第7話 二人だけの設計図
カインが「都市インフラ最高責任者」に就任して数週間が経った。
彼の管理棟は、領主直属の重要施設へと名目上は変貌していたが、その実態は変わらない。相変わらずカインと、そして今や当たり前のように入り浸っているセラフィナの、二人だけの非公式な研究室兼設計室だ。
夜が深まる頃、二人は並んでデスクに向かっていた。
次の計画は、沼沢灰セメントを用い、領都を流れる川の中流域に建設する小規模な水力発電施設。まずは平民区の夜間照明を確保するためのものだ。
「このタービン(水車)の形状、あなたの風魔術の理論を応用すれば、もう少し効率が上がるはずだ」
カインが引いた物理的な線の上に、セラフィナが流麗な魔術的な軌道計算を重ねていく。二人の指先が、羊皮紙を挟んでしばしば触れ合った。その度に、管理棟の空気は、実験炉の熱とは異なる、張り詰めた熱を帯びた。
「……あなたの魔術は、本当に無駄がない。この回路図の美しさは、私の計算式よりも優雅だ」
カインは、思わずセラフィナの描いた線に見惚れた。
「それは、あなたが私に『魔術を純粋な物理現象として捉えろ』と教えたからよ、下水道貴族」
セラフィナは、フッと鼻で笑った。
「私は今、魔術が『神の力』ではなく、『制御可能なエネルギー』だと知った。あなたのその泥臭い知識のおかげで、私の世界は広がり、そして……少し、熱くなったわ」
彼女は、カインの隣に寄りかかり、彼の肩にそっと顎を乗せた。
「あなたがこの街を光で満たそうとしているのに、あなた自身は常に煤と泥にまみれている。その矛盾が、堪らなく魅力的なのよ」
セラフィナはそっと手を伸ばし、カインの煤で汚れた頬に触れた。
「私の知的好奇心を満たす、最高の標本。あなたの合理性、貴方の献身、そしてあなたがこの汚い世界を変えようとする情熱……すべてを私の傍で見ていたい」
カインは、セラフィナの耳元に囁いた。
「私の知識とあなたの魔力が融合すれば、この世界の進歩は止められなくなる。まるで、あなたと私のように、ね」
それは、新たな世界を建設する、泥まみれの王と、知恵に満ちた女王の、静かで熱い誓いだった。
だが、二人の接近と水力発電計画の開始は、貴族社会に新たな動揺をもたらした。
特に、公衆の面前で権威を失墜した次兄ガルスと、治癒魔術の権威を汚された上級魔術師たちは、カインの成功が自らの特権と経済基盤を崩すことを正確に理解していた。
彼らの反撃は、前回のような単純な資材妨害ではなかった。
数日後、領主の健康回復を祝い、カインの功績を称えるという名目の「功労パーティー」が、貴族区の豪華な館で開かれた。カインとセラフィナは、仕方なく正装して出席した。
煌びやかなシャンデリアの下、会場はカインに対する嘲笑と皮肉の空気に満ちていた。
ガルスが、わざとらしく一杯のワインを突きつけ、大声で言った。
「カインよ、聞けば今度は川に何かを造るらしいな。騎士団の防衛線に影響はないだろうな? それとも、また沼沢草の灰で川を汚染するつもりか? 下水道貴族の考えることは、常に下品だ」
カインは冷静に返した。
「兄上。騎士団の防衛線は、川ではなく、私の作る水力発電所の電力で動く照明によって、夜間の警備効率が向上するでしょう。私の下品な技術は、兄上の高貴な仕事の効率を上げるためにあります」
貴族たちがざわめく中、上級魔術師の一人が静かに口を開いた。
「カイン・ヴォン・レイクランド殿。貴殿の功績は認めよう。しかし、川の流れを変える発電所など、この地の農作物に悪影響を及ぼすのではないか? 我ら魔術師団が管理する灌漑用水路を、貴殿の泥臭い装置で混乱させては、飢饉が起きかねない」
それは、カインの次なる給水・灌漑インフラ計画を潰すための、巧妙な罠だった。貴族が領地を持つ最大の理由、すなわち「食料生産」を盾にした、最も効果的な攻撃だ。
「飢饉? 私の設計した給水路は、あなた方の非効率的な古い灌漑水路とは違い、マナ結晶を一切使わずに、低地の農地に必要なだけ正確に水を供給します。しかも、コストは十分の一以下だ」
カインが即座に反論した、その瞬間。
「証拠を見せろ!」
ガルスが待っていましたとばかりに叫んだ。
「貴様の理論は机上の空論だ! 貴族の領地での実験は許されない! もし、貴様の装置が失敗して農作物に少しでも被害が出たら、それは単なる反逆罪ではない。領地経営妨害だ!」
カインの技術的な合理性を、この世界の複雑な権威と経済の法で抑え込む。それが彼らの新しい戦術だった。
カインとセラフィナは、パーティー会場の喧騒を後にし、夜の静寂が広がる管理棟に戻った。
「彼らは、あなたの技術が自分の特権を脅かすことを理解したわ。次は、あなたのインフラ計画が、領地経済に与える影響を、徹底的に監視し、潰しにかかるでしょう」
セラフィナは、冷静に状況を分析した。
「わかっています。彼らが、私の知識を『机上の空論』で片付けようとするなら、私は彼らの目の前で、この世界の経済法則そのものを書き換えてやる」
カインは、設計図を広げ、荒れた手で力強く机を叩いた。
セラフィナは、カインの隣に座り、そっと彼の手に自分の滑らかな手を重ねた。
「あなたの戦いは、もう下水道だけではない。この街の『水の管理』全体よ。農作物の水、飲料水、そして発電の力。これらを全てあなたが握れば、貴族の権威は、紙くず同然になる」
彼女の指が、カインの指の節を辿る。
「カイン。彼らは、あなたが平民の農作物に水を分け与えることで、貴族の『水利権』という富の源泉が崩壊することを恐れている。あなたの計画は、この社会構造に対する、最も深遠な経済的革命よ」
カインは、セラフィナの手を強く握り返した。
「あなたは、この汚い仕事の最も重要な協力者だ。この革命の成功は、私の知識と、あなたの魔力、そしてあなたの知的な情熱にかかっている」
二人の間に、ロマンスの甘さではなく、世界を変えようとするプロフェッショナルな熱と、緊迫した共謀の誓いが流れた。
泥と魔力、そして知恵の結晶が、今、貴族社会の経済と権威に対する、より大規模な反撃を準備し始めた。




