☆K☆ちゃんの思い出
もし、洗面所の扉を開けて、知らない女の子のシャワー上がりと出くわしてしまったら?
お湯を浴びて、桃色に上気した、肌。豪奢な、金の巻き毛と、水滴だけが体を覆う、羽の生えた少女。
その少女が、自分の部屋で無断でシャワーを浴びていることを目撃してしまった、長い黒髪の女。
その二人の出会いのイメージを思い浮かべることから、この話は始まる。
「きゃああああっ」
あたしは、自分の方こそ侵入者なのにもかかわらず、裸を見られたショックで、叫んでしまいました。
そんな衝撃的な、接触を果たしてなお、綾ちゃんは、あたしの裸を半眼で、にらみつけたまま、なにごとかつぶやきました。
動揺はしているらしく、くわえていたタバコがぽろりと落ちました。
あたしは、恥ずかしくて、必死に体を手で隠しました。背中の羽を隠すので忙しくて、胸とか、腰とかは隠せませんでした。
あたしが必死に事情とか、言い訳とか、話す努力をしようとしましたが、綾ちゃんには、あたしの言葉は聞こえてないようで、
「……なに、この一昔前のマンガみたいなシチュエーション」
目をそらしながら、おっきなバスタオルを渡してくれました。
「……とりあえず、早く服を着なよ」
あたしは、この国の人は、とても親切なのだと、思ったものでした。
それが、あたしと綾ちゃんの出会いなのです。
冒頭文及び以下、回収したグレイボックスによる被告人Kの魂魄記憶陳述原文。
木枠のきしむ、横開きの窓を開けると、朝靄にけぶる、新鮮な空気が肌を濡らします。
時間は六時半。
アルハーバラの、朝の景色は健康的で、マラソンや、散歩をしたりする人たちが、階下を行き過ぎます。
あたしは、こんな朝が大好きです。
心が落ち着く、清々しさです。
だから、もったいないと思います。
あたしの、背後で、眉間にしわを寄せて寝ている女の人。
あたしが、いそうろうしている、トラーナ薬局の家主、児島綾香。あたしは、綾ちゃんと、呼びます。彼女は、このとっても素晴らしい朝を、感じたことがあるのかな。残念なことに、あたしの、記憶の中には、一度もありません。
すーすーすーすー。
綾ちゃんは、寝ていると、唐辛子でも舐めたみたいに、変な顔をするので、美人が台無しです。
せっかく、きれいで、整った顔なのに、まるで、アントニオ猪木の物まねをしているみたいなのです。
あたしは、綾ちゃんが寝ている間に、ゴミを出したり、ちょこっと準備します。
「……もう、朝?」
八時くらいになると、綾ちゃんは、ようやく起きだしてきます。
起きたばかりの綾ちゃんは、とっても不機嫌で、女やくざみたいで、怖いです。
あたしは、下着姿のまま、ぼーっとタバコをくわえている、綾ちゃんの世話を、かいがいしくします。
ぼさぼさの髪をとかして、濡れたタオルで顔をふいて、軽くマッサージした後は、朝ごはんです。
メニューは、決まっていて、トーストは一枚。エッグサラダを少しと、うぃんなーコーヒー。
ご飯を食べ終わる頃には、少しはマシになっている綾ちゃんを、着替えさせて、一階の薬局に送り出します。
一連の世話は、ちょっとした大仕事。
気分はちょっと、世話やき奥さん。
これが、三年前からの、あたしの朝の日課なのでした。
三年前、あたしは、あたしの国から、家出してきました。
とっても息苦しくて、いづらい国でした。みんな頭が固くて、保守的なのだと思います。
その国で、とっても嫌なことがあって、あたしは、きのみきのまま、なんにも考えないで、逃げ出してきました。
でも、この国で、羽が汚れてしまって。
あたしは、窓が開いたままだった、建物に、緊急避難しました。
そして、悪いと思ったけど、シャワーをお借りしました。
見られないように、ちょっとだけ、のつもりだったのです。でも、ついつい、あったかいお湯が気持ちよくて、長居をしました。
そして、綾ちゃんと出会ったのです。
綾ちゃんは、この国の人らしく、割れた心臓を持っていました。おっきく割れていました。
綾ちゃんは、あたしの説明を、最後までゆっくり聞いてくれて、行く当てのないあたしに、いてもいいと言ってくれて。
あたしは、綾ちゃんの厚意に、甘えることにしました。
初めのうちは、この国のことはよくわからなくって、綾ちゃんに一から教えてもらって、それでも失敗は多かったけど、がんばっているうちに、そのうち色々、できるようになりました。
家事とか、買い物とか、知った今でも、まだまだ覚えることは多くて、それが楽しくて。
あたしは、とっても、幸せです。
綾ちゃんがお店に行った後は、お掃除とお洗濯をします。
綾ちゃんが、買ってくれた、かわいいエプロンをつけて、戦闘準備は完了。
お洋服をお洗濯して、ベランダに干した後は、パタパタとほこりをはたいて、箒でゴミを掃いて、雑巾で乾拭きして。
お昼になったら、綾ちゃんと、サーモンとアボカドのサンドイッチを食べます。
