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壁の中川

掲載日:2026/08/15

登場人物

中川


『壁の中川』


 中川がそのマンションに引っ越してきたのは、春の終わりだった。


 初めての一人暮らし。


 マンションは少し古く、廊下の壁には細かなひびがあり、エレベーターも動くたびに低い音を立てる。


 それでも家賃は安く、駅からも近い。


 部屋も一人で暮らすには十分な広さだった。


「まあ、悪くないな」


 荷物を片づけながら、中川は新しい生活に少しだけ期待していた。


 引っ越してから数日。


 特に問題もなく、静かな生活が続いた。


 ――あの声を聞くまでは。


     *


 ある夜。


 午前0時を少し過ぎたころだった。


 中川はベッドに横になり、スマートフォンを眺めていた。


 すると――


「……中川〜」


 中川の指が止まった。


「……ん?」


 誰かに呼ばれた気がした。


 テレビはついていない。


 窓も閉まっている。


 中川はしばらく耳を澄ませた。


 何も聞こえない。


「気のせいか……」


 再びスマートフォンを見る。


 その直後。


「……なかがわ〜」


 今度は、はっきり聞こえた。


 中川はゆっくり起き上がった。


 声がしたのは、ベッドの横にある壁。


 隣の部屋と接している壁だった。


「隣の人か?」


 古いマンションだ。


 きっと壁が薄いのだろう。


 中川はそう考え、その日は眠ることにした。


     *


 しかし翌日の夜。


「中川〜……」


 また聞こえた。


 次の日も。


「なかがわ〜……」


 さらに次の日も。


「……中川ぁ〜」


 毎晩だった。


 決まって夜になると、壁の向こうから自分の名字を呼ぶ声がする。


 男なのか女なのか分からない。


 若いのか年寄りなのかも分からない。


 ただ、妙に平らで、感情のない声だった。


 最初のうちは怖かった。


 しかし、何日も続けば恐怖より苛立ちのほうが大きくなってくる。


「毎晩毎晩……なんなんだよ」


 中川は壁を睨んだ。


「隣の奴、俺に何か用でもあるのか?」


 そこまで言って、中川はふと考えた。


「……あれ?」


 引っ越してきてから、隣の住人と一度も顔を合わせていない。


 それどころか――


引っ越しの挨拶も、まだしていなかった。


「待てよ……」


 中川は壁を見る。


 毎晩、自分を「中川」と呼んでいる隣人。


 だが、中川は隣人に自分の名字を教えた覚えがない。


「なんで……俺が中川だって知ってるんだ?」


 さっきまでの苛立ちが、少しだけ薄れる。


 代わりに妙な気味悪さが込み上げてきた。


「……まあ、郵便受けの名前でも見たんだろ」


 中川は無理やり納得することにした。


 だが――


「な〜か〜が〜わ〜……」


 また声がした。


 中川の表情が変わった。


「……もう我慢できねぇ」


 中川は立ち上がった。


     *


 部屋を出る。


 隣の部屋の前まで歩き、インターホンを押した。


 ピンポーン。


 少し待つ。


 やがて扉が開いた。


「はい?」


 寝間着姿の男性が顔を出した。


 ごく普通の人だった。


「あの、隣の部屋に引っ越してきた者なんですけど」


「ああ、どうも」


「毎晩、壁越しに俺の名前呼んでますよね?」


 男性は眉をひそめた。


「……名前?」


「『中川〜』って。毎晩聞こえてるんですよ」


「中川?」


 男性は少し考えた。


 そして――


「中川って……あなたの名前ですか?」


 中川は固まった。


「……そうですけど」


「ああ、すみません。まだ挨拶もしてなかったから、名前知らなくて」


「でも、壁から……」


「いや……」


 男性は困ったような表情をする。


「こっちは何も聞こえませんよ」


「…………」


「それに、本当に今初めて名前を知りました」


 中川はしばらく黙っていた。


「……すみませんでした」


 それだけ言って、自分の部屋へ戻った。


     *


 扉を閉める。


 部屋は静まり返っていた。


「……じゃあ」


 中川は壁を見る。


「誰なんだよ」


 その瞬間。


「中川〜」


 中川の表情が固まる。


「なかがわ〜」


「…………」


「中川〜」


 恐怖より先に、怒りが爆発した。


「いい加減にしろ!!」


 中川は工具を取り出した。


 隣の部屋と接している壁を叩く。


 壁の一部が崩れ、小さな穴が開いた。


「これで分かるだろ……」


 穴の向こうには、隣人の部屋が見えるはずだった。


 中川は穴へ近づく。


「……え?」


 隣の部屋が――ない。


 穴の向こうは真っ暗だった。


 壁と壁の間に、妙な隙間がある。


 しかも、人一人が入れそうなほど広い。


「なんだよ……これ」


 マンションの構造を考えれば、そんな空間があるはずがない。


 中川は恐る恐る穴へ顔を近づけた。


 暗闇を覗く。


 何も見えない。


 いや。


 違う。


 何かいる。


「…………」


 暗闇の奥。


 得体の知れない何かが、こちらを向いている。


 人のようにも見える。


 しかし、人間ではないようにも見える。


 形がはっきりしない。


 ただ――


 こちらを見ていることだけは分かった。


 中川は息を止めた。


 そして、それが声を出した。


「中川〜」


「……!」


「なかがわ〜」


 中川は穴から離れようとする。


 だが、身体が思うように動かない。


「ナカガワ」


 声の調子が変わった。


「ナカッガワ」


「なんなんだよ……お前……」


 得体の知れない何かが、暗闇の中でわずかに動いた。


「……ナカガワ」


 そして――


 ゆっくりと、別の言葉を口にした。


「……壁の中側」


「……え?」


 中川の頭の中で、その言葉が繰り返される。


 中川。


 なかがわ。


 ナカガワ。


 中側。


 壁の――中側。


「まさか……」


 中川は青ざめる。


「俺の名前を……呼んでたんじゃない?」


 暗闇の何かは答えない。


 一瞬、静かになる。


 そして次の瞬間。


 穴のすぐ向こう側から――


「中川〜」


「うわっ!」


 中川は腰を抜かした。


 必死に後ろへ下がる。


 壁の穴を見る。


 そこにはもう、何も見えない。


 ただ真っ暗な空間だけが続いている。


「なかがわ〜」


「ナカガワ」


「……中側」


「壁の中側……」


 声だけが聞こえる。


 中川は震えながら壁を見つめていた。


 すると――


「……中川〜」


「……え?」


 今度は反対側の壁から聞こえた。


 中川がゆっくり振り返る。


「中川〜」


 右の壁。


「なかがわ〜」


 左の壁。


「中側……」


 天井。


「壁の中側……」


 床の下。


 四方から、声が聞こえてくる。


 中川は耳を塞いだ。


「やめろ……」


「中川〜」


「やめろ!」


「なかがわ〜」


「やめろぉ!!」


 しかし――


 声は止まらなかった。


     *


 翌朝。


 隣の部屋の男性が玄関を開け、廊下へ出た。


「……ん?」


 何かが聞こえた。


 男性は足を止める。


 中川の部屋のほうを見る。


「……中川〜」


 昨日聞いた名字だった。


「中川さん?」


 返事はない。


 男性は壁へ近づき、そっと耳を当てる。


 すると――


「……壁の……中側……」


 男性の表情が変わる。


 その声は、


昨日話した中川本人の声だった。


「……中川さん?」


 男性が壁から耳を離そうとした、そのとき。


 壁の奥から――


コン。


 何かが一度だけ、


 こちら側を叩いた。


『壁の中川』


――終わり――

最後まで見てくれてありがとうございました。

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