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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜  作者: しいたけ
第4章 自律と観測

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第61話:神の秤と祈りなき繁