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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜  作者: しいたけ
第5章 模倣と誤算

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第78話:決意と流血

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

夕闇が濃くなる王都西区。第三備蓄倉庫の頑強な木扉の前は、人の波と怒号、そして凍てつくような白い息で埋め尽くされていた。


「開けろ! 中に麦があるのは分かっているんだ!」


「子供が三日も何も食べていない! 少しでいい、小麦を分けてくれ!」


腹を空かせた市民たちの悲痛な叫び声が、冷たい風に乗って響く。だが、彼らの前に立ち塞がっているのは、配給を配る役人ではない。冷たい鉄の甲冑に身を包み、互いに武器を構え合う二つの武装集団だった。

軍の部隊と、内政局の警備隊である。


「我々は軍務局の正式な命令により、冬営物資の引き取りに来た! そこを退け!」


「退くわけにはいかぬ! 我々は内政局より、偽造札の検査と倉庫の封鎖を厳命されている!」


どちらも手には羊皮紙の命令書を握りしめ、互いのそれを「偽造だ」と罵り合っている。王城の評議の間で放置された矛盾のツケが、刃を突き付け合う最前線にそのまま持ち込まれていた。

彼らを取り囲む群衆の苛立ちは、すでに頂点に達している。密集した人々の汗と埃の匂い、そして限界まで張り詰めた恐怖と飢えの空気が、倉庫前を異様な熱気で包み込んでいた。


「嘘だ! 役人が中抜きして隠しているんだ!」


「軍が食料を独占する気だぞ! 俺たちを見殺しにする気だ!」


群衆の後方から、誰かが煽るような声を上げる。

だが、倉庫の門前を守る二つの部隊の練度は、決定的に異なっていた。


軍の部隊を率いる若い指揮官と兵士たちは、前線の死線を知っている。彼らは殺気立つ群衆の圧力を前にしても冷静に盾を構え、抜刀することなく、じりじりと陣形を保って押し返す術を心得ていた。


一方、内政局の警備隊は違った。彼らの日頃の仕事は、平時の王都で通行証を改め、喧嘩を止めることだ。

だが今夜、目の前にあるのは腹を空かせた群衆の“圧”と、押し潰されそうな密度だった。

実戦の経験が乏しい隊員の顔は引きつり、槍の穂先が小刻みに震える。


「下がれ! これ以上近づく者は暴徒とみなす!」


若い軍の指揮官は声を張り上げて警告し、自軍の兵士たちに「絶対に剣を抜くな! 盾だけで耐えろ!」と厳命を飛ばした。

だが、後ろから後から押し寄せる群衆の圧力は、もはや最前列の者たち自身の意思では止められない状態になっていた。

その時だった。

群衆の奥から放物線を描いて飛んできた拳大の石が、最前列で震えていた内政局の警備隊員の兜に直撃した。


鈍い音が響き、兜を凹ませた隊員が悲鳴を上げて体勢を崩す。

それを合図にしたかのように、限界まで膨れ上がっていた均衡の糸が切れた。


「押し通れ!」


「奪え!」


怒号と共に、群衆の波が警備隊と軍の列に雪崩れ込む。

群衆の無数の手が伸び、転倒した警備隊員の槍を奪い取ろうとした、その瞬間。


「来るな……ッ!」


極限の恐怖で視界が狭くなったのか。隊員は、伸びてきた手を“奪う手”ではなく“殺す手”と見誤った。

一人の内政局警備隊員が、半ば狂乱したような絶叫と共に、腰の剣を引き抜いた。


「やめろ、抜くな!」


軍の指揮官の制止は、一瞬遅かった。


「来るなァァッ!」


悲鳴のような怒号と共に、警備隊員の振り下ろした刃が、夕闇の中で無慈悲に閃いた。

鈍い肉を断つ音。生温かい血の飛沫。そして、それまでの怒号を完全に塗り潰す、凄惨な絶叫が夜空を引き裂いた。


「ひ、ひぃぃっ!」


「切られた! 役人が俺たちを殺しにきたぞ!」


先陣を切っていた者が血を吹き出して倒れ込み、石畳が瞬く間に赤く染まっていく。

血の匂いと仲間の死を目の当たりにした群衆は、恐怖と怒りで完全に暴徒と化し、理性を失って警備隊と軍に襲い掛かった。直接刃を受けなかった子供や老人も、恐慌状態に陥って逆流を始めた群衆の足元に巻き込まれ、次々と踏み潰されていった。


「陣形を崩すな! 退け、退けぇッ!」

軍の指揮官は血を吐くように叫び、盾で道を作らせた。


倒れた子供を引き剥がし、踏まれかけた者を抱えて後ろへ投げる。――剣は、最後まで抜かせなかった。

彼は抜くことを禁じていた自身の剣の柄を握りしめたまま、ただ目の前に広がる地獄絵図を虚ろな目で見下ろすことしかできなかった。

倉庫前は決壊した。

取り戻されたのは秩序ではない。血と恐怖だけが、場を静めていった。



「警備隊が民を斬った! 倉庫の前は死体の山だ!」


「……いや、軍もいた、あれは軍もだ!」

言葉は伝言のたびに荒れ、罪は一つに収まらず膨れ上がっていく。


その一つの流血の事態は、乾ききった枯れ草に落ちた火の粉のように、夜の王都を瞬く間に恐怖の炎で包み込んだ。

市場の裏路地では、顔を青ざめさせた商人が慌ただしく店を畳み、僅かな財産と家族を荷車に乗せて、夜逃げ同然に王都からの脱出を図っていた。


「急げ! 暴徒鎮圧を口実に、市民の財産を接収しに来るぞ!」


一方で、王都の貧民街では、絶望が別の形をとって発火していた。


「もう逃げ場はない! おとなしく飢え死にするか、切り殺されるのを待つだけだ! 武器を持て! 殺される前に、豊かな奴らから奪い返せ!」


薄汚れた男たちが、手斧や松明を掲げて暴動を煽り立てる。

小貴族の邸宅では、主の命令を受けた使用人たちが、少しでも多くの食糧を確保しようと闇市場へと駆け出していく。

神殿の前の広場や井戸端では、口々に食い違う目撃証言が飛び交っていた。内乱だ、いや他国の間者の仕業だ、王家が我々を見捨てたのだ。

誰も真実を知らず、誰も隣人を信じられない。王都の空気は、単なる「不安」から、理性を完全に失った「恐慌」へと、決定的な段階を越えていた。



同じ頃、王城の奥深くにある密室。

流血の第一報は、深夜の王城にも容赦なく届けられていた。その場に同席を許されたのは、国王、王太子、元帥モンフォール、そして数名の側近のみである。


「……暴徒鎮圧のための、やむを得ない措置にございます」


内政を預かる青ざめた顔の文官が、震える声で報告を締めくくった。


「倉庫の物資を略奪されれば、被害はさらに拡大しておりました。警備隊の隊員の現場判断は、治安維持の観点からは正当防衛と言わざるを得ません」


「ふざけるな!」


軍務系の側近が激昂して机を叩く。


「実戦経験もない名ばかりの案山子どもに武器を持たせ、最前線に立たせた結果がこれではないか! 我が軍の部隊は、最後まで抜刀を禁じて現場を抑えようとしていた! それを恐怖でパニックを起こして民を斬り刻み、王都中に暴動の火を点けたのは貴様らの無能な警備隊だろうが!」


「なんだと! 彼らとて自らの命を守るために――」


再び始まりかけた醜い責任の押し付け合いの横で、王太子は顔面を蒼白にして立ち尽くしていた。

彼が思い描いたのは、無駄のない理路整然とした国家の供給システムだったはずだ。だが、その「理」を急いだ結果が、民衆の血と、自国の警備隊が民を斬殺するという拭いようのない罪に化けたのだ。

王太子は何かを言おうと唇を震わせたが、そこからは何の言葉も紡ぎ出されなかった。理念の失敗ではなく、「人が死んだ」という冷酷な現実が、彼の心を完全に打ち砕いていた。


「……静まれ」


王の低く、重い声が密室に響いた。


「これ以上の流言飛語を止めよ。王都の各門を固め、軍も投入して治安維持を最優先とせよ。…………倉庫前の件は、詳細の公表を禁ずる。「混乱下の衝突」として暫定処理し、責任の断定は避けよ。」


それは、根本的な原因である命令系統の崩壊から完全に目を背け、ただ自らの威信と政治的な面子を守るためだけの、あまりにも無力な事態収拾の命令だった。

その王の姿を、部屋の隅に立つ元帥モンフォールだけが、氷のように冷たい目で静かに観察し続けていた。



深夜。王城を出て、軍務局へと戻る馬車の中。

元帥モンフォールは、ランタンの薄暗い灯りに照らされながら、窓の外の闇を見つめていた。夜の王都のあちこちで、暴動の火の手が上がり始めているのが見える。


「閣下……」


向かいの席に座る信頼の厚い副官が、押し殺したような声で尋ねた。


「陛下は、根本的な原因である文官の無能を糺すことも、実戦を知らぬ警備隊の暴走の責任を問うこともしませんでした。ただ、血の匂いを布で覆い隠そうとしているだけです」


元帥はゆっくりと目を閉じ、そして開いた。

その瞳には、もはや一介の臣下としての迷いや同情は一切存在していなかった。


「……私はこれまで、武人として王家への忠誠を尽くしてきたつもりだ。国家の柱として、どれほど理不尽な命令であろうと、軍を率いて国を支えてきた」


元帥の低い声が、車内の空気を重く震わせる。


「だが、今の王城はもはや『国を持たせるための判断』ができない。機能不全に陥った中枢が、保身のために現場に矛盾を押し付け続ける限り、この王都は遠からず内側から崩壊する。そして、我々軍も共に巻き込まれて沈むだろう」


元帥は手袋を外し、自らの手のひらを見つめた。

数多くの戦場を駆け抜け、国を守るために血に染めてきた手だ。その手で、今度は内なる腐敗を切り捨てねばならない。


「王都はもう、“治める”段ではない」


元帥は窓枠から視線を外し、副官を真っ直ぐに射抜いた。


「“選ぶ”段だ」


その言葉の意味を即座に悟り、副官が息を呑んで姿勢を正す。


「……王家に、これ以上この国を任せておく訳にはいかん」


それは、国家への忠誠を捨てる反逆の言葉ではない。国家そのものを生き延びさせるための、冷徹な現実主義者としての最後の決断だった。


「使いを出せ」


元帥は、夜の闇よりも深く冷たい声で命じた。


「公爵家へ。……表の議場ではなく、裏の席を用意しろ」


暴動と流血の夜の底で、国をひっくり返すための巨大な歯車が、ついにその重い軋み音を立てて回り始めた。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

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