第3話 泥の中の設計図
セラフィナと「インフラ戦争」の協定を結んだはいいが、カインは早々に技術的な壁にぶち当たっていた。
「くそ、セメントがない……!」
薄汚い管理棟にカインの焦燥に満ちた声が響く。
バイパス計画に不可欠なU字溝。それを安定させるためのモルタル。そのどちらにも、現代土木技術の根幹である「ポルトランドセメント」が存在しない。
この世界の石工たちが使うのは、石灰と砂を水で練っただけの原始的な漆喰だ。強度は低く、なにより流水に対する耐性が皆無に等しい。
(これではU字溝どころか、ただの脆い水路しかできん。汚水の圧力と流量ですぐに決壊する)
カインは頭を抱えた。前世の知識という最強の武器がありながら、それを実現するための基礎素材が欠けている。魔術というチート能力を持たない転生者にとって、これは致命的な問題だった。
カインが管理棟に籠り、粘土や火山灰を焼成しては溜め息をつく日々を送っていた頃、その様子を最も軽蔑の眼差しで見つめている人物がいた。
「おい、カイン」
管理棟の扉が乱暴に蹴破られ、長身の男が姿を現した。
豪奢な銀細工の甲冑。腰には大剣。カインとは対照的に、マナの力に満ち溢れた精悍な肉体。
彼の義兄、レイクランド伯爵家の次男にして騎士団少佐、ガルス・ヴォン・レイクランド。
「聞いたぞ。あの高名なセラフィナ様と、お前が『汚泥を賭けた勝負』とやらをしているそうだな」
ガルスは、カビ臭い管理棟の空気を嫌うように鼻を鳴らし、カインが広げた設計図をブーツの先で小突いた。
「馬鹿も休み休み言え。マナ適性ゼロのお前が、王立魔術院のエリートに勝てる道理がなかろう。レイクランド家の恥晒しめ」
「兄上。これは勝負ではありません。街の衛生環境を守るための、必要な『業務』です」
カインは、設計図を守るように手で押さえ、冷静に言い返した。
「貴族区の汚水が平民区の井戸水に浸透している事実は、すでに確認済みです。これは疫病の発生源であり、放置すれば貴族区とて無事では済みません。私の仕事は、その汚染源を断つことです」
「……口だけは達者になったものだ」
ガルスは、カインの正論に一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに嘲笑を浮かべた。
「まあ、せいぜい泥遊びに励むがいい。だが、覚えておけ。父上は言われたぞ。セラフィナ様が少しでも不満を口にすれば、お前は即刻、爵位を剥奪され、追放だ」
ガルスは、吐き捨てるようにそう言い残し、去っていった。
(追放、か。上等だ)
カインは、むしろ兄の言葉で覚悟を決めた。
セメントがないなら、それに代わるものを、この世界にある素材で作り出すしかない。
カインは、必要な資材と技術協力を得るため、ヴァルトの石工ギルドを訪れた。
ギルドの親方であるボリスは、いかにも頑固一徹といった風情の大柄な男だった。彼は最初、カインの「治水管理者」という肩書を聞いて、露骨に嫌な顔をした。
「ほう、貴族様が直々に石工ギルドへ何の御用で? 汚水溜まりの修理なら、魔術師様にでもお頼みになっちゃ」
「あんたたちの漆喰では、あの水圧は止められない。だから来た」
カインは単刀直入に切り出した。
「俺は、石灰にあるものを混ぜて焼成し、水の中でも固まる新しい接合剤を作りたい。それを使って、平民区の汚染を止めるための水路を建設する。……あんたたちの技術と窯を借りたい」
「水で固まるだと? 寝言は寝て言え、坊ちゃん」
ボリスは鼻で笑った。だが、カインが設計図を広げ、U字溝の正確な断面図と、勾配計算、そして必要な耐水圧の数値を淡々と説明し始めると、ボリスの顔から嘲笑が消えた。
そこに描かれていたのは、魔力に頼らない、緻密な「数字」と「構造」の世界。それは、彼ら職人が長年培ってきた「経験則」と一致し、かつそれを理論化したものだった。
「……面白い。貴族のあんたが、どうしてこんな計算を」
「俺は『下水道貴族』だ。泥と数字のプロだ」
カインは、前世の上司を口説き落とした時のように、自信に満ちた笑みを浮かべた。
「この仕事、受けてくれるなら相場の三倍を払う。ただし、条件は一つ。俺の指定する『正確さ』を、一ミリ違わず実現してもらう」
「三倍」という報酬と、何よりカインの瞳に宿る「プロ意識」が、ボリスの職人としての心を刺激した。
「……いいだろう。その『正確さ』とやら、見せてもらおうじゃねえか」
ボリス親方と契約を交わした直後、最悪の知らせが届いた。
次兄ガルスからの「命令書」だ。
「――石工ギルドの熟練職人全員に対し、城壁の緊急補修のため、城への臨時召集を命ずる――」
(汚い手を……!)
セラフィナ様への不満、という名目で圧力をかけたのだろう。カインの計画の「手足」となる熟練職人を、合法的に奪い去るという、実に貴族的な妨害だった。
ギルドに戻ると、ボリスが苦虫を噛み潰したような顔で立っていた。
「すまねえ、カイン様。騎士団の召集命令じゃ、逆らえねえ……」
「いや、いい」
カインは、その命令書を見て、逆に皮肉な笑みを浮かべていた。
「ボリス親方。ちょうどよかった。兄上に感謝しないとな」
「……は?」
「熟練職人がいないなら、素人を使えばいい。城に召集される熟練職人たちの代わりに、私はこの地域に住む平民の未熟練労働者を、日当で五十人雇いたい」
ボリスが目を丸くする。
「素人五十人だぞ!? U字溝の精密な設置なんぞ、できっこねえ!」
「できるさ。俺の『工法』ならな」
カインは設計図の一部を指差した。U字溝を設置する地面に、あらかじめ正確な勾配をつけた「型枠」を設置する設計図だ。
「素人には、この型枠にU字溝を『置くだけ』の単純作業をやらせる。これなら技術は要らない。必要なのは人手だけだ」
そして、カインは悪戯っぽく笑った。
「貴族の傲慢が、私に安価な労働力を供給してくれたわけだ。感謝しますよ、兄上と、それを操るセラフィナ様にもね」
貴族の法律と常識を逆手に取り、妨害を乗り越える。カインの最初の「U字溝革命」が、今、静かに着手された。




