、ロベリアは少年から感じていた。
「じゃあ、王国名物のラナーン、あるでしょ? あれで手を打たない? 君が二人分買ってきて、どこかで一緒に食べる。それで、僕が君を助けたことはチャラにしよう。ね?」
「……ラナーンが、好きなの?」
「うん。できるなら、毎日いっぱい食べたいくらいにね」
パアッと、ロベリアの表情が明るくなった。これ以上ないくらいに頬を上気させ、まじまじと少年を見つめている。
「私も、毎日食べたいくらい、ラナーンが好きなの!」
ファナクルアス王国で、最も名の知れた食べ物。それが、砂糖をたっぷり使った、ひたすら甘ったるい焼き菓子ラナーンだ。生地にはもちろん、一口大の花型に抜いた後にも。見てわかるくらい、大量に砂糖を散らす。
個人の味覚で、多少の好き嫌いはあれど。ファナクルアス王国の民であれば、死ぬまでに何度となく食べる庶民の味だ。
「すぐに買ってくるから、ちょっとここで待ってて」
急いで菓子店へ向かったロベリアは、十人分はありそうな量を買い込んだ。
紙袋に入れられた菓子を両腕でしっかりと抱え、別れた辺りでキョロキョロと探す。呼びかけようとして、彼の名前を聞いていないことに気づいた。
助けてくれた人の名前も、知らないなんて。
(……私ったら、今日は失態ばかりだわ)
少々落ち込みつつ、ため息をひとつこぼす。
「ねえ、ため息はダメだよ? せっかく近づいてきたいいことが、みんな逃げていっちゃうからね」
慌てて振り向くと、相変わらずにこやかな少年が立っていた。
「あ、よかった……買ってきたのに、いなかったから……」
「えっと……ちょっと離れてたんだ。ゴメンね」
「ううん、いてくれたならいいの」
はにかみながら笑って、ロベリアは紙袋をちょいと持ち上げる。
袋の大きさに、少年はかすかに頬を引きつらせた。
「どこで食べるの?」
「……ずいぶんいっぱい買ったんだね。えーっと、そうだね……広場で噴水を見ながらってのはどう?」
噴水のある広場は街の中心にあり、親子連れや恋人同士もよく利用する場所だ。常に人がいて賑わい、利用者を目的にした飲食物の出店も、毎日ちらほらと出ている。
「ええ、そうね。行きましょう?」
花がほころぶような笑顔を見せるロベリアに、少年は小さく噴き出す。
彼がいきなり笑った理由がわからずに。ロベリアはきょとんとして、不思議そうにこてんと首を傾げた。
「君って、本当にラナーンが好きなんだね。僕も早く食べたいから、急いで行こうよ!」
紙袋をひょいと取り上げた少年は、右手で紙袋を軽々と抱える。左手でロベリアの右手首をつかみ、グイッと引っ張った。
細い路地を駆け抜け、馬車も通れる大通りへ。この大きな通りを中心に向かって進めば、必ず広場につながっている。
今日の広場も、たくさんの人で賑わっていた。隅に置かれた、休憩用の屋根つきテーブルをひとつ、二人で占拠する。
ロベリアが椅子に座ろうとすると、少年はさりげなく椅子を引いてくれた。
「ありがとう」
彼が貴族なら、ごくごく当たり前の行動だ。だからだろうか。わざわざ礼を言ったロベリアを、彼は怪訝そうに見つめている。
「あなたも座って」
「あ、うん……」
戸惑いを隠せない様子の少年は、怖ず怖ずと、ロベリアの向かい側の椅子に腰かける。
「あ、食べる前に、名前を教えてくれる? 私はロベリアよ。あなたは?」
姉には母の好きな花の、妹は父の好きな花の名をつけた、と聞かされてきた。
娘に花の名前をつける親は、そう珍しくない。特に、長女や末っ子の一人娘にはよくあることだ。
しかも、可憐で愛らしい花を咲かせるロベリアは、どの年代にも人気の名前だった。
だから、彼がどうして驚いた顔をしたのか。それが、妙に引っかかってしまう。
「……エル……エルマー」
「エルマー、さっきは助けてくれてありがとう」
小首を傾げて、ニッコリ微笑みながら。ロベリアはエルマーに礼を言った。
「……ねえ、ロベリアは、貴族令嬢でしょ? 何でいちいち、してもらったことにお礼を言うの?」
「ありがたいと思ったら素直に言葉で伝えなさい、と教わってきたからよ。他人がしてくれることを、どんなことでも当たり前と思ってしまったら、きっと人としておしまいね」
「……ロベリアって、変わってるね」
「褒め言葉と受け取っておくわ」
笑顔を崩さないまま、ロベリアは紙袋を開ける。中には、五枚のラナーンが乗せられている、小さくて浅い籠が十個。そのひとつを取り出し、エルマーに差し出す。
「どうぞ。たくさんあるから、好きなだけ食べてね」
こくっと頷いて、エルマーは素直に受け取ってくれた。
砂糖が多く入っていて焦げやすいから、焼く時間の短いラナーンは、火が通りやすいように薄くなっている。さっくりした甘い生地と、ジャリッとする砂糖の食感が程よく混ざって、慣れない人間には不思議な味わいだろう。しかし、ファナクルアス王国民には、この食感と甘さがすっかり癖になっているのだ。
ロベリアもひと籠取り出し、ラナーンをつまむ。
ジャリッと砂糖を噛みつぶし、力任せに生地をサクッと割る。舌にふわりと広がる甘みは、ふうっと鼻に抜けていく。
心なしか、今日のラナーンは、いつもよりうんと甘い気がする。
取り立てて言葉を交わすことなく、黙々と食べ続けて。気がつけば、紙袋の中身は空っぽだ。
「久しぶりに思う存分食べたわ」
「僕もだよ。ねえ、ロベリア……ありがとう」
ロベリアが驚いて目を見開くと、エルマーは頬を赤く染めて横を向く。
「……ありがたいと思ったから」
「そう……エルマー、一緒に食べてくれてありがとう」
嬉しくなって、自然とほころんだ顔で礼を言う。すると彼はますます赤くなって、今度はうつむいてしまう。
「……ねえ、ロベリア。今度はいつ、街に来るの?」
「え? そうね……明日は暇だけれど、その後はわからないわ」
休暇が終わると日勤になる。とても、昼間に街へ出る暇はない。
次の夜勤はいつで、休暇はいつになるのか。他の隊との兼ね合いもあり、今のところ、ロベリアには断言できないのだ。
「じゃあ、明日も会ってくれる?」
あまりにも真剣な眼差しに。気がつけば、なぜか頷いていた。
「ホント!? じゃあ、ここで待ち合わせようよ。お昼前がいいかな?」
パッと破顔して、興奮した声音で悩んでいるエルマーが、やけに可愛らしくて。
(私に弟がいたら、こんな感じかしら?)
彼の言葉を黙って聞きながら、ロベリアは知らず知らず、穏やかに表情をゆるめていた。