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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜  作者: しいたけ
第5章 模倣と誤算

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第79話:裏席と取引

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

王都西区の第三備蓄倉庫前。冷たい冬の夜風が吹き抜ける石畳の上を、数人の兵士たちが無言でデッキブラシを擦り続けていた。

彼らがバケツから撒く水は、石の隙間に染み込んだ赤黒い汚れを洗い流そうとしているが、何度流しても水は薄赤く濁ったまま、鉄の錆びたような嫌な匂いを放って側溝へと流れ込んでいく。


あの一太刀から、王都の空気は決定的に腐った。


大通りの目立つ壁には、王城の書記官たちが夜を徹して書き上げた真新しい触れ書きが貼られている。

『倉庫前の騒乱は暴徒同士の小競り合いに端を発した。警備隊と軍の介入により鎮圧された。市民は流言飛語に惑わされず、平穏を保て』


だが、通りすがりの市民たちは、その白々しい羊皮紙を憎悪の入り混じった冷たい目で見つめ、足早に過ぎ去っていく。そして夜陰に紛れ、その触れ書きは無惨に引き裂かれ、泥の中に踏みにじっていた。

もはや、誰も王城の言葉など信じていないのだ。


街のあちこちで、重い鉄の鎧戸を下ろす商店の音が響く。少しでも財の余裕がある者は、荷車に全財産と家族を押し込み、大渋滞を起こしている王都の門を何とか抜け出そうと必死に役人に銀貨を握らせている。

一方で、門を抜ける金すら持たない者たちが集まる貧民街の方角からは、不気味な赤黒い炎が幾筋も上がり、燻る煙の匂いが王都全体を覆い始めていた。


治安を維持するはずの巡回の兵士たちの顔もまた、絶望的なまでに疲弊していた。

警備隊が民を斬ったという事実は、制服を着るすべての者への憎悪に変わっている。いつ、どの路地の暗がりから石や刃物が飛んでくるか分からない。そして何より、すれ違う別の部隊が、自分たちとは異なる命令書で動いている「敵」かもしれないという猜疑心が、彼らの精神を限界まで削り取っていた。


王都は今、法や王命で「治められる状態」を逸脱し、暴力と恐怖だけが支配する場所へ――落ちかけていた。



王都の中心部から少し離れた、静寂に包まれた広大な敷地。

王都の貴族たちを束ねる最有力者、リヒテンブール公爵の邸宅である。その表の豪奢な応接間ではなく、限られた極少数の客人しか通されない奥の薄暗い一室に、二人の男が対峙していた。


主であるリヒテンブール公爵と、秘密裏に訪れた王国軍の最高権威、元帥モンフォール。

分厚い絨毯が足音を吸い込み、暖炉の炎だけが、二人の老練な男たちの顔に深い影を落としている。


元帥は軍服姿のままだったが、帯剣はしていなかった。彼はゆっくりとした動作で、両手の革の手袋を外した。

戦場で剣を握り、部隊を指揮するための手を覆う手袋。それを外すという所作は、彼が今夜、武力としてではなく、素手で「政治」という泥の底に触れようとしていることの静かな証左だった。


「倉庫前の惨劇。……陛下は、暴徒の同士討ちとして処理されるおつもりのようだな」


公爵が、手元の葡萄酒のグラスを揺らしながら低く切り出した。


「血の匂いは、紙切れ一枚の触れ書きでは隠せません」


元帥は手袋を机の端に置き、真っ直ぐに公爵を見据えた。


「内政局の警備隊が民を斬った。その事実は、すでに王都の隅々にまで広がり、民の怒りは臨界を超えている。そして何より……機能不全の命令に振り回され続けている、我が軍の兵たちの理性が限界です」

