第68話:予算と悲鳴
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追加予算が下りたその朝、王都の工房区で先に整えられたのは、冷え切った炉ではなく帳簿の数字だった。
「よし!上層部から大規模な追加予算の承認が下りたぞ!これで資材も燃料も倍にできる。人手も金に糸目をつけずにかき集めろ!」
真新しい羊皮紙を振りかざし、中間役人が興奮気味に声を張り上げる。だが、その声を聞く工房前の広場には、歓喜の空気など微塵もなかった。あるのは、重く濁った疲労と焦燥だけだ。
「……お待ちください。工程が直っていないんです。温度管理の基準も、土の配合も定まっていない状態で、いくら資材と人手を倍にしても、不良品が倍のスピードで生産されるだけです!」
煤と泥にまみれた現場責任者が、悲鳴のような声で食い下がる。
彼の背後には、昨日も一昨日も焼き損じた煉瓦や、使い物にならなくなった炉材の残骸が、小山のように積み上げられていた。
「馬鹿者!だからこそ試行回数を増やすんだ!上は結果を待ってくれん!これは王命肝煎りの事業だ、とにかく今は『進んでいる形』を出せ。工程の見直しは、そのあとでも――」
「しかし、それでは職人たちの体が……!」
「うるさい!今日中にこの追加予算枠で、各商会に資材の緊急発注をかけろ!いいな!」
役人は現場責任者の声を力でねじ伏せると、傍らで小さくなっている書記を小突いた。
「おい。今月の損失計上、予算枠からはみ出して見えないよう整理しておけ。上には『試験は順調、損失は想定内』で上げるからな」
「は、はい……」
焼き損じた煉瓦の山の横で、書記は目を伏せたまま震える手で新しい数字を書き込み、現場責任者は絶望に顔を覆った。
金は増えた。だが、現場の誰一人として楽になった顔をしている者はいなかった。
その役人が乱暴に通した「追加発注」の歪みは、やがて遠く離れた辺境の地にまで波及することになる。
◇
同日、午後。
ウルム村の正門前に広がる荷さばき場は、かつてないほどの混乱と怒号に包まれていた。
「どけ!こっちは王都方面行きの『急ぎ便』だぞ!王家肝煎りの事業の資材なんだ、優先して通せ!」
「ふざけるな!俺たちだって三日前から順番待ちしてるんだ!先払いで金握らされてるからって、順番を飛ばしていいルールがどこにある!」
普段なら整然と回る荷さばき場に、今日は何台もの大型荷馬車が詰まり、馬のいななきと商人たちの罵声が交錯していた。
ウルム村の高品質な資材を求める商人は常に多いが、今日に限っては「王都からの急な割り込み便」が異常な数に上っており、ついに導線がパンクしたのだ。
「おい、そこ!揉めるのは後でいい。まずはその荷車をこっちの退避スペースへ動かして、中央の通路を開けろ!」
一触即発の空気を割って入ったのは、村の若者ロイルだった。
彼は怒鳴り合う商人たちの間に割って入ると、相手の身分や勢いに怯むことなく、的確に物理的な指示を飛ばした。
「俺は急ぎ便だと――」
「荷を倒したら全員の損だ。順番の話はその次だ。ほら、そこの若い衆、車輪の向きを変えるのを手伝え!」
ロイルの焦りのない、だが有無を言わせぬ通る声に、商人たちも思わず従ってしまう。
彼は「誰が正しいか」という感情論には一切付き合わず、ただひたすらに「通路の確保」と「事故の防止」だけを最優先にして現場の血の巡りを回復させていく。
「急ぎ便の旦那。急ぎだというなら、それに該当するギルドの証文を見せてくれ。金払いがいいのも口約束も結構だが、規定の書類がなければ順番は飛ばせない。それがこの村のルールだ」
「くっ……わかったよ、いま探す!」
ロイルの冷静な現場処理によって、爆発寸前だった荷場の空気が少しずつ落ち着きを取り戻し始めた。
その騒ぎの脇で、木箱に貼られた荷札をじっと見つめている少年がいた。自警団見習いのキドだ。
「……ロイル兄ちゃん。これ、なんか変だぞ」
「ん?どうしたキド、何か見つけたか?」
ロイルが歩み寄ると、キドは二つの異なる荷車の木箱を指差した。
「こっちの箱と、さっき順番を飛ばそうとした商人の箱。書かれている商会や工房の名前は全然違うんだけど……要求してる耐熱土の『規格表記』や『寸法の指定』が、一言一句まったく同じなんだ」
「本当か?」
