プロローグ
今夜の月は半分だ。春先らしく、空気は少しばかりひんやりしている。
「シレネはそっちを」
「わかりました」
返事をして、シレネは指示された道を進む。
通り一面に連なる、赤茶色の綺麗なレンガ造りの家も。几帳面な石畳の道も。
人々が寝静まった今は、何もかもがひっそりと、深い眠りについているようだ。
コツコツと靴音を響かせ、シレネは黙々と歩く。辺りを見回す彼女の視線は鋭い。
(……ん?)
何かが動いた気がした。
暗くなってから出歩く人間は、まずいない。その上、深夜となれば。たまたま住人と出会う可能性など、まさしくゼロに等しい。
野生の生き物ならばいいのだが、あの動きは人そのものだ。
「誰だ!」
迂闊にも、考えなしに呼びかけてしまった。
そう悔やむ暇もなく。人影は何かを取り出し、それを屋根に向かって放り投げる。
(……かぎ爪つきのロープか!)
一気に距離を詰めるべく、シレネは駆け出す。しかし、人影はロープをスルスルと上ってしまい、ほんのわずかな差で手が届かなかった。
「くっ、降りてこい!」
これで、余裕の捨て台詞でもあれば。まだ、気分的には救われたかもしれない。
人影はクルリと背を向け、ヒラヒラと手を振る。月明かりだけでは、髪の色すら、はっきりとはわからなかった。
それっきり、振り向くことなく、連なる民家の屋根を逃げていく。三角屋根の不安定さを、賊はものともしない。まるで、平らな地面を走っているかのような身軽さだ。
「待てっ!」
急いで向かった方向へ駆け出したシレネだったが、入り組んだ道も手伝い、途中で姿を見失ってしまった。