幕間4-1:聖女と日常
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ウルム村の朝。自動給水塔が、規則正しい水音を響かせる。
かつて日の出前から祈祷に縛られていた彼女にとって、この朝は驚くほど静かだった。
彼女が現在、仕事場としているのは、村の中央広場から少し離れた場所にある『治療院』だ。
白塗りの清潔な壁に、アシュランの緻密な設計図を元に村の職人たちが作り上げた精密な医療器具が並ぶその場所で、エレノアは今日も「聖女」として、あるいは一人の「相談役」として席に着く。
「失礼するよ、エレノア様。……昨日から、どうも腰の調子が思わしくなくてね」
最初にやってきたのは、農業ギルドの古株、トマスだった。長年の開墾作業で酷使された体は、秋の冷え込みと共に悲鳴を上げているようだった。
「あら、トマスさん。おはようございます。……どれ、少し拝見しますわね」
エレノアは柔らかな微笑みを浮かべ、トマスの背後に回った。
彼女がそっと手をかざすと、その周囲に淡い光の粒子が舞い踊る。それは、この土地に満ちる精霊たちが彼女の呼びかけに応じた証だった。
「……ふむ。少し、筋肉の繊維に疲れが溜まっているようですわね。精霊が、ここが滞っていると囁いていますわ」
エレノアの指先から、温かな魔力がじわりとトマスの腰へ浸透していく。
かつての彼女なら、ここで「神の奇跡」を謳い、大仰な呪文を唱えていたことだろう。だが、今の彼女はただ友人に語りかけるように、自然な動作で処置を進めていく。
「ああ……。温かい。痛みが引いていくよ。……やっぱりエレノア様の奇跡は凄いねぇ」
「ふふ、奇跡だなんて。私は話を聞いて、少しだけお手伝いをしただけですわ」
トマスはすっかり軽くなった腰を回しながら、感謝の言葉と共に、庭で採れたばかりの林檎を一つ置いていった。
次に来たのは、指に刺さった棘が抜けないと泣きべそをかく子供。
その次は、嫁との折り合いが悪くて胃が痛むと訴える老婆。
エレノアはそれら全ての訴えに等しく耳を傾け、時には精霊の力で傷を癒やし、時にはただ黙って話を聞いた。
村人たちは、彼女を「聖女様」と呼ぶ。
だが、その声に、帝国で聞いたような硬さや、祈りの色はなかった。
村人たちにとってのエレノアは、「困った時に一番頼りになる、凄腕で優しいお医者様」という、極めて身近で実用的な信頼の対象だった。
◇
「……エレノア様。一つ、伺ってもよろしいですか?」
昼下がり、相談に訪れていた若い母親が、不思議そうに問いかけた。
彼女は、エレノアが空中の何もない場所に向かって、楽しそうに囁きかけているのを見ていたのだ。
「エレノア様は、いつも精霊さんとお話しされていますけれど……。それは、神様の声を聞いているのと同じことなのですか?」
聖教国の教義では、聖女とは神の言葉を地上に伝える唯一の依代だとされている。
だが、ウルム村で過ごすうちに、その「定義」にエレノア自身が違和感を抱き始めていた。
エレノアは、窓の外で風に揺れる木々を見つめ、穏やかに首を振った。
「いいえ。私は神の声を聞いているわけじゃありませんわ。……ただ、精霊たちが“今ここで何が苦しいか”を教えてくれるだけよ?」
母親は、きょとんとした顔をした。
「劇的な奇跡はありませんけれど、目の前の草花や、この部屋を満たす空気や、あなたのそばにいる小さな精霊たちは、とてもお喋りなの。彼らは『ここが熱いよ』とか『ここはもっと優しくしてほしい』と、素直に伝えてくれるだけ」
エレノアは、母親の膝の上で眠る赤ん坊の頬を優しく撫でた。
「聖女というのは、きっと特別である必要はないのです。……精霊たちの翻訳家、あるいは、ただの『聞き上手』。今の私は、それで十分だと思っていますわ」
その答えに、母親は納得したように微笑んだ。
神の意志と言われれば跪くしかないが、「聞き上手」と言われれば、明日もまた気軽に相談に来られる。
◇
夕刻。治療院を閉めたエレノアは、迎賓館の裏手にある共同洗濯場にいた。
「師匠が仰っていた通り、この『脱水機』というものは本当に便利ですわ」
エレノアは、アシュランの理論を元に職人が試作した、手回し式の遠心脱水機を慣れた手つきで扱っていた。
かつては触れることすら許されなかった法衣とは違い、今は自分のシーツや、村人から預かった包帯を、夕陽の下で一枚ずつ丁寧に干していく。
「エレノア! 今日の夕飯、私が準備を手伝うことになったんだけど、何か食べたいものはある?」
広場の向こうから、リナが元気に手を振りながら駆け寄ってくる。リナは精霊王の娘としての奔放さで、この村の誰に対しても垣根なく接していた。
「そうですわね……。トマスさんから頂いた林檎がありますから、食後のデザートにアップルパイが食べたいですわ!」
「わかった! じゃあロイルに言って、ベルンのところから一番いい小麦粉を届けてもらうように頼んでおくね!」
そんな明るいやり取り。
誰も彼女に跪かない。誰も彼女に無償の献身を強いない。
「聖女」であることは、彼女を構成する数多くの役割――治療の専門家であり、美味しいものが好きであり、精霊の友であるという属性の一つに過ぎなくなっていた。
「……本当に、明るくなったな」
その光景を、執務室の窓から見ていたカインが、感慨深げに呟いた。
「帝国にいた頃の彼女は、常に自分を殺し、世界の罪を背負わされているような顔をしていたが。……今の彼女は、一人の人間として、この村の土を踏んでいる」
カインの手元には、かつての「聖女エレノア」に関する、冷徹で事務的な調査資料があった。 そこには『精神的磨耗が激しく、魔力枯渇症により余命幾ばくもなし』という、残酷な推測すら記されていたのだ。
だが、今、窓の外で笑っている女性は、どうだ。 夕飯のメニューに目を輝かせ、洗濯物の乾き具合を精霊に尋ね、マスターの怠慢に呆れながらも、その日常を心から楽しんでいる。
「マスターが『快適さ』を求めた結果、救われたのは、どうやら物理的な利便性だけではなかったらしい」
カインは眼鏡の奥の瞳を和らげ、ペンを置いた。
ウルム村という、理で築かれたこの村は、いつの間にか、人を軽くする場所になっていた。
エレノアが干し終えた真っ白なシーツが、秋の微風に吹かれて、心地よさそうにたなびいている。
その光景は、どんな壮麗な大聖堂のステンドグラスよりも、今のカインには美しく、尊いものに感じられた。
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