第9話 泥と数学の最終決戦
雨が上がった湿地帯に、杭を打つ乾いた音だけが響く。
カインとセラフィナ。たった二人だけの、絶望的な開拓作業だった。
魔力も労働力も失った。だが、カインには48年分の土木技術が、セラフィナには王立魔術院の膨大な基礎理論があった。
「もっとテコを使え、カイン! その岩を動かすのに、筋力は必要ない。支点が甘い!」
「あなたの化学こそどうなんです、セラフィナ! 沼沢灰セメントの配合、粘土の比率が0.5%違うだけで、硬化速度が倍になる!」
二人は、互いの知識を唯一の武器として、泥にまみれ続けた。
カインは、古代ローマの技術書にあった単純な滑車とテコの原理を組み合わせ、一人で巨石を動かす装置を組み上げた。セラフィナは、魔力を使わずに、土壌の酸性度を植物の反応だけで計測し、沼沢灰による完璧な中和の配合率を導き出した。
彼らの作業は遅々としていたが、しかし、確実に進んでいた。
湿地帯を監視していたガルスの騎士たちは、最初こそ「泥遊び」と嘲笑していたが、やがてその顔から笑みが消えた。
泥沼だったはずの土地が、整然とした水路によって乾き、区画整理され、明らかに「土地」へと変貌しつつあったからだ。
魔力も使わず、たった二人で。
ガルスは、その報告に焦燥を隠せなかった。カインがこの極限状況で成功すれば、それは「カインの理論」が、魔力も貴族の権力も不要で、誰にでも再現可能であることを意味する。それは、この世界の秩序そのものに対する、最大の脅威だった。
「――もはや、猶予はない」
ガルスは自ら騎士団を率い、完成間近となった湿地帯の開拓地へと乗り込んだ。
「カイン・ヴォン・レイクランド!」
ガルスは馬上で剣を抜き放ち、泥まみれの二人を見下した。
「貴様らの泥遊びは終わりだ! 父上の名において命ずる! その土地は、貴様らの無許可な工事により『魔術的危険区域』に指定された! 即刻すべての作業を中止し、投降せよ!」
「……」
「返答はないか! なれば、反逆者として、その『砦』もろとも排除する! 騎士団、かかれ! あの忌々しい貯水槽を破壊しろ!」
ガルスの号令一下、十数騎の重装騎士が、蹄を鳴らして突撃を開始した。
彼らが目指すのは、カインとセラフィナが立つ、開拓地の中央に築かれた小さなダムだ。
セラフィナは息を呑んだ。「カイン……!」
「……来ましたね」
カインは、突撃してくる騎士団を冷静に見据えていた。
「セラフィナ。兄上は、俺の仕事を『机上の空論』と呼びました。今から、その『実地研修』の時間です」
カインは、ダムの上に設置していた、ただの木製のレバーを握った。
「兄上。あなたは、俺がこの土地で何をしていたか、何も理解していない」
カインがレバーを引くと、川から引き込んでいた水路が開き、水がダムへと流れ込む。
だが、水はダムを越えず、ダムの手前に張り巡らされた、網目状の「排水路」へと勢いよく流れ込んだ。
「何だ?」
突撃していた騎士たちは、足元の乾いた地面に、水が染み出していくのを見た。
次の瞬間。
「うわっ!?」
「馬が! 足が……沈む!」
乾いていたはずの地面は、カインが計算し尽くした「排水路」によって、瞬時に水を含みすぎた「飽和状態」となった。
土は、重い騎士の馬の蹄を支えきれず、まるで|底なし沼のように変貌した。
重装騎士団の突撃は、一瞬にして統制を失い、馬は暴れ、泥に足を取られた騎士たちが次々と落馬していく。
それは、カインが設計した「土質力学」の罠。敵の重量そのものを利用した、完璧なカウンターだった。
「貴様ぁっ!」
唯一、罠を回避したガルスが、怒りに顔を歪ませてダムの上へと駆け上がった。
「小賢しい真似を!」
ガルスが、カインに向かって剣を振り下ろす。
カインは武器を持たない。だが、彼は一歩下がり、足元の傾斜にガルスを誘い込んだ。
それは、ダムの余剰水を流すための「余水吐き」として設計された、滑らかな傾斜面だった。