「うん。しかもここ数日、違う名前の荷札なのに、中身の指定が同じパターンがずっと続いてる。まるで、同じ人間が名前だけ変えて、あっちこっちに発注を出してるみたいだ」
キドの鋭い観察眼が、荷札の裏に隠された「異常」を正確に拾い上げていた。
一方、少し離れた日陰の休憩スペースでは、アリシアが、水桶と柄杓を持って馬方や運送人たちの間を回っていた。
「大丈夫ですか?冷たいお水です、まずは喉を潤してくださいね」
「あ、ああ……ありがとう。助かるよ」
荷台の横でへたり込んでいた初老の運送人が、アリシアから水を受け取り、一気に飲み干して深い溜め息をついた。
「急ぎのお仕事が急に増えたんですね。でも……皆様、なんだか顔色がとても悪いように見えますけれど。順番よりも前に、人が倒れてしまっては困ります」
アリシアが心底心配そうに眉を下げる。その優しく警戒心を抱かせない空気に触れ、運送人はポツリポツリと本音をこぼし始めた。
「王都からの催促が異常なんでさぁ。金払いはいいんですが、行き先も名義もコロコロ変わるし、昼夜問わずに走らされてる。おまけに、今日の便には軍の護衛までくっついてる荷もあるって噂で……現場はもう、みんなピリピリしてて限界ですよ」
「軍の護衛まで……」
怒鳴り合いの外側で、アリシアは彼らの「悲鳴」を静かに拾い集めていた。
現場を捌いたロイル、違和感を見つけたキド、本音を引き出したアリシア。
三人は顔を見合わせると、同時に頷いた。
「これは、俺たちで抱え込む話じゃない。アシュラン様に直接報告すべきだ」
◇
「――なるほど。追加予算が出たらしいな」
迎賓館四階、俺の作業部屋。
ロイルたち三人からの報告を聞き終えた俺は、背もたれに深く体重を預けて天井を見上げた。
隣で記録を取っていたカインが、キドが書き写してきた荷札のメモを見ながら感心したように頷く。
「キド、よく気づきましたね。要求規格の一致は偶然ではありません。これは単なる発注の増加ではなく、どこか一つの巨大な組織が、体裁を維持するために『分散調達』を行っている動かぬ証拠です」
「やっぱりそうなんすね!でも、なんでそんな面倒なことを……?」
キドの疑問に、俺は机の上に置かれたままになっていた昨日の焼き損じ煉瓦を指差した。
「本来、追加予算ってのは『工程の改善』を加速するための燃料だ。だが、現場の運送人が死にそうな顔をしていて、しかも名義を偽装してまで急ぎで物をかき集めている。つまり、王都の連中は工程を直していない」
俺の言葉に、ロイルとアリシアが息を呑む。
「工程が変わらないまま金だけ増えたなら、増えるのは成功数じゃない。失敗の総量だ」
俺は冷めたコーヒーをすすり、事実だけを淡々と切り捨てた。
「今あいつらが買っているのは、資材じゃない。失敗を上に隠し、延命するための『時間』だ。追加予算という改善の燃料を、隠蔽の燃料に使い始めたら、上がる煙だけが馬鹿でかくなるに決まってる」
だから、王都の現場の悲鳴は止まらない。
金を積めば積むほど、失敗の山を物理的に処理する手間と、それを誤魔化すための帳簿操作、そして無理な運送のスケジュールだけが膨れ上がっていくのだ。
「……ろくでもねぇ話ですね」
ロイルが苦々しい顔で吐き捨てる。
「現場で血を吐いてる連中の身にもなってほしいですよ。そういえば、運送人のおっさんがもう一つ嫌なことを言ってました。王都では人が足りなすぎて、関係ない他の工房から、腕のいい職人を無理やり引っ張ってきてるらしいって」
その一言に、俺はピクリと眉を動かした。
机の上の煉瓦片を手に取り、無造作に放り投げる。カツン、という乾いた音が部屋に響いた。
「次は値上がりや荷馬車の渋滞では済まないな」
俺は窓の外、活気に満ちながらも平穏に回っているウルム村の景色を見下ろした。
王都の追加予算は、現場を楽にするための金ではなかった。その証拠に、楽になっていない人間たちの声ばかりが、もうこの辺境の門前にまで届き始めている。
「金で火をつないだ現場は、次に人を燃やす」
値段が上がるだけなら、まだ商売の話で済む。
だが、順番と帳簿を壊し、運送人の顔色を奪い、無関係な職人まで巻き込み始めたなら――それはもう相場の乱れじゃない。
次に来るのは、もっと生々しい悲鳴だ。
そしてその気配は、もうこの辺境の門前にまで届いていた。
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