綾ちゃんは、あまり食べたがらなかったけど、最近は食べてくれるばかりか「おいしい」と言ってくれます。
あたしは、それだけで、とっても嬉しくなります。
飲み物は、あたしは、お茶々。でも、綾ちゃんは、コーヒー。夜もです。多分、綾ちゃんの体の中には、血の代わりに、コーヒーが、流れているんじゃないのかな。
午後は少し、お店のお手伝いをして、ちょっと休んで、いつも決まった時間に店の前を散歩するおばあちゃんがきたら、商店街にお買い物に行きます。
アルハーバラの昼間は、とても賑やかで、活気があって、楽しくて、歩いている人がいっぱいいます。みんな、かわいい女の子ばかりです。
その中に混じるだけで、あたしも、なんだか楽しくなってきます。
そして、あたしが、特別、アルハーバラがいいなと思うところは、あたしの他にも、羽が生えていたり、角が生えていたり、耳や尻尾が生えていたりする人がいっぱいいることです。
あたしの国じゃないところで、こんなに自然と、あたしが、溶け込める町はなかったから。
この光景を、見るたびに、あたしはここにいても、いいんだなって。
あたしは、安心するのです。
夕方が過ぎて、綾ちゃんと、お夕飯を食べて、綾ちゃんのお仕事が終わるまでの間、あたしは、本を読んで待っています。
この国の本は、絵本も、お料理の本も、面白くて、新鮮で、楽しいです。
まだ、見たことも聞いたこともないものを、本は教えてくれるのです。わくわくして、ドキドキして、本を読みます。
でも、あたしの国のことが書かれている本だけは、読みません。
胸がぎゅーっと、苦しくなって、しまうから。
あの人のことを、思い出して、しまうから。
涙が、こぼれて、しまうから。
アルハーバラの夜は、朝と、昼と、どれとも違う顔があります。
昼の、楽しい気配は、どこかに隠れてしまって、朝の爽やかさもまだ眠っていて。
まるで、この世界に独り、取り残されたみたいな、静寂。
お月さまは、冷たい光を降らしていて、きれいで、あたしの、時間が止まります。
お月様には、ウサギさんが住んでいるって、本に書いてあったけれど。
あたしは、信じられません。
だって、あんなにきれいなものが、動物のすみかだなんて。
あたしは、信じたくないのです。
あたしの国の人は、みんな、あたしは間違っていると言ったけれど、あたしは、そう思います。
その日は、とがった刃物、みたいな、お月様でした。
夜の、誰にも壊せないと思った、静けさに、異変が起きたときのことです。
今日の分の本を読み終わって、パジャマでベッドの上に座っていると。
綾ちゃんと誰かが、言い争う、声。
恐る恐る、階段を降りて行くと、もう相手の人は、帰ったみたいでした。
でも、ずっと待っていても、綾ちゃんは動かなくて。
声をかけようとして、あたしは驚きました。
綾ちゃんは、泣いていて。
そのひき歪んだ、泣き顔が、とっても、くしゃくしゃなのに、とっても、切ないほどにきれいだったのです。
あたしは、びっくりして、なにを言ったのか覚えていません。
多分、泣かないで、とか、無責任なことを言ったのだと思います。
綾ちゃんは、あたしのことを、きっと睨んで、でも、すぐにあたしのことを抱きしめました。
強く、強く。
「……ずっと、ここにいていいよ。いなよ」
あたしは、戸惑いましたが、今この瞬間だけでも、綾ちゃんに、必要とされることが嬉しかったので、抱き返しました。
お月様みたいに、きれいなのに、綾ちゃんは、やーらかくて、あったかかったです。
次の日の朝には、綾ちゃんは、またもとの綾ちゃんに、戻っていました。
無愛想で、なにもかもつまらなそうで、美人な綾ちゃん。
でも、どこかが、決定的に違ってしまっていることも、あたしは薄々、気づいていたような気もします。なんとなく、心臓の割れ目が、ひどくなっているように思えたから。
表面上は、いつも通りに過ごしました。綾ちゃんのお世話して、お洗濯にお掃除にお料理にお買い物。
特別なことは、なにもなく、普通に、過ぎて、いきました。
時折、綾ちゃんが、受話器を怒鳴りつけて、乱暴に切ったりして、怖かったけれど。
特別なことは、なにもなく、普通に、過ぎて、いくのだ、と。
あたしは、不安を、見ない振り、していたのです。
でも、見ていなくても、事態の歯車は、止まったりしないのでした。
階下で、ドンと音がして、あたしは、もう、後戻りは、できないのだと、理解しました。
綾ちゃんが、すごい、怖い、顔であがってきて、あたしを見つけるなり、あたしに抱きつきました。
そして、なにやら、ひどく興奮した様子であるにもかかわらず、手馴れた仕草で、錠剤と粉薬とを包んだ紙を取り出すと口に含んで、あたしに、飲ませた。抵抗する、あたしを、無理矢理、抑え込んで、押し倒すと、綾ちゃん自身も、同じ薬を飲みました。
