羅刹門
何語を喋っているのかわからない。ただ、音の羅列を流し聞いていた。あまり特殊な現象ではなく、寧ろよくあることである。たいていは煙草を吸った後や、風呂から上がって一杯のビールを喉に流し込んで、テレビのニュース番組を見ている時などだ。脳の真ん中のあたりがぐわぐわと歪んで、例えるならば、抹茶をたてた時に生ずる泡が渦を巻いて消えてゆく、自分自身がもっと内に内にとしまいこまれて外界からの情報を上手いこと受け取ることが出来なくなるのである。眉間に力を込めて喝をいれても、これが厄介なことに、余計に私の世界との境界は曖昧なものになってしまう。力をこめればこめるほど、ずぶずぶと重苦しい砂水の中へ沈んでいく。そのまま一定の深さまで潜り込むと、なにやら不可思議な映像が目に映りはじめる。行ったこともない外国の街並み(後々、調べてみれば伊太利亜であった)や、見たこともない青い建物(モスクと言うらしい)。今までの外界からの遮断された情報が何の媒介も通さずに入り込んでくるのだ。全てを把握しきれないところが、私の無能さを違う面から際立たせてしまうので、万能感や、千里眼を身につけた仙人の心の高揚などは皆無であった。
今日もまた大学の昼休みの食後に一服していたとき、先ほど述べたような現象が起きてしまい、隣で共に談笑していた友人の言葉が理解できずに「ああ、うん」とか「そうか」など差し障り無い適当な相槌をうっていた。友人は幸か不幸か細かいことに構う人間ではないので、一人でそのままお喋りを続ける。意識の沈んだ私に見えてきたのは、ただっ広い荒野の地平線の先まで敷かれた列車のレールだった。ごとごとと何かを運んでいて、私はそれを覗き込もうとカメラワークを切り替えた(自分の視界は複数のカメラから見えている)。
中には。
「恭。煙草、あたしにも一本頂戴」
「カユラ、まだ二十歳になってないだろ。駄目だよ」
決め台詞の「つまんなぁい」を口にした銀髪の女、カユラは私の隣のベンチに腰を下ろす。反対側に座っている友人も彼女のことは見知っているので、とりわけなにか気にした様子もなく、場が華やいだとばかりに話し相手をカユラに切り替えた。こう見えて彼女は聞き手に向いている女である。
途中で口を挟まず、語り手が話し終えるまでは、髪の毛をくるくると人差し指に巻きつけていじりながらも目は相手から逸らさない。しかし、向いていないのは彼女の場合語り手に回った時だ。どんなに相手が喋ろうが、だいたい返事は返ってこない。極めつけがいつもの「つまんなぁい」なのである。
毎度、そんな返答ばかりしているせいなのかどうかはわからないがカユラには特定の、特に同性の友人のような存在を見たことがなかった。
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴り、次の時限に講義の入っていた友人は慌てて教室に走っていった。かくいうこちらは、この時限に講義はとっていなかったので、時間を持て余している。カユラはどうなのだろう。
「講義は?」
「今日はもう終わっちゃった。つまんないし、帰る」
(言葉が理解できる状態に戻ったらしい)
「そっか、じゃあまた。明日は熊谷、埼玉のね、だから忘れないように暑さ対策してくるんだよ。帽子があるといいんじゃないかな。【ガラクタ・カグラ】討伐に差支えないものかどうかは神託機械に問い合わせてみなよ。まぁ、多分通るだろ」
【ガラクタ・カグラ】討伐の際には、神託機械並びに神託少女から指定された服装をしなければならないが、現物支給なので金銭的な面では不自由はないし、こちらも士気が高まる。私の場合は百群の袴に襷掛け、カユラの場合はカジュアルな黄色のブラウスの左腕に黒い腕章を身に着けることが必ず指定される。
舞台には役者に見合った衣装を。ということなのだろう。
「石炭」
「うん?」
「運んでいたのは、石炭。もう、廃線になっているから今はないけど。亜米利加のもの。露西亜じゃない」
「・・・・カユラにも見えていたの?僕と同じ光景が」
「あんたの見てたものなんて知らなぁい。でもあんたの見たかったものは石炭だから。亜米利加の。露西亜じゃなくて」
カユラは不機嫌そうにそういって、ウエッジソールのサンダルのストラップを整えてから、履き直し、バス停へと帰路についてしまった。
私が見たかったものが石炭。というのはどの様な意味なのだろうか。彼女自らの言動にしてはやけに真剣で雄弁であり、それがとても重要なことで、私の芯にあたる部分を叩かれたような、衝撃があった。
石炭、とは隠語にあっただろうか、図書館が大学にはあることだ。
この時間を有効に使うとしよう。
◆
「ちりぬるを 咎なくて死す いろは匂わず 浅き夢見し ならもういいの」
カユラの台詞とともに大量の花札が【ガラクタ・カグラ】めがけて疾走し、その体を寸分足らずの細切れにする。
今日の舞台は無事に終了した。
まだ七月の頭で、しかも梅雨明けの宣言も無かった熊谷であるが、私の予想をはるかに超える暑さだった。じりじりと焦がす太陽光線と、しめった空気が不快指数を限界値まで引きあげた。
「あっつい・・・・。死んじゃう・・・・」
「駅に着くまでかなりあるから、一回ここで休んで行こう。有難いことに、ここの公園には噴水もある。水浴びはさすがにできないけど熱さましくらいにはなるんじゃない」
「そんなことしてたら間に合わないじゃん。開演は十四時三十分なんだから。見れなくなったらどうすんの」
「開演?見る?他にも誰か今日が舞台の人がいたっけ?カユラはそれを見に行くの?」
私の言葉に苛立ったカユラが投げつけてきたのは花札よりも大きく、細長い紙切れ。それを受け取って、ようやく昨日の彼女の意図が読めた。
「そうだね。僕、これが観たかったんだ。取ってくれてありがとう。でもどうして二枚もくれたのかな?」
とぼけたふりをしてみた。たまには彼女の別の表情も見たいじゃないか。
カユラが顔を真っ赤にして叫んでいる。
なのに私の耳は、それが何と言っているのか全く理解できなくなってしまった。
ああ、なんだ。運んでいたのは麦の穂だったのか。