「――っ!?」
剣を振り切ったガルスは、勢い余って足元のバランスを失った。
カインは、その一瞬を見逃さなかった。武器ではなく、ただ、ガルスの鎧の重心を、開拓作業で使っていた測量棒で軽く押した。
「物理学」が、ガルスを襲った。
ガルスは、自らの突進の力と、計算された傾斜によって、無様に足を滑らせ、そのまま泥まみれのスロープを転がり落ちていった。
剣も魔術も使わない。
泥と、数学と、物理法則だけが、ヴァルト最強の騎士団を、わずか数分で無力化した。
「……カイン様」
その光景を、遠巻きに見ていた者たちがいた。
ボリス親方と、仕事を失った平民たちだった。彼らは、罪悪感と好奇心から、この決着を見届けに来ていたのだ。
彼らが見たのは、泥にまみれて呻く騎士団長と、ダムの上に静かに立つ、泥まみれの「下水道貴族」の姿だった。
「……見事だ」
静かな声が響いた。
平民たちの後ろから、一人の老人が歩み出た。
「父上!?」
ガルスが愕然と目を見開く。領主、カインたちの父だった。
「ガルス。お前は、私の名を騙り、領民の生活を脅し、この領地の未来を潰そうとした」
領主は、泥に沈んだ騎士団を一瞥し、それからカインが創造した「新たな土地」を満足げに見渡した。
「カイン・ヴォン・レイクランド。そして、セラフィナ嬢」
領主は、深々と頭を下げた。
「お前たちの『机上の空論』が、我が領地の傲慢と無知を洗い流してくれた。セラフィナ嬢、王都の決定は、この私が覆す。お前の知恵は、この領地こそが必要としている」
それは、革命が完遂された瞬間だった。
カインは、泥だらけのセラフィナと視線を交わし、二人で静かに笑い合った。
領主は、泥水から這い上がろうとするガルスに、冷たく言い渡した。
「ガルス。騎士団長の任を解く。お前は明日から、カインの下で働け。その無駄なプライドごと、この新しい土地の『土』になるがいい」
その言葉を合図にしたかのように、遠巻きに見ていた平民たちが、堰を切ったように駆け寄ってきた。
「うおおお! カイン様!」
「俺たちを……俺たちを許してくれ!」
ボリス親方が、涙と泥でぐしゃぐしゃの顔で叫んだ。
「あんたは! あんたこそが、俺たちの本当の『王』だ!」
平民たちは、泥まみれのカインとセラフィナを、感謝と熱狂のままに担ぎ上げた。
「下水道貴族、万歳!」「新しい土地の誕生だ!」
ヴァルトの空に、古い権威の終焉と、新しい時代の幕開けを告げる歓声が響き渡った。
その夜。
久しぶりに静けさを取り戻した管理棟で、カインとセラフィナは、いつものように二人で設計図を広げていた。湯浴みを終え、清潔な服に着替えたセラフィナは、頬杖をつきながらカインに尋ねた。
「……結局、また二人きりね。これからどうするの? 私はもう『筆頭魔術師』でも何でもない、ただの技術者よ」
「好都合です」
カインは、設計図に新しい線を引しながら、顔も上げずに答えた。
「『筆頭魔術師』様には払える給金がありませんでしたが、『優秀な技術者』なら、俺が一生雇いますよ」
「……馬鹿ね」
セラフィナは、愛おしそうに目を細めた。
「私はもう、『王立』だとか『筆頭』だとか、そんな権威には興味ないわ。私は、この世界の誰も知らない『法則』を、あなたの隣で解き明かしたいだけ」
彼女は、カインが引いた線の上に、自分の指を重ねた。
「カイン。次の設計図は? この新しい土地で、何を創るの?」
カインは、ようやく顔を上げ、満足そうに笑った。
「決まってますよ。この新しい街の、新しい未来のための……」
彼が指さした設計図には、こう書かれていた。
『ヴァルト新市街地・上下水道インフラ基本計画』
「完璧な『下水道』です。俺たちの仕事は、いつだって地下から始まりますからね」
二人の手が、設計図の上で再び重なった。それは、世界を創り変えた二人のプロフェッショナルの、新たな日常の始まりだった。
(了)