ベッドの上に、変な格好で、倒れて、あたしの、胸の上に、綾ちゃんの、顔があって、あたしは、綾ちゃんの、頭をなでてあげました。
綾ちゃんの、目は、潤んでいて、いつもはきれいなのに、その時ばかりは、とっても、かわいらしかったです。例えるなら、そう、甘えた、仔猫のようでした。
綾ちゃんは、薬の効能を、口早に説明していますが、あたしにはさっぱりわけがわかりません。
あたしは、観念して、綾ちゃんの、したいように、させて、あげる、ことにしました。
綾ちゃんは、いつもの、様子とは、まるで、違っていて、動物のように、あたしの、肌を、求めました。視界が、狭くなって、綾ちゃんしか、見えなくなって、綾ちゃんと、あたしの、肉と、肉が、擦れあって、なにもかも、真っ白な、世界が見えました。
綾ちゃんと、ベッドに、横になって、ぼーっと、ひりひりする体を、抱いて、綾ちゃんは、あたしの、体のラインを、唇と指でなぞって。
カーテンが、スカートみたいに、広がって、落ち着いて。
その夜も、お月様は、とっても、きれいでした。
その日からは、一日が、すごい勢いで過ぎていきました。
綾ちゃんは、人が変わったように、あたしに触れてきました。
それは、依存と呼ぶのがふさわしいものでした。
普段の態度は前と変わらないのに、でも、それはポーズでしかなくて、朝と昼のご飯の後、夜、仕事が終わると、綾ちゃんの唇が、あたしの上をすべっていきます。
この行為が、あたしの国でも、この国でも、異常なことなのだと、あたしは知っています。
でも、ようやく正しい形になったのだと、あたしは思いました。
あたしと、綾ちゃんの、正しい関係なのだと、思ったのです。
あたしが、タバコの臭いにせきこむと、綾ちゃんはタバコをやめました。
あたしが、コーヒー以外も飲んでみたら、と言ったら、お茶々も飲むようになりました。
あたしが、髪型変えて、と言ったら、髪の毛をいじらせてくれるようになりました。
あたしは、相変わらず、いそうろうで、綾ちゃんは、相変わらず、家主です。
でも、力関係は、まるで、逆転したかのように見えました。
「私には、あんたしかいない。もっと、そばにいて。もっと、ずっと、そばに」
破綻の足音が高らかに鳴っていました。
……そして。
あたしたちの、正しい関係は、さっき、終わりを迎えました。
動機としては、過去を忘れられない、あたしに対する、綾ちゃんの憎しみとかいらだちとか、そういうのもあったように思います。
でも、それはやっぱり端っこの理由に過ぎないなのです。
少しは、わかっているつもりです。
あたしが、綾ちゃんにとって、どういう存在か。
綾ちゃんの、あたしに対する愛情の帰着がどこにあるのか。
あたしは、結局、お月様を見て、涙をおさえることを覚えられませんでした。
あたしの国を、あの人を、忘れることはできませんでした。
それらは邪魔になって、綾ちゃんの求める、割れた心臓の一部には、なれなかったのです。
もとより、そんなものになれるものなど、ないのかも知れません。
でも、そんなことなど、考えにものぼらない、綾ちゃんは、多分、二年八ヶ月ぶりくらいに、包丁を握りました。
そして、あたしを丁寧にばらばらにして、局部はきれいに切り抜いて、他はカレーに入れる具よりも小さくして、食べました。
あたしのお肉は、綾ちゃんのお肉になりました。
あたしは、綾ちゃんのお肉になったのです。
綾ちゃんは、他人が、他人でしかありえないことに我慢できなかったのでしょうか。
どんなに信頼を深めても、あたしたちは同一ではなく、肉体という境界線は越えられないのです。
綾ちゃんは、あたしを食べて、あたしと切っても離れられない、まったく同じになろうとしました。
でも、綾ちゃんは、誤解してます。
綾ちゃんが食べたあたしは、ただのお肉であって、あたしじゃないのです。
綾ちゃんは、すぐにそのことに気づくでしょう。
でも、その後の綾ちゃんに、あたしはなにもしてあげることはできないのです。
それが、やっぱり、心残りです。
ねえ、あなた。
あたしは、綾ちゃんの家族になりたかった。
ペットになり、子供になり、妹になり、やがて、恋人になって。
でも、綾ちゃんの割れた心臓を埋めることはできなかった。
最後に、綾ちゃんの求めるがまま、綾ちゃん自身のお肉になって。
でも、やっぱり綾ちゃんの割れた心臓は埋まることはないのでしょう。
ねえ、あなた。
もしかして。
あれは、埋まらないものなんでしょうか?
あれは、最初から割れたままで、どうにかしようというのは間違ったことなのでしょうか?
行き場のなかったあたしを、受け入れてくれたあの国と、綾ちゃんに、あたしはなにも返すことはできないのでしょうか?
だったら、やっぱり、あたしの家出は、ひどい間違いだったのでしょう。
ねえ、高貴なるあなたよ。
あたしも、綾ちゃんも、なんて不恰好な生き物。
でも、不思議と。
不快ではないのです。
終わり