幕間4-2:賢者と変数
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夜の帳が下りると、かつては漆黒の闇に沈んでいた辺境の地――ウルム村に、柔らかな灯りが点る。
それは、風に煽られて不規則に揺らぐ松明の赤い炎ではなく、植物油と計算された芯が、一定の光度を保つオイルランプの輝きだった。
村のメインストリートと呼ぶにはまだ慎ましやかだが、整然と敷き詰められた石畳の道に面した、赤煉瓦造りの建物。村唯一の宿屋兼酒場『赤煉瓦亭』は、今日も一日の労働を終えた村人たちの熱気と喧騒に包まれていた。
カチャカチャと食器が触れ合う音、肉が焼ける香ばしい匂い、そして「乾杯!」という陽気な声。その賑わいから少し離れた店の隅。薄暗がりの中で、一人の男がジョッキを片手に羊皮紙と睨めっこをしていた。かつて帝国でその名を轟かせ、今は「辺境の賢者」としてアシュランの片腕を務める男、カインである。
「……うぅん、また計算が合わないな。マナの流体抵抗をベルヌーイの定理で近似しても……理屈の上では合うはずなのに、この関節駆動部の『指先の微細動』が安定しない……」
カインはブツブツと独りごちながら、羽ペンの先でコツコツとこめかみを叩いた。羊皮紙に描かれているのは、幾何学的な魔法陣と、その余白を埋め尽くすように書き込まれた膨大な数式だ。
彼が今、心血を注いでいるのは『自律型汎用作業ゴーレム』――通称、スマートゴーレムである。
従来のゴーレムは、術者の命令を単純に実行するだけの、言わば「動く土人形」に過ぎなかった。だが、カインが目指しているのは違う。アシュランがもたらした「物理法則」を魔法術式という名の回路に組み込むことで、ゴーレム自身に状況判断と自律制御を行わせる。それは、この世界の魔道具史を百年進めると言っても過言ではない、革命的な試みだった。
「マスターなら『変数が多すぎる。もっと単純化しろ』と笑うでしょうね……。けれども、魔法使いの矜持として、ここをブラックボックスにするわけにはいかない……」
カリカリと、ペン先が羊皮紙を強く引っ掻く。焦りと、それ以上の興奮。未知の領域を切り拓く高揚感が、彼の指先を震わせていた。
そこへ、ドン、と重い音が響いた。
顔を上げれば、溢れんばかりの黄金色の液体が入ったジョッキを二つ持った、初老の男が立っていた。このウルム村の村長、ギードだ。
「賢者様よ、あんたも大概だな。せっかくの酒場でまで数式と睨めっこか?」
「……ギード村長ですか。今は佳境なんです。思考のノイズになるので、少し遠慮して頂けませんか?」
「まあそう言うな。ほれ、アシュラン直伝の『冷却魔法陣付き』のエールだ。キンキンに冷えてるぞ」
ギードが強引に置いたジョッキの表面には、うっすらと白い霜が降りている。その冷気が頬を撫でた瞬間、カインの喉がゴクリと鳴った。
カインは小さくため息をつくと、観念してペンを置き、ジョッキを手に取った。ずしりとした重み。そのまま口元へ運び、琥珀色の液体を流し込む。
「――っ」
喉を駆け抜ける鋭利な冷たさと、炭酸の刺激、そしてホップの芳醇な苦味。アシュランが「ビールは喉越しが命だ。ぬるいビールなんて麦の腐った汁と同じだ」と言い放ち、冷却魔法陣の熱交換効率を異常なまでに高めさせた逸品だ。
「……美味い」
「だろ? 昔は『ぬるいエール』が当たり前だったのによ。人間、一度贅沢を覚えるともう戻れねぇな」
ギードは豪快に笑い、カインの向かいに腰を下ろした。その顔色は良く、かつて開拓村の貧困に喘いでいた頃の悲壮感は微塵もない。
カインは口元の泡を拭いながら、自嘲気味に口角を上げた。
「戻れない、か。……全くですね。私は少し、不自由になりましたよ」
「不自由? 帝国の至宝とまで呼ばれたお前さんがか?」
「えぇ。魔法はかつて『願えば叶う奇跡』でした。イメージさえ強ければ、炎も氷も意のままに操れた。それが魔法使いの特権だった」
カインは羊皮紙の数式を、愛おしむように、あるいは憎むように指先でなぞった。そこには、かつての彼なら見向きもしなかった「空気抵抗」「摩擦係数」「熱伝導率」「応力集中」といった、物理学のパラメータが並んでいる。
「けれど、マスターに教わってしまったんです。『事象はすべて数値で記述できる』とね。風が吹けば気圧差を考え、火が燃えれば酸化反応とカロリー計算を考える。……神秘のベールが剥がれた分、世界は恐ろしいほど精緻で、融通の利かない機械仕掛けに見えてきます」
カインは苦く笑った。
だが、それを聞いたギードは、きょとんとした後、皺だらけの顔をくしゃくしゃにして笑った。
「ははっ! 賢者様にとっちゃ不自由かもしれんが、わしら村人にとっちゃ逆じゃよ」
ギードはつまみの燻製肉を齧りながら言った。その肉もまた、アシュランが燻煙の温度とチップの種類を厳選し、保存性と味を両立させたものだ。
「わしらは今まで、不作になりゃ『天罰』だの『精霊の怒り』だのと怯えるしかなかった。祈って、なけなしの作物を生贄に捧げて、精霊様のご機嫌を伺う。それでもダメなら飢えて死ぬ。……それが当たり前だった」
ギードの目が、酒場の喧騒に向けられる。そこには、明日の農作業の段取りを話す若者たちや、新しい水路の設計図をテーブルに広げて議論する男たちの姿があった。彼らの目に、明日への不安はない。あるのは「どうすればもっと良くなるか」という、前向きな野心だけだ。
「だが、アシュランはわしらに『理屈』をくれた。土の栄養が足りなきゃ肥料の配合を計算すればいい。水が来なきゃ水路の高低差を測ればいい。『なぜそうなるのか』が分かれば、わしらのような学のない凡人でも対処ができる」
ギードはジョッキを揺らし、その向こうの景色を透かして見るように目を細めた。
「あいつは、祈る代わりに測れと言った。代わりに『自分たちの足で立つ力』をくれたのさ。……おかげで、雨乞いの儀式を取り仕切っていた婆様たちは暇になっちまったが、今は水路の水位管理に大忙しさ。悪くない変化だよ」
「……違いない」
カインは頷いた。
我が師アシュラン。魔力を持たない「無能」として追放された男。だが彼は、魔力の代わりに「知恵」という名の光で、この辺境を照らしてみせた。
二人が笑い合ったその時、入口の扉が勢いよく開いた。
煤と鉄の匂いを纏った大柄な男、鍛冶師のドルガンだ。
「おうおう、ここか! 探したぞカイン!」
「……ドルガンですか。相変わらず声が大きいですね。また無理難題を持ち込む気ですか?」
「失礼なことを言うな! ほら、頼まれてたゴーレムの関節パーツだ。試作品が出来たから持ってきてやったぞ」
ドルガンは「よっと」と軽い掛け声と共に、布に包まれた金属の塊をテーブルに置いた。
布を解くと、鈍い銀色の光沢を放つ球体関節が現れる。一見するとただの鉄球と筒の組み合わせに見えるが、その表面には美しい幾何学模様のような焼き入れの跡が浮かんでいた。
「アシュランに教わった『構造解析』ってやつを試してみた。力が一番かかる部分の厚みを髪の毛より細かい基準まで変えて、焼き入れの温度管理も徹底した。……たぶん、強度は従来の三倍はあるぞ」
「三倍……? え?!、これをミスリル合金じゃなく、ただの鉄でやったのですか?」
「素材じゃねぇ、技術と知識だ。アシュランがよく言うだろ? 『素材の性能に甘えるな、物理で殴れ』ってな」
ドルガンは近くの椅子を引き寄せ、勝手にギードのピッチャーから酒を注いで一気に飲み干した。
「ぷはーっ! 生き返る! ……しっかし、アシュランの奴も大概だよな。昨日なんて俺の工房に来て、『この廃熱を利用して床暖房にできないか』とか言い出しやがった」
「床暖房? 聞き慣れない単語ですね。なんですかそれは」
「床の下にパイプを通して、温水を循環させるんだとよ。……発想がぶっ飛んでやがる。けどよ、言われた通りに試算してみたら、冬場の薪の消費量が半分以下になるんだ。悔しいが、あいつの言うことはいちいちもっともで、腹が立つくらい合理的だ」
ドルガンは呆れたように首を振るが、その表情は少年のように楽しげだ。
彼にとってアシュランは、雲の上の領主ではなく、同じ「ものづくり」の視点を持つ、頼れる悪友なのだろう。
「……鍛冶師までそんな口を利くようになるとはね」
カインは、テーブルに置かれた関節パーツを手に取った。
指で弾くと、澄んだ高い音が響く。均質な密度の証だ。滑らかな動き。計算され尽くした重心。魔法による強化なしで、これほどの精度が出せるとは。
カインの中に、悔しさと、それ以上の歓喜が湧き上がる。
「マスターは、僕たちに技術を与えたのではありません。『疑う力』と『測る力』を与えたんです。それがどれほど恐ろしいことか、本人は分かっているのかいないのか……」
「分かってねぇだろ」
ドルガンとギードの声が綺麗に重なった。
「あいつにとって大事なのは、『いかに自分が楽をして、快適に過ごすか』だ。そのために俺たちを使ってるだけさ」
「全くだ。昨日も『遠心分離機でバターを作ると早い』とか言って、牧場の連中を巻き込んで大騒ぎしておったわ」
そこへ、隣のテーブルから若手の自警団員キドが顔を出した。
顔を赤くして、すでに出来上がっている様子だ。
「あ、それ俺も見ましたよ! アシュラン様、『手で振るのは運動エネルギーの無駄だ』って。でも、出来上がったバターは最高に美味かったっす!」
「俺のとこは、選果機のおかげで腰痛が減ったって婆ちゃんが拝んでたよ」
農夫のトマスも、枝豆を摘みながら話に入ってくる。
「正直な話、最初はあの人が何言ってるかさっぱり分からなかったけどな。でも、『とりあえずやってみろ』って言われて試したら、本当に楽になるんだから笑っちまうよ」
「そうそう。今じゃ、アシュラン様が『これをこうしろ』って言うと、みんな『今度はどんな手品が見られるんだ?』ってワクワクしてるんすよ」
いつの間にか、酒場の話題はアシュラン一色になっていた。
だが、誰一人として彼を「奇跡を起こす救世主」や「雲の上の神」として崇めてはいない。
「すげぇ奴」「変わった奴」「面白い奴」。
彼らはアシュランを、自分たちの生活を変えてくれた隣人として受け入れ、そして彼がもたらした「物理学」という新しい遊び道具を、心から楽しんでいる。
それは、かつてアシュランが魔術院で否定された「真理」が、この辺境の地で確かに根付いている証左だった。
カインはその光景を眺めながら、ふっと笑みを漏らした。
そして、羊皮紙の数式の端に、小さくメモを書き加えた。
『変数X:村人の熱意(計算不能)』。
「どうした、賢者様。計算は終わったか?」
「いえ。……やっかいな変数が一つ増えましたよ」
カインは苦笑混じりに答える。
「物理学ですべてが記述できると思っていた。ですが……この村人たちがマスターに向ける『理屈を超えた熱量』だけは、私のどんな数式でも、まだ処理しきれそうにないようです」
窓の外を見れば、小高い丘の上に建つ迎賓館の最上階、アシュランの部屋にまだ灯りがついているのが見えた。
おそらく彼のことだ。まだ見ぬ「快適」を求めて、あるいは明日の昼寝の時間を確保するために、この世界の常識をひっくり返すような図面を引いているに違いない。
その光は、この村にとっての道標であり、カインにとっては永遠に追いかけるべき背中だった。
「……さて、負けていられませんね」
カインは残りのエールを一気に飲み干すと、瞳に知的な光を宿して再びペンを握った。
「ドルガン、このパーツの摩擦係数、もう少し下げられますか? 潤滑油の粘度計算を見直す必要があります」
「はん、注文が多いな賢者様は! ……で、どれくらい下げりゃいい?」
「限界までです。……マスターをあっと言わせるには、それくらい必要でしょう?」
夜は更けていく。酒場の灯りは、まだ消えない。
酒場『赤煉瓦亭』の喧騒と灯りは、東の空が白むまで消えそうになかった。
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