第7話:物理法則と新たな計画
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ノーリアが回り始めてから、村の空気は一変した。
貯水池には常に清らかな水が満ち、村人たちはいつでも自由に水を使えるようになった。何より大きな変化は、女子供たちの仕事だった水汲みがなくなったことだ。一日二時間もの重労働から解放された彼女たちの顔には、以前の疲弊しきった表情はなく、明るい笑顔が浮かんでいる。
「アシュランさん、ありがとう! これで娘を遠い川まで行かせなくて済むわ」
「本当に助かったよ。おかげで、家の仕事がずっと楽になった」
村の女性たちから感謝の言葉をかけられるたびに、俺は少し照れくさい気持ちになりながらも、「どういたしまして」と返すのだった。
貯水池の周りは、今や子供たちの格好の遊び場だ。水面に木の葉を浮かべて競争させたり、水を掛け合ったりと、楽しそうな笑い声が絶えることはない。その光景を眺めながら、俺は一人、次の計画について考えていた。
水は村の広場まで来た。生活用水の問題は解決したと言っていいだろう。だが、村の生命線である畑までは、まだ距離がある。結局、ここから先は桶を担いで人力で運ぶしかない。これでは、根本的な問題の半分しか解決していない。
「……次は、畑の灌漑用水路の整備、か」
俺が一人呟いていると、いつの間にか村長のギードが隣に立っていた。
「アシュランよ。次は何を考えておるんだ?」
ギードの目は、好奇心と信頼に満ちている。もはや、俺を疑う者はこの村にはいない。いや、 皆がそうだとは限らないか……。
「次は、この貯水池から畑まで、効率よく水を送る仕組みを作ろうかと思ってね」
「ほう! そんなことができれば、我々は本当に助かるが……。できるのかね?」
「ああ」
俺はニヤリと笑って見せた。
「皆の協力があれば、な」
そのやり取りを、少し離れた場所から、苦虫を噛み潰したような顔で見ている親子がいた。子供たちの元リーダー格だった少年、キドとその父親のボルグだ。
彼らは、ノーリアの建設には最後まで参加しなかった。だが、その完成が村にもたらした恩恵は、認めざるを得ない。キドの母親も、水汲みから解放されて喜んでいる一人なのだ。
本当は、自分たちもあの輪の中に入りたい。だが、初めに大見得を切って反対してしまった手前、今更「手伝わせてくれ」とは言えなくなってしまっていた。ボルグは、楽しそうに働く他の村人たちと、輪に加わりたそうにしている息子を、ただ黙って見ていることしかできなかった。
翌日、俺は再び村人たちを広場に集めた。
「今日から、畑に水を引くための用水路を作る。だが、ただ掘るだけじゃない。今回は、もっと正確な測量と、頑丈な水路を作るための新しい技術を使う」
俺がまず取り出したのは、動物の腸をなめして作った細長い管の両端に、光を通すほど薄く加工した動物の膀胱を貼り付けた、奇妙な道具だった。
「これは、『水盛り管』という。この管に水を満たせば、『水は常に同じ高さになろうとする』という性質を利用して、離れた場所の正確な高低差が測れる」
俺は実際に、離れた二点に立てた杭の上で水盛り管を使い、水位がぴったりと一致することを見せてやった。目で見ただけでは分からない、わずかな地面の傾斜が可視化される様子に、村人たちから「おお……」とどよめきが起こる。
「これを使えば、水路全体で一定の、緩やかな勾配を保つことができる。勾配が急すぎれば水路が壊れ、緩すぎれば水が淀む。最適な勾配を維持することが、長距離まで安定して水を運ぶ秘訣だ」
次に俺は、A字型の木枠に石を吊るしただけの「Aフレーム水準器」の使い方を教え、村人たちに測量を任せた。彼らはもう、俺の言葉を疑わない。それどころか、新しい知識を学ぶことを楽しんでいるようだった。
