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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜  作者: しいたけ
第6章 秩序と瓦解

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第85話:視察と鎖

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

朝靄がまだ晴れきらぬ魔術院の正門前。分厚い鉄格子と幾重もの不可視の結界の向こう側には、早朝から押し寄せた王都市民たちの人だかりができていた。

彼らの手には、アルベールが昨夜のうちに王都全域へ勝手にばら撒いた布告の写しが握りしめられている。


「魔術院は俺たちを焼く気か! 出て行け!」


「逆らう者は皆殺しにするつもりだぞ!」


門番を務める若手魔術師に向けて、恐怖に駆られた市民から石が投げつけられる。

石は結界に弾かれ、乾いた音を立てて足元に転がった。

だが、投げつけられるのは恐怖からの石だけではない。


「力があるなら、さっさと暴徒を焼き払ってくれ!」


「魔術院は国威なんだろう!? 俺たちの腹を満たしてから言え!」


略奪の恐怖に怯え、飢えに苦しむ者たちからは、暴力を期待する身勝手な悲鳴と怒声が入り混じって浴びせられていた。

『魔術院が新体制に忠誠を誓い、総力をもって鎮圧に当たる』。

アルベールが独断で打ち上げたその既成事実は、もはや真偽など関係なく、「魔術院が来る=人が焼かれる」という強烈な世論として完全に固定されてしまっていた。


結界の内側で、若手魔術師は青ざめた顔のまま、飛んでくる罵声をただ浴び続けるしかなかった。


「……僕たちはまだ、一つの魔法も使っていないのに。もう“悪役”だ」


その声は、門の内側の回廊にいた伝令の耳に吸い込まれた。



「魔術院の名を、誰が勝手に売った!」


円卓会議室に、白髭の魔術院長の激昂した声が響き渡った。

机を叩き割らんばかりの怒りだが、その焦点はもはや「誰の命令か」という書類上の問題ではなかった。


「アルベールだ。あの死罪になったはずの若造が、新体制の神輿としてしゃしゃり出て、世論を使って我々を政治の道具として縛り上げおったのだ!」


その名が出た瞬間、炎の老魔術師が血走った目を円卓の一角に向けた。


「おい、リュシアン! 貴様、かつてはあの若造の部下として実務を仕切っていたな! 魔術院の権威を売り渡すようなこの姑息な真似、お前は本当に何も知らなかったのか!」


激高し、今にも掴みかからんばかりに詰め寄る老魔術師に対し、リュシアンは表情一つ変えずに冷ややかに返した。


「私が仕えていたのはあくまで魔術院の実務です。彼の個人的な野心の駒になった覚えはありません。……それに、彼が今の魔術院の誰にも相談せず、強引に世論を固定しに来たこのやり方自体が、彼が我々を“駒”と見ている証拠です。」


「貴様……!」


「……身内で争っている場合ではありませんよ」


氷の魔術師オリヴィエが、静かで冷たい声で老魔術師の怒気を遮った。彼は手元にある布告の写しを見つめながら、極めて冷静な現実論を口にする。


「リュシアンの言う通り、完全に外堀を埋められました。今さら『この布告は偽物だ、我々は関与していない』と撤回声明を出したところで、誰も信じません。それどころか、暴動に怯える市民からは『王都を見捨てた逃亡者』として憎悪され、新体制の貴族たちからは『通達に逆らう反逆者』として討伐の口実を与えます」


「撤回すれば、どちらにせよ魔術院は焼かれるということか……!」


炎の老魔術師が忌々しげに舌打ちをする。

沈黙が落ちる円卓で、リュシアンが再び静かに口を開いた。


「世論が固定された以上、言葉での火消しは不可能です。我々が外に出て、物理的な『行動』によって、魔術院の立ち位置を定義して見せるしかありません」


「行動だと? 結局はノコノコと出向いて、暴徒を焼けと言うのか」


「いいえ」


リュシアンは首を振り、オリヴィエへ視線を向けた。オリヴィエが静かに頷き、言葉を引き取る。


「我々が出す視察団の名目を、『治安協力』ではなく、『救護と防壁の臨時支援』に限定します」


「救護だと?」


「はい。条件を明確にします。いかなる挑発があろうと攻撃魔法は全面禁止。行うのは氷や土による防壁の構築、延焼の消火、そして負傷者の治癒のみ。……決して、暴動の鎮圧現場そのものには入りません」


オリヴィエの冷徹な声が、円卓の空気を引き締める。


「焼かない。守る。――それだけを王都の民と、我々を利用しようとする者たちに“見せる”のです。魔術院は政治の私兵ではないと、行動で証明するために」


「守るだと? 弱腰め!」


炎の老魔術師が鼻で笑い、吐き捨てるように言った。


「圧倒的な力を見せつけて蹂躙すれば済むことだ。わざわざ自ら手足を縛って外に出るなど、魔術院の誇りに関わるわ!」


「……蹂躙して燃やすより、線を引いて守る方が、はるかに高度で難しいのですよ」


リュシアンが、冷ややかな声で老魔術師の反発を切り捨てた。


「だからこそ、今の我々にはその価値を示す必要がある。……院長、手配を進めます。布告の内容とは異なりますが、『治安回復のための支援』という大義名分とは矛盾しません。政治的にも、これが最も安全な線引きです」


魔術院長は苦渋に満ちた顔で深く息を吐き、重々しく頷き、震える手で、視察団の行動規定に院印を押した。

そこに記されたのは、たった一行――「攻撃魔法、全面禁止」



数時間後。魔術院の正門が開いた。

オリヴィエを筆頭とする数名の精鋭魔術師と、記録係として同行するリュシアン。彼らが外へ踏み出すと、そこにはすでに一団の兵士たちが待ち構えていた。


「お待ちしておりました、魔術院の皆様方」


リヒテンブール公爵家の紋章を掲げた、完全武装の私兵たちだ。

その先頭に立つ貴族の使者が、慇懃無礼な笑みを浮かべて頭を下げる。


「王都の道は現在ひどく荒れております。我々が安全な配給所まで、道案内を務めさせていただきます。公爵家からの、ささやかな善意です」


善意などという言葉が建前であることは、誰の目にも明らかだった。

これは「魔術院が布告通りに暴徒を焼き払うかどうか」を背後から見張るための、実質的な監視部隊である。


「……ご丁寧に」


オリヴィエが感情を交えずに返答する横で、リュシアンが手元の羊皮紙に素早く羽ペンを走らせていた。私兵の人数、装備の質、そして指揮系統。後で何らかの責任を問われた際の反証材料として、同行者の戦力を記録しているのだ。


「……善意というなら、その後ろに控えている者たちの抜身の刃は要らないはずだがな」


リュシアンが周囲に聞こえないほどの小声で毒づく。

オリヴィエは表情を変えることなく、真っ直ぐに王都の荒れた大通りを見据えた。


「……監視の鎖を繋がれたままでも、歩くしかありません。我々の行動で、誤解を解くために」



王都西区の配給所前。

オリヴィエたちの一行が到着すると、現場の空気は一瞬にして凍りついた。


配給を待つ避難民と、暴動の巻き添えになった負傷者たちでごった返す広場。その喧騒が、黒と銀の魔術院のローブを見た途端、悲鳴と怒号に変わった。


「ま、魔術院だ!」


「本当に俺たちを焼き殺しに来たぞ! 逃げろ!」


恐慌状態に陥った群衆の中から、石や泥が飛んでくる。

オリヴィエは無言のまま杖を軽く一振りし、一行の前に透明な氷の防壁を展開した。飛来した石が氷に弾かれ、無害な音を立てて落ちる。


その騒ぎを聞きつけ、現場で暴動の対応に追われていた王都警備隊の役人が、血走った目で駆け寄ってきた。


「おお! 魔術院の皆様が来てくださったか!」


役人は、オリヴィエの冷たい表情にも気づかず、まるで救世主に出会ったかのように歓喜の声を上げた。


「これでようやく“鎮圧”ができます! さあ、あそこの路地裏で暴れている連中を一掃してくれ! 奴らを焼き払えば、この配給所の混乱も収まる!」


役人の目論見は明白だった。

自分たちでは手に負えなくなった治安維持の責任と、自国民を殺傷する血の汚れを、すべて魔術院という強大なスケープゴートに押し付けようとしているのだ。


「彼らが暴徒だという証拠はどこにある」


オリヴィエは氷のように冷たく、そしてはっきりとした声で告げた。


「我々は鎮圧には加担しない。任務は負傷者の救護と、配給所を守る防壁の構築だ。……誰も傷つけない」


「なっ……なんだと!?」


役人の歓喜の顔が、一転して激しい苛立ちと怒りへと歪む。


「布告には総力で鎮圧すると書いてあったはずだ! 攻撃しないなら、いったい何をしにこんな所まで来たんだ! 貴様ら魔術師が協力しないから、現場はこんなに混乱しているんだろうが!」


その役人の怒声が引き金となった。

広場の背後にある路地で、配給の順番を巡る暴徒同士の小競り合いが激化し、鈍い打撃音と共に女性の悲鳴が上がった。

しかし、恐怖と疲労で暴走し始めた群衆の憎悪の矛先は、暴れている暴徒に向かうことはなかった。役人の無能に向けられることすらなかった。

圧倒的な力を持ちながら、自分たちの望む『暴力』を行使しようとしない魔術院へと、その怒りは完全にすり替わったのだ。


「ふざけるな! 魔術院は俺たちを見殺しにする気か!」


「結局、あいつらが守るのは王都の民じゃなく、自分たちの保身だけなんだ!」


誰かの絶叫が広場に響き渡り、それが波のように群衆全体へと伝播していく。

向けられる無数の敵意と、いつ暴発してもおかしくない殺気。

背後で案内役を名乗っていた公爵家の私兵たちは、この状況を助けようともせず、薄笑いを浮かべて事態を傍観している。


オリヴィエは氷の防壁を維持したまま、ローブの下で拳を固く握りしめた。


(……ここで彼らの挑発に乗り、身を守るためであっても、一度でも攻撃魔法の火を出せば終わる)


彼らが放った火は、必ず「魔術院が罪のない市民を虐殺した」という既成事実としてアルベールたちに利用され、王都全域の怒りの業火となって魔術院を焼き尽くすだろう。

オリヴィエは冷静な理知でその結末を完全に理解していたからこそ、唇から血が滲むほどに耐え忍んでいた。


魔術院は、まだ一つの攻撃魔法も放っていない。

誰も傷つけていないし、誰の命も奪っていない。

――それでも、彼らはもう、王都のすべてから憎まれていた。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

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