「知っておる」


公爵はグラスを机に置き、深く息を吐いた。


「王城の文官どもが責任を擦り付け合い、その矛盾をすべて現場に押し付けた結果だ。統治の破綻が、最悪の形で吹き出した」


過去を裁く言葉は、ここには要らない。王の失策も、文官の無能も、警備隊の暴発も、すべてはすでに起きてしまった変えようのない事実として横たわっている。

彼らがこの裏席で語るべきは、明日のための線引きだけだった。


「……軍が前に出れば、それは簒奪となる」


公爵が、探るような、しかし極めて鋭い視線を元帥に放った。


「王家を飛び越えて軍が強権を発動すれば、貴族たちは必ず二つに割れる。王家への忠誠を重んじる者と、現状の変革を望む者。割れれば、内戦の火種を撒くことになるぞ」

「すでに、割れかけているのです」


元帥の返答は、氷のように冷たく、迷いがなかった。


「このまま王城が現実から目を背け、機能不全の統治を続ければ、王都は遠からず暴動と略奪の炎に包まれ、灰燼に帰す。今夜止めなければ、この国に明日はない」


無言の対話が続く。

暖炉の薪が爆ぜる音だけが、不気味なほど鮮明に部屋の中に響いた。

公爵は元帥の瞳の奥に、ただの権力欲や野心ではない、国家という器そのものを存続させるための冷徹な覚悟を読み取っていた。


やがて、公爵は重厚な机の引き出しに手をかけ、一度だけ、音を立てずに少し引き出した。

引き出しは、ほんのわずか開き――すぐに閉じられた。


「……ならば、“形”が要る」


引き出しから手を離し、公爵は静かに告げた。


「ただ軍が武力で動くだけでは、貴族も民も納得せぬ。内戦を防ぐためには、大義という名のもっともらしい形がな」

「形を整えるのは、貴殿の領分だ」


元帥は間髪入れずに応じた。


「我々軍は、貴殿が用意するその大義の形を守るための、確かな刃となる」


王家の名を出さずに、取引だけが成立した。


公爵は目を細め、最後にして最大の念押しをした。

「代わりに、一つだけ約束してもらおう。……これ以上の血は流さぬと。血を流し過ぎれば、その後の統治が成り立たん」


王都を燃やさず、内戦を避け、可能な限り静かに盤面をひっくり返す。それが公爵の要求する絶対の条件だった。

元帥は外した手袋を無意識に強く握りしめ、深く、そして断固として頷いた。


「増やさぬ。……これ以上、無駄な血を流させないために、止めるのだ」


それ以上の言葉は不要だった。

誰をどう排除するのか。王城をどう制圧するのか。具体的な地図も、作戦の段取りも、この部屋では一切語られない。

だが、王都の、そしてこの王国の運命を決める冷酷な取引は、この静寂の中で完璧に成立した。



公爵邸の裏門から、紋章の描かれていない地味な黒塗りの馬車が、音もなく滑り出るように走り去っていく。

車内には、闇に溶け込むように元帥モンフォールが深く腰を下ろしていた。


「閣下……」


向かいの席で待機していた副官が、主の放つ異様なまでの静かな威圧感に気圧されながら、押し殺したような声で問う。


「公爵閣下との首尾は。……いよいよ、動かれますか」


元帥は窓の外、相変わらず王都のあちこちで不穏な煙が上がり続けている夜空を見つめたまま、低く答えた。


「いよいよ、ではない。もう遅すぎたくらいだ」


その声に込められた確かな絶望と、それを上回る冷徹な決意に、副官が息を呑んで姿勢を正す。


「夜明けまでに、“静かに”済ませろ」


「はっ……!」


何を、とは言わない。副官も聞かない。

それで足りた。


馬車の車輪の音が、冷たい石畳の上を滑っていく。その音は、まるで国家という巨大な機構が、これまでとは全く違う軌道へと乗り換えるための、重い軋み音のようだった。


夜明け前。

凍てつくような冬の暗闇の中で、王都のどこかの建物の灯りが、ふっと一つ消えた。


それが誰の部屋の灯りであったのか、知る者はいない。

だが、その小さな暗闇が、次にどのような巨大なものを消し去るのか。

王都の絶対的な掟が変わるのは、いつも決まって、人々が恐れと共に眠りにつく、このような深い夜の底なのだ。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

これにて第5章、完結となります。

幕間を挟み、第6章へと物語は続きます。

引き続き、お楽しみいただければ幸いです。


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