第9話:鋼鉄の群れと死の宣告
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用水路の完成を祝う宴の熱気も冷めやらぬ、数日後。
村には、これまでになかった活気が満ちていた。
川岸では巨大な水車ノーリアが重々しい音を立てて回り続け、その桶が汲み上げた水は、村人たちが総出で掘り上げた水路を通って、乾いた大地を潤している。
「すごいぞ、アシュラン! 見てくれ、水を吸った土が、まるで生き返ったようだ!」
畑仕事に出ていたボルグが、泥だらけの手を拭いもせず、興奮気味に報告に来る。
かつてはひび割れ、作物など育ちそうになかった荒れ地が、今や黒々とした豊かな土壌へと変わりつつあった。
「ああ。水が行き渡れば、土中の微生物が活性化する。これでようやく、まともな農業ができるスタートラインに立ったわけだ」
俺は満足げに頷いた。
水の問題は解決した。食料事情も、備蓄と収穫でなんとかなるだろう。
俺の頭の中は、すでに次の「快適化計画」へと向かっていた。今の住処である廃屋は、隙間風が酷く、断熱性も皆無だ。これからの季節、もっと快適な住環境――つまり、頑丈で暖かい家が必要だ。
「次は建築か……。資材が足りないな」
俺がぼんやりとそんなことを考えていた、その時だった。
「――う、うわあああああああっ!!」
村の東側、鬱蒼とした森の方角から、空気を切り裂くような悲鳴が響き渡った。
「なんだ!?」
近くにいた鍛冶屋のドルガンが、作業の手を止め、鋭い視線を向ける。
森の木々が激しく揺れ、鳥たちが一斉に空へと飛び立った。
そして、茂みをかき分けて飛び出してきたのは、森の開拓に向かっていたはずの村人たちだった。彼らは鍬や斧を放り出し、転がるようにして村へと逃げ帰ってくる。その顔は恐怖に引きつり、極限状態にあることが一目でわかった。
「ば、化け物だ!!」
「逃げろ! 食われるぞ!!」
「落ち着け! 一体何があった!」
村長のギードが駆け寄り、腰を抜かしている若者を抱き起こす。若者はガタガタと震えながら、森の奥を指さした。
「で、でっけぇイノシシだ……! ただのイノシシじゃねえ! 斧が……刃が通らねえんだ!」
「刃が通らねえだと?」
ドルガンが眉をひそめた瞬間。 ズシン、ズシン、という地響きと共に、そいつらは姿を現した。
森の闇からぬっと現れたのは、巨大な影の群れだった。 体高は優に大人の胸ほどもある。先日の宴で食べた大猪よりも一回り、
二回りは大きい。だが、何よりも異様なのは、その質感だった。
陽光を浴びて鈍く輝く、黒銀色の皮膚。 背中には剣山のように鋭い剛毛が逆立ち、口元からは凶悪な牙が突き出している。 その目は血のように赤く、明確な殺意を宿してこちらを睨みつけていた。
「……『鋼鉄猪』か……」
ギードが、絶望を滲ませた声で呻いた。 それは、この辺境の地が「人の住めぬ場所」と恐れられる理由のひとつだった。
「グルルルルッ……!」
先頭の一頭が、低い唸り声を上げながら、前足で地面を掻く。その爪が、硬い地面を容易く抉り取るのを見て、村人たちが悲鳴を上げて後ずさる。
「くそっ、俺たちの村を荒らされてたまるかよ!」
ドルガンが吠えた。彼は鍛冶場で使っている巨大な鉄鎚を握りしめると、敢然と前に進み出た。
かつて王都で武具職人をしていた彼は、腕っぷしにも自信がある。並の獣なら、あの一撃で頭蓋を砕けるはずだ。
「うおおおおおっ!」
ドルガンが雄叫びと共に鉄鎚を振り下ろす。
鋼鉄猪は避ける素振りも見せず、あろうことか、その剛毛に覆われた頭から突っ込んできた。
カァァァァンッ!!
まるで、鐘楼の鐘を叩いたような、甲高い金属音が響き渡った。
「なっ……!?」
ドルガンの目が驚愕に見開かれる。
渾身の一撃を受けたはずの鋼鉄猪は、傷一つ負っていない。それどころか、弾かれたのは鉄鎚の方だった。強烈な反動でドルガンの体勢が崩れる。
「ガアアッ!」
鋼鉄猪が、その隙を見逃すはずもない。巨大な鼻先でドルガンを突き飛ばす。 宙を舞ったドルガンは、数メートル吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。
「ドルガン!!」
「ぐ、う……っ! まるで……鉄の塊を叩いたみてえだ……!」
ドルガンは呻き声を上げながら起き上がろうとするが、ダメージは深いようだ。村一番の力自慢が、たった一撃で無力化された現実に、村人たちの戦意はポキリと音を立てて折れた。
「なんて硬さだ……」
「無理だ……勝てるわけがねえ……」
「……やっぱり、俺たちに安住の地なんてなかったんだ……」
誰かが泣き崩れる。
その光景は、彼らの脳裏に焼き付いた「呪い」を呼び覚ましていた。
『追放先は、魔獣の森に隣接する無主の地、ウルムとする』
王都で宣告された、事実上の死刑判決。
身分も、財産も奪われ、魔獣の餌になるために捨てられたのだという絶望。
水路が完成し、希望が見えた矢先の出来事だけに、その落差はあまりにも残酷だった。
ドドドドド……!
鋼鉄猪は一頭だけではなかった。森の奥から、次々と鋼鉄猪が姿を現す。その数、およそ七、八頭。 群れは、一斉に鼻息を荒げ、今にも村へとなだれ込もうとしていた。彼らが通れば、苦労して作った水路も、粗末な家々も、そして人間たちも、すべてが鉄の蹄の下で蹂躙されるだろう。
「アシュラン、逃げるぞ!」
ギードが俺の腕を掴んだ。その顔は蒼白だ。
「家も畑も惜しいが、命には代えられん! 森とは逆方向へ……」
「待て」
俺はギードの手を静かに制し、一歩前へ出た。
周囲のパニックとは対照的に、俺の思考は冷え切っていた。恐怖はない。あるのは、目の前の「現象」に対する、純粋な観察と分析だけだ。
(……なるほど。確かに硬いんだろうな)
俺は目を細め、突進してくる鋼鉄猪の動きを観察する。
ドルガンのハンマーを弾き返した硬度。あれは生物の皮膚というより、金属装甲に近い。炭素含有量の高い角質層が多層構造になっているのだろうか? 興味深い素材だ。
だが、物理学者である俺の目には、その「強さ」の裏にある「弱点」が浮かび上がって見えていた。
彼らの動きは、直線的すぎる。
凄まじい脚力で加速し、その自重を乗せた体当たりを行う。単純だが、破壊力は抜群だ。
運動エネルギー K は、質量 m と速度 v の二乗に比例する(K = 1/2mv^2)。あいつらの体重が推定300キロ、時速50キロで突っ込んでくるとすれば、それは軽自動車が衝突してくるようなものだ。まともに受け止めれば、ドルガンでも吹き飛ぶのは当たり前だ。
だが、質量が大きいということは、それだけ「慣性」も大きいということだ。
一度走り出せば、急には止まれない。急には曲がれない。
摩擦係数の高い地面ならまだしも、足元が滑る状況ならどうだ?
「アシュラン! 何をぼーっとしている! 早く逃げろ!」
ボルグが悲鳴のような声を上げる。
群れの先頭が、村の入り口にある柵を紙屑のように粉砕し、広場へと侵入してくる。もう、距離は50メートルもない。
「逃げる? なぜだ?」
俺は、迫りくる鋼鉄の暴走機関車たちを見つめながら、独り言のように呟いた。
「こんなに素晴らしい『資源』が、向こうからやってきたんだぞ?」
「……は?」
ギードが、意味が分からないという顔で俺を見る。
「見ろよ、村長。あの皮膚、素晴らしい光沢だ。あれだけの強度があれば、最高品質の素材が取れる」
「な、何を言って……」
「それに、あの筋肉の付き方。運動量が多い分、肉質は引き締まっているはずだ。硬いのは皮だけで、きっと中身は極上のタンパク源だぞ」
俺の口元に、自然と笑みが浮かぶ。
物理学者の悪い癖だ。難解な問題を前にすると、それを解き明かしたくてウズウズしてしまう。
それに、俺は「快適な生活」を求めてここに来たのだ。せっかく作った水路も、これから建てる予定の家も、こんな豚どもに壊されてたまるか。
「ギード、皆に伝えてくれ。総員、武器を捨てて鍬くわとスコップを持て」
「く、鍬だと!? 戦うつもりか!?」
「戦うんじゃない」
俺は、群れまでの距離と速度を計算し、勝率が100%であることを確信して言った。
「『収穫』するんだよ。物理法則という名の罠を使ってな」
俺は懐から羊皮紙を取り出すと、サラサラと図面を描き始めた。
村人たちはまだ、俺が何をしようとしているのか理解できていない。だが、水路を作り、水車を回したこの男なら、何かやってくれるかもしれない――そんな縋るような視線が、俺に集まっていた。
「さあ、忙しくなるぞ。あいつらがここに来るまで、あと数分。その間に、最高に滑る『滑り台』を作ってやろうじゃないか」
恐怖に支配されていたウルム村の空気が、一変する。
物理学者アシュランによる、鋼鉄猪攻略戦――いや、一方的な「資源回収」作業が、今、始まろうとしていた。
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