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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜  作者: しいたけ
第5章 模倣と誤算

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第69話:職人と逃走

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

夜明け前の街道は、まだ薄暗かった。

その闇に紛れるように、煤と汗にまみれた数人の影が、荷車も使わずに脇道を急いでいた。


「検問は正面だ。止まるな、林沿いを行け」


腕に包帯を巻いた初老の男がそう言った直後、後ろで小さく子供の泣き声が上がる。

誰も振り返らない。振り返れなかった。

ここで足を止めれば、追いつかれるのは火ではなく、人間の都合の方だと、全員が知っていたからだ。


「親方……もう駄目です、親方の足が……!」


若い職人が悲痛な声を上げる。包帯を巻いた男――親方の息は荒く、熱に浮かされたように足をもつれさせていた。ひどい火傷と過労で、とっくに限界を超えている。それでも彼の手は、商売道具の入った重い革袋だけは決して手放そうとしなかった。


「俺はいい……!お前たちだけでも、先に行け」


親方は木の根につまずき、その場に崩れ落ちた。妻らしき女性が悲鳴を上げて駆け寄ろうとするが、親方は血の滲むような声でそれを制した。


「立ち止まるな!……戻れば、俺たちは失敗の責任を被せられて口を塞がれる。俺たちは盗人じゃない……ただ、まともな仕事がしたかっただけだ」


親方は荒い息を吐きながら、暗い森の奥を指差した。


「ウルムの方角へ行け……あそこなら、職人を……技術を、大事にしてくれるはずだ」


仲間を一瞬助けようとして、若い職人は親方の妻と子供の背中を押し、泣く泣く駆け出した。

金と面子で燃え盛る王都の現場から弾き出された命が、辺境の森へと吸い込まれていった。



太陽が高く昇り始めた頃。

ウルム村の外縁、街道から少し外れた畑道で、見回りをしていたロイルが足を止めた。

草むらの中に、人が倒れていたのだ。


「おい、大丈夫か!」


駆け寄ろうとしたロイルの前に、木の陰から棒切れを構えた泥だらけの若い男が飛び出してきた。その後ろには、怯えきった女と子供が身を寄せ合って震えている。


「こ、来ないでくれ!俺たちは……俺たちはただ……!」


男の目は血走り、極限の疲労と恐怖で正気を失いかけていた。倒れている初老の男の腕からは、ひどい臭いを放つ血膿が滲んでいる。

ロイルは腰の剣には一切手を触れず、両手をゆっくりと頭の高さまで上げて見せた。


「安心しろ、いきなり縛って突き出したりはしない。俺はこの村の自警団だ」


静かだが、腹の底から響くような落ち着いた声。ロイルは相手の顔から目を逸らさず、ゆっくりと片膝をついた。


「追われているのか?だとしたらなおさら、こんな目立つ場所で倒れている方が危ない。その人の怪我もひどい。まずは手当てが先だ」


敵意がないこと、そして「助ける」という明確な意志。

ロイルの現場判断が、極限状態にあった逃亡者たちの張り詰めた糸を少しだけ緩ませた。若い男の手から、ポロリと棒切れが落ちる。


「……た、助けて……親方が……」


「ロイル!どうしたの!」


そこへ、見回り部隊に水と軽食を配っていたアリシアが小走りで駆けつけてきた。倒れている男と家族連れの姿を見るなり、彼女の目の色がサッと変わる。


「これは……ただの揉め事じゃないわね」


アリシアはすぐさま状況を察知し、的確な指示を飛ばし始めた。


「ロイル、その人を背負ってすぐ診療所へ!私、先にエレノア様を呼んでくる。迎賓館にもあとで知らせるから!」


「わかった、任せろ!」


ロイルが親方を背負い上げると、アリシアは怯える母親と子供の目の高さに合わせてしゃがみ込んだ。


「お母さん、もう大丈夫だよ。離れなくていいから、一緒についてきてね」


優しい声で安心させつつ、彼女の目は冷徹に必要なものを見繕っていた。通りかかった他の村人に振り返り、手早く告げる。


「水だけじゃ足りないよ。温かい布と、子供でも食べられる消化の良いスープを診療所に手配して!急いで!」


ただ優しく寄り添うだけではない。今の彼らに何が必要で、誰をどう動かせば命が繋がるのか。

アリシアの迅速な段取りとロイルの行動力が、王都からの「悲鳴」をウルム村の懐へと素早く、そして温かく滑り込ませた。



ウルム村の診療所。

清潔なシーツの上に寝かされた親方は、聖女エレノアの治癒魔法と薬草の処置を受けて、ようやく苦しそうな呼吸を落ち着かせていた。


「大丈夫ですわ、いまはここで安全です。熱もじきに下がりますよ」


エレノアが優しく額の汗を拭う。彼女の聖女としての絶対的な包容力が、部屋の空気を和らげていた。


「しかし、ひどい火傷ですね。それに極度の睡眠不足と脱水症状……身体が悲鳴を上げていますわ」


「……面目、ねぇ……」


親方が掠れた声で呟く。少し離れた椅子では、スープを飲み終えた若い職人と家族が、まだ夢でも見ているかのように呆然と宙を見つめていた。

そこへ、診療所に運び込まれた職人の話を聞きつけた村の鍛冶師ドルガンが、無言で入ってきた。


ドルガンは挨拶もそこそこに、ベッドに横たわる親方の分厚い手のひらと、指先のタコの位置をじっと見つめた。そして、部屋の隅に大事そうに置かれている煤けた革の道具袋に視線を移す。


「……この手は見習いの手じゃねぇ。何十年も、熱い窯の前に立ってきた手だ」


ドルガンは腕を組み、低く唸るような声で言った。


「しかも、あんな命からがら逃げ出す時に、着替えでも金でもなく、重てぇ道具袋だけは抱えてきたか。……捨てきれなかったんだな、自分の腕の証明だけは」


その言葉に、親方の肩がビクンと震え、目からボロボロと大粒の涙が溢れ出した。


「腕のある奴ほど、あんな現場じゃ先に壊れる。……お前さんたち、王都の新しい炉んとこから逃げてきたんだな」


ドルガンの職人としての重い労わりの言葉が引き金となり、彼らは堰を切ったようにぽつりぽつりと「地獄」の実態を語り始めた。


「……最初は、誇りがあったんです」


親方が天井を見つめながら絞り出す。


「王命の事業だ。新しい時代の技術を、この手で作れるんだって……俺たち職人は、みんな燃えてました」


「でも、違ったんです」


若い職人が、膝の上で拳を握りしめて引き継いだ。


「温度管理も土の配合もめちゃくちゃなのに、上は『昨日と同じように焼け』って怒鳴るだけ。失敗しても、原因を記録するなと命じられました。記録に残せば責任を問われるからって」


「帰ってきても、この人……寝言でずっと『もう一回火を入れろ、許してくれ』って泣いてて……」


妻が子供を抱きしめながら、震える声で言った。


「それは職人を使ってるんじゃねぇ。ただ命を削って、失敗の穴埋めをしてるだけだ」


ドルガンが忌々しそうに吐き捨てる。


診療の邪魔にならないよう壁際で話を聞いていた俺は、腕を組んだまま短く補足した。

「技術の構築じゃなく、体裁の構築だ。失敗の情報を捨てた時点で、お前たちがやらされていたのは物作りですらない。ただの『順調に見せかけるための偽装工作』だ」


俺の言葉に、親方はゆっくりと頷いた。


「……逃げたんじゃありません。あのままあの炉の前に立っていたら……俺たちは誇りどころか、誰かが確実に死ぬと思ったんです。失敗の責任を押し付けられて、口封じされる前に……」


職人としての尊厳を踏みにじられ、命の危険を感じて限界を悟ったゆえの逃走。それは決して卑怯な選択ではなく、狂った組織からの最も真っ当な自己防衛だった。

部屋に重い沈黙が落ちる。


親方は、包帯の巻かれた自分の手を見つめたまま、焦点の定まらない目でぼそっと呟いた。


「……次は、炉じゃない」


その声はかすれていたが、部屋にいる全員の耳に、呪いのようにこびりついた。


「このままなら……人が潰れる」


それは、技術の理を無視し、面子と金だけで虚構を回し続ける王都への、最も生々しい死亡宣告だった。



親方たちをそのまま診療所で休ませ、俺たちは隣の待合スペースへ移った。

カインは無言で手帳を開き、インクの乾いていないページを指先でなぞった。


「資材の異常発注、輸送の逼迫、現場の疲弊、そして今回の……職人離脱」


カインの理知的な声が、診療所の待合に落ちた静けさの中でやけに鮮明に響いた。

「すべては個別の事故ではありませんね。同じ歪みの表れです。王都の連中は、技術の失敗を隠蔽し続けた結果、ついに人員の流出という組織の崩壊を引き起こしました」


「ああ。炉が壊れるより先に、人間が持たなくなったわけだ」


俺は椅子にもたれ、診療所の向こうから聞こえてくる村の作業音に耳を澄ませた。

ウルム村は今日も回っている。だからこそ、あの連中の崩れ方が余計に際立つ。


工程を直さない連中に、追加予算を与えて現場の規模だけを拡大させても、待っているのは成功ではない。悲劇の量産だ。

金で無理やり回したツケは、必ず一番弱いところ――現場の職人たちに回る。


「……マスター。これはもう、対岸の火事では済まないかもしれません」


カインの言葉に、俺は無言で頷いた。

職人たちが命からがら逃げ出してくるほどの崩壊。それを引き起こしている巨大な圧力は、遠からずこのウルム村の平穏な生活にも明確な牙を剥くだろう。


王都の炎は、もうすぐそこまで燃え広がってきている。

逃げてきた彼らの背中に張り付いていた「焦げ臭い匂い」が、俺の鼻腔からいつまでも消えなかった。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

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