第2話 泥と魔力の衝突
カインが最初の着手点として選んだのは、貴族区の生活排水が集中する地点だ。
そこは「聖なる排水溝」と呼ばれていた。
だが、カインが測量用のポールを突き刺した感触は、聖なるどころか、底なしの泥濘そのものだった。
「排水溝、ね……」
カインは、深々とため息をついた。
実態は、浄化魔術で処理しきれない汚水が溜まる、巨大な澱み場だ。貴族区から流れてくる排水の絶対量に対し、魔術師の処理能力がまったく追いついていない。
魔力で固められたという壁面は、ヘドロの圧力に耐えきれず、あちこちがひび割れている。そこから染み出した汚水が、すぐそばにある平民区の井戸を汚染しているであろうことは、想像に難くない。
(ひどい設計だ。いや、これは設計ですらない。ただの隠蔽だ)
前世の技術者としての血が、この根本的な欠陥を許せないと叫んでいた。
カインは汚泥に膝まで浸かりながら、排水溝の流入量と水位を計測する。必要なのは、この澱みを迂回させ、勾配をつけて自然流下させるためのバイパスだ。
そのための測量ラインを引こうと、カインが地面に杭を打っていた、その時だった。
「――おい。そこを掘るなと言っただろう!」
空気を震わせるような、甲高い声が響いた。
反射的に顔を上げると、泥の地面には到底似つかわしくない、純白のローブをまとった女性が立っていた。
腰まである白銀の髪。気の強そうな、しかし恐ろしく整った顔立ち。彼女がまとうローブは、この汚濁の地にあって、泥の一滴すら跳ね返しているかのように清浄だ。
カインは、管理棟の資料で彼女の顔を覚えていた。
セラフィナ・リアーデン。
ヴァルト領の筆頭浄化魔術師であり、「王立衛生魔術院」の若きエリート。この「聖なる排水溝」の管理責任者その人だった。
「貴様、新任の治水管理者と聞いたが。下級貴族とはいえ、礼儀を知らんのか」
セラフィナは、まるで汚物でも見るかのようにカインを睨みつけた。
「私がこの神聖な浄化場を守るために築いた結界の一部を、勝手に掘り崩しているようだが、どういうつもりだ?」
彼女が言う「結界」とは、おそらく魔力で固められた、あのひび割れた壁のことだろう。
カインは、汚泥と汗まみれになったズボンを叩く気にもなれず、そのまま立ち上がった。
「失礼。レイクランド家のカインです。まず、この『聖なる排水溝』の設計者にお尋ねしたい」
カインは、あえてゆっくりと、測量ポールに付着したヘドロを布で拭った。
「この流入量と、貴女の言う結界の処理能力を考えた時、どうしてオーバーフローの概念がないのですか?」
「……なに?」
「オーバーフロー。つまり、許容量を超えて溢れ出すことです」
セラフィナは、侮辱されたかのように柳眉を吊り上げた。
「何を言っている。魔力による浄化は完全であり、絶対だ。溢れるなどありえない!」
「現に、溢れてますよね?」
カインは、セラフィナの足元、ほんの数歩先で、澱み場の汚水がぽこり、と泡を立てるのを顎で示した。
「そこで作業を始めてから、すでに二回ほど、貴女のその完璧に白いローブの裾に、飛沫が跳ねそうになりましたが」
「なっ……!」
セラフィナは、慌てて数歩後ずさった。
カインは、その隙を見逃さず、皮肉たっぷりに続けた。
「貴女は、魔術という『現象』だけを見て、その根本にある『物理法則』を見ていない。水は高いところから低いところへ流れる。そして、溜まれば溢れる。こんな単純なことを、魔力という万能の力で捻じ曲げようとするから、こんな欠陥品が出来上がる」
カインは、手に持っていた汚れた定規を、セラフィナに突きつけた。それは、前世の知識で自作した、正確な目盛りが刻まれたものだ。
「貴女は、私のプロの仕事の邪魔をしている。……ライバルさん?」
「……ッ!」
その言葉は、セラフィナのプライドの琴線に触れたようだった。
彼女は、浄化のために高めていた手の魔力を、わなわなと震わせながら解いた。エリート魔術師の顔が、屈辱と怒りで真っ赤に染まっている。
「……下水道貴族。それが貴様の呼び名か」
セラフィナは、絞り出すような声で言った。
「いいだろう。その下品で泥臭い方法が、私の『完全なる浄化』に勝るというのなら、この目で見てやる」
彼女は、純白のローブを翻し、カインに挑戦的に言い放った。
「ただし、もし貴方が成功したら……私の『王立衛生魔術院』で、貴方の言う『流体力学と勾配管理』とやらを、必須科目として取り入れさせてやる。その代わり、失敗すれば、神聖な結界を破壊した罪で、即刻、その首を刎ねてもらう!」
泥にまみれた「下水道貴族」と、誇り高き「王立衛生魔術師」。
水と土の物理法則と、万能とされる魔力。
どちらがこの腐敗した都市のインフラを制するか。ユーモアと皮肉に満ちた、二人の戦争の火蓋が、今、切って落とされた。




