壁の中川
登場人物
中川
『壁の中川』
中川がそのマンションに引っ越してきたのは、春の終わりだった。
初めての一人暮らし。
マンションは少し古く、廊下の壁には細かなひびがあり、エレベーターも動くたびに低い音を立てる。
それでも家賃は安く、駅からも近い。
部屋も一人で暮らすには十分な広さだった。
「まあ、悪くないな」
荷物を片づけながら、中川は新しい生活に少しだけ期待していた。
引っ越してから数日。
特に問題もなく、静かな生活が続いた。
――あの声を聞くまでは。
*
ある夜。
午前0時を少し過ぎたころだった。
中川はベッドに横になり、スマートフォンを眺めていた。
すると――
「……中川〜」
中川の指が止まった。
「……ん?」
誰かに呼ばれた気がした。
テレビはついていない。
窓も閉まっている。
中川はしばらく耳を澄ませた。
何も聞こえない。
「気のせいか……」
再びスマートフォンを見る。
その直後。
「……なかがわ〜」
今度は、はっきり聞こえた。
中川はゆっくり起き上がった。
声がしたのは、ベッドの横にある壁。
隣の部屋と接している壁だった。
「隣の人か?」
古いマンションだ。
きっと壁が薄いのだろう。
中川はそう考え、その日は眠ることにした。
*
しかし翌日の夜。
「中川〜……」
また聞こえた。
次の日も。
「なかがわ〜……」
さらに次の日も。
「……中川ぁ〜」
毎晩だった。
決まって夜になると、壁の向こうから自分の名字を呼ぶ声がする。
男なのか女なのか分からない。
若いのか年寄りなのかも分からない。
ただ、妙に平らで、感情のない声だった。
最初のうちは怖かった。
しかし、何日も続けば恐怖より苛立ちのほうが大きくなってくる。
「毎晩毎晩……なんなんだよ」
中川は壁を睨んだ。
「隣の奴、俺に何か用でもあるのか?」
そこまで言って、中川はふと考えた。
「……あれ?」
引っ越してきてから、隣の住人と一度も顔を合わせていない。
それどころか――
引っ越しの挨拶も、まだしていなかった。
「待てよ……」
中川は壁を見る。
毎晩、自分を「中川」と呼んでいる隣人。
だが、中川は隣人に自分の名字を教えた覚えがない。
「なんで……俺が中川だって知ってるんだ?」
さっきまでの苛立ちが、少しだけ薄れる。
代わりに妙な気味悪さが込み上げてきた。
「……まあ、郵便受けの名前でも見たんだろ」
中川は無理やり納得することにした。
だが――
「な〜か〜が〜わ〜……」
また声がした。
中川の表情が変わった。
「……もう我慢できねぇ」
中川は立ち上がった。
*
部屋を出る。
隣の部屋の前まで歩き、インターホンを押した。
ピンポーン。
少し待つ。
やがて扉が開いた。
「はい?」
寝間着姿の男性が顔を出した。
ごく普通の人だった。
「あの、隣の部屋に引っ越してきた者なんですけど」
「ああ、どうも」
「毎晩、壁越しに俺の名前呼んでますよね?」
男性は眉をひそめた。
「……名前?」
「『中川〜』って。毎晩聞こえてるんですよ」
「中川?」
男性は少し考えた。
そして――
「中川って……あなたの名前ですか?」
中川は固まった。
「……そうですけど」
「ああ、すみません。まだ挨拶もしてなかったから、名前知らなくて」
「でも、壁から……」
「いや……」
男性は困ったような表情をする。
「こっちは何も聞こえませんよ」
「…………」
「それに、本当に今初めて名前を知りました」
中川はしばらく黙っていた。
「……すみませんでした」
それだけ言って、自分の部屋へ戻った。
*
扉を閉める。
部屋は静まり返っていた。
「……じゃあ」
中川は壁を見る。
「誰なんだよ」
その瞬間。
「中川〜」
中川の表情が固まる。
「なかがわ〜」
「…………」
「中川〜」
恐怖より先に、怒りが爆発した。
「いい加減にしろ!!」
中川は工具を取り出した。
隣の部屋と接している壁を叩く。
壁の一部が崩れ、小さな穴が開いた。
「これで分かるだろ……」
穴の向こうには、隣人の部屋が見えるはずだった。
中川は穴へ近づく。
「……え?」
隣の部屋が――ない。
穴の向こうは真っ暗だった。
壁と壁の間に、妙な隙間がある。
しかも、人一人が入れそうなほど広い。
「なんだよ……これ」
マンションの構造を考えれば、そんな空間があるはずがない。
中川は恐る恐る穴へ顔を近づけた。
暗闇を覗く。
何も見えない。
いや。
違う。
何かいる。
「…………」
暗闇の奥。
得体の知れない何かが、こちらを向いている。
人のようにも見える。
しかし、人間ではないようにも見える。
形がはっきりしない。
ただ――
こちらを見ていることだけは分かった。
中川は息を止めた。
そして、それが声を出した。
「中川〜」
「……!」
「なかがわ〜」
中川は穴から離れようとする。
だが、身体が思うように動かない。
「ナカガワ」
声の調子が変わった。
「ナカッガワ」
「なんなんだよ……お前……」
得体の知れない何かが、暗闇の中でわずかに動いた。
「……ナカガワ」
そして――
ゆっくりと、別の言葉を口にした。
「……壁の中側」
「……え?」
中川の頭の中で、その言葉が繰り返される。
中川。
なかがわ。
ナカガワ。
中側。
壁の――中側。
「まさか……」
中川は青ざめる。
「俺の名前を……呼んでたんじゃない?」
暗闇の何かは答えない。
一瞬、静かになる。
そして次の瞬間。
穴のすぐ向こう側から――
「中川〜」
「うわっ!」
中川は腰を抜かした。
必死に後ろへ下がる。
壁の穴を見る。
そこにはもう、何も見えない。
ただ真っ暗な空間だけが続いている。
「なかがわ〜」
「ナカガワ」
「……中側」
「壁の中側……」
声だけが聞こえる。
中川は震えながら壁を見つめていた。
すると――
「……中川〜」
「……え?」
今度は反対側の壁から聞こえた。
中川がゆっくり振り返る。
「中川〜」
右の壁。
「なかがわ〜」
左の壁。
「中側……」
天井。
「壁の中側……」
床の下。
四方から、声が聞こえてくる。
中川は耳を塞いだ。
「やめろ……」
「中川〜」
「やめろ!」
「なかがわ〜」
「やめろぉ!!」
しかし――
声は止まらなかった。
*
翌朝。
隣の部屋の男性が玄関を開け、廊下へ出た。
「……ん?」
何かが聞こえた。
男性は足を止める。
中川の部屋のほうを見る。
「……中川〜」
昨日聞いた名字だった。
「中川さん?」
返事はない。
男性は壁へ近づき、そっと耳を当てる。
すると――
「……壁の……中側……」
男性の表情が変わる。
その声は、
昨日話した中川本人の声だった。
「……中川さん?」
男性が壁から耳を離そうとした、そのとき。
壁の奥から――
コン。
何かが一度だけ、
こちら側を叩いた。
『壁の中川』
――終わり――
最後まで見てくれてありがとうございました。




