第6話 権威の崩壊、泥の王の勝利
三日目の夜明け。
カインとセラフィナは、泥と汗、そして魔力消耗による極度の疲労の中で、最後のU字溝がバイパス水路に接続されるのを見届けた。
「……切り替えろ!」
カインの号令で、平民たちが旧水路を塞ぎ、新水路へと汚水が流れ込む。
セラフィナの魔術によって瞬時に硬化させられたモルタルは、濁流の圧力に見事耐え抜いた。貴族区の汚水は、領主の館の地下水脈から完全に隔離された。
二人は、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。
「やった……やったぞ……」
カインは、泥だらけの手で顔を覆った。隣で、セラフィナも荒い息をつきながら、満足げな笑みを浮かべていた。純白だったローブは、もはや泥と汗で見る影もない。
吉報は、その日の昼過ぎに届いた。
領主の熱が、引き始めた。
井戸水の汚染源が断たれ、体内の毒素が排出され始めたのだ。カインの理論は、完璧に証明された。
しかし、ヴァルトの貴族社会は、カインの勝利を素直に認めなかった。
父である領主の命を救ったにもかかわらず、次兄ガルスにとって、それは自らの権威が「マナ適性ゼロ」の弟に、それも「下賤な土木技術」によって公然と覆されたことを意味した。
「あの忌々しい『下水道貴族』め……!」
ガルスは、カインの成功を妬む上級魔術師たちと密談を重ねた。彼らもまた、治癒魔術が汚水に敗北したという事実を認めるわけにはいかなかった。
彼らの反撃は、陰湿かつ迅速だった。
カインが、次の計画――平民区への安定的な農業用水供給を目的とした、小規模灌漑ダムの建設――に着手しようとした矢先のことだ。
「カイン様! 大変です!」
石工ギルドのボリス親方が、血相を変えて管理棟に飛び込んできた。
「主要な石灰岩の採掘場が、騎士団によって封鎖されました! なんでも『高レベル魔獣の巣が発見された』とかで……」
「馬鹿な!」
カインは机を叩いた。石灰岩は、カインのセメント代替品の主原料だ。それを断たれれば、ダム建設はおろか、既存の水路の補修すらままならない。
「兄上の差し金だ。魔獣の巣など、いくらでも捏造できる……!」
資材源を断つ。カインの技術の根幹を絶つ、最も効果的な攻撃だった。
「……面白い。そこまで私を潰したいというわけね」
報告を聞いたセラフィナは、しかし、怒るどころか静かに燃えていた。
「カイン。石灰岩がダメなら、別の素材を探すまでよ。あなたの『化学結合』の理論は、石灰岩だけが答えではないはず」
「その通りだ」
カインとセラフィナは、再び管理棟に籠もった。
「必要なのは、石灰の代わりになる強アルカリ性の焼成灰……」
「それなら、一つ心当たりがあるわ」
セラフィナは、王立魔術院の植物図鑑を広げた。彼女が指差したのは、一枚の禍々(まがまが)しい植物の挿絵。
「『沼沢草』。ヴァルトの湿地帯に生息する有毒植物よ。アルカロイド系の強毒を持ち、触れるとかぶれるため、領民からは忌み嫌われているわ」
「……これだ」
カインはその説明に、光明を見た。
「強毒性のアルカロイド。つまり、燃焼させれば、極めて強アルカリ性の灰が残るはずだ!」
二人はすぐさま湿地帯へ向かい、忌み嫌われる沼沢草を大量に刈り取り、ギルドの窯で焼却した。
凄まじい悪臭と有毒な煙が立ち込める中、残ったのは、純白の石灰とは似ても似つかない、どす黒い灰だった。
だが、この灰を粘土と混ぜて練り上げた時、カインが知るどのセメントよりも強力な、暗緑色のモルタルが完成した。
「……これは」
カインは、硬化した試作品をハンマーで叩き、その強度に目を見張った。
「石灰岩ベースより、はるかに頑丈だ……!」
数週間後。
カインが新たなダムを建設しているという噂を聞きつけ、ガルスが騎士団を率いて現場に乗り込んできた。彼は、カインが資材不足で何もできず、途方に暮れている姿を想像していた。
「カイン・ヴォン・レイクランド!」
ガルスは、馬上で大上段に構え、カインを指差した。
「貴様、領主様の許可なく、またも河川を改変しようとは不届き千万! 石灰岩採掘場が使えぬ今、貴様に何ができる! 領民を惑わす反逆罪人として、今ここで逮捕する!」
騎士たちが、一斉にカインを取り囲む。
しかし、カインは、ただ静かに、彼らの背後に広がるものを見つめていた。
「兄上。遅かったですね」
「……何?」
ガルスが振り返り、そして、息を呑んだ。
そこには、カインが立っていた丘の麓から、川を堰き止めるようにそびえ立つ、巨大な暗緑色の「壁」が、すでに完成していた。
沼沢灰セメントで建設された、巨大な貯水・灌漑用ダム。
「馬鹿な……石灰岩もなしに、どうやってこんなものを……!?」
「兄上が石灰岩を取り上げてくれたおかげで、もっと安価で、もっと頑丈な素材を見つけることができました。感謝しますよ」
「ふ、ふざけるな! そのような、得体の知れぬ灰で作った壁など、すぐに崩れるに決まっている! 虚偽の建造物で領民を欺いた罪、万死に値する!」
ガルスが剣を抜き放ち、ダムを攻撃させようとした、その瞬間。
「――お待ちなさい、ガルス少佐」
凛とした声が響き渡った。セラフィナが、騎士団の前に進み出る。
「このダムの構造安全性については、私が王立衛生魔術院の名において、すでに計測済みです」
セラフィナは、公衆の面前で、計測用の魔術具をかざした。
「結論を述べます。このダムの構造耐久力は、私の知るいかなる魔術的防御壁よりも優れています。物理的に、完璧です」
その宣言は、集まった平民、そして騎士団の兵士たちに、決定的な事実を突きつけた。
魔術の頂点に立つセラフィナが、魔術を不要とするカインの技術に、完全な「勝利」を宣告したのだ。
ガルスは、振り上げた剣を握りしめたまま、わなわなと震えた。
権威も、プライドも、そして彼が信じてきた魔力という秩序も、目の前の「泥まみれの弟」と、彼が築いた「暗緑色の壁」の前に、完全に崩壊した。
カインは、爵位剥奪どころか、父である領主が回復したのち、正式に「都市インフラ最高責任者」という、この世界に存在しなかった役職を与えられた。
彼の技術が、貴族の常識を打ち破った、歴史的な瞬間だった。