測量が終わると、次は設計と施工だ。
「水路の断面は、ただの溝じゃない。台形に掘る。同じ断面積なら、水と接する面が短いほど摩擦が減って、水の流れが速くなるんだ」
「壁は、ただ土を固めるだけじゃなく、『版築』という工法を使う。粘土、砂、砂利を混ぜたものに、石灰と藁を少し加えて、型枠に入れて突き固める。こうすれば、驚くほど頑丈で、水漏れのしない壁ができる」
大工のヘイムや鍛冶屋のドルガンは、俺の説明に熱心に耳を傾け、時折、専門的な視点から質問を投げかけてくる。彼らの職人としての知識と経験に、俺の物理学の知識が加わることで、計画はさらに洗練されていった。
作業は順調に進んだ。
だが、一つの問題が持ち上がった。村の西側にあるボルグの畑へ水路を引くには、どうしても小さな窪地を越えなければならない。
「アシュラン、ここはどうする? 迂回するには、かなりの遠回りになるが……」
ヘイムが困った顔で相談に来た。その様子を、ボルグが離れた場所から固い表情で見つめている。
「いや、迂回はしない」俺は設計図の一点を指さした。
「ここに、『サイフォン』を設置する」
「さいふぉん?」
「ああ。密閉した管を使えば、水を一度低い場所に通してから、再び高い場所へ持ち上げることができる。大気圧を利用した仕組みだ」
俺の説明に、村人たちは「そんな馬鹿な」と顔を見合わせた。だが、ノーリアを完成させた俺の言葉だ。誰も、不可能だとは言わなかった。
その日の夕方、俺がサイフォンに使う木管の防水加工について考えていると、少年キドが一人でやってきた。
「……なあ」
「どうした?」
「その……さいふぉんってやつ、本当にできるのか?」
「ああ、できるさ」
「……できたら、うちの畑にも、水が来るのか?」
「もちろん、そのためのものだからな」
キドはしばらく黙り込んでいたが、やがて、決心したように顔を上げた。
「……俺、手伝う! 父ちゃんには、俺から言うから!」
少年の目に宿る、強い光。俺は、その頭を優しく撫でた。
「そうか。助かるよ」
翌日。作業の輪の中に、ひときわ気まずそうに立つボルグとキドの姿があった。村人たちの視線が、一瞬だけ彼らに集まり、作業の手が止まる。
ボルグは、居心地悪そうに視線を彷徨わせた後、意を決して鍛冶場にいるドルガンの元へ歩み寄った。
「……ドルガン」
「……なんだ」
ハンマーを振るう手を止めたドルガンが、ぶっきらぼうに答える。
「……すまなかった。俺が、間違っていた」
ボルグは深く頭を下げた。
「この通りだ。今更、どの面下げてと思うかもしれんが……俺にも、何か手伝わせてくれんか」
絞り出すようなその言葉に、ドルガンはしばらく黙っていたが、やがてフンと鼻を鳴らした。
「……ったく、頑固者が。初めから怒ってなんかいねえよ」
ドルガンはそう言うと、傍らに置いてあった予備のハンマーをボルグに放り投げた。
「ほらよ。炉の火がもったいねえ。さっさと手を動かせ」
ボルグは、その無骨な優しさに一瞬目を見開いたが、すぐに力強く頷き、ハンマーを握りしめた。その表情には、吹っ切れたような清々しさがあった。
他の村人たちも、その様子を微笑ましげに見守ると、何も言わずにそれぞれの作業に戻っていく。
キドも、エリアナたちに「遅いぞー!」とからかわれながら、照れくさそうに子供たちの輪に加わった。
こうして、村は再び一つになった。
俺がもたらした物理法則という名の「魔法」は、水だけでなく、人の心をも動かし始めていた。
全ては、俺が快適に暮らすため。そのはずだったのだが……。
まあ、いいか。俺は、活気に満ちた村の様子を見ながら、小さく笑った。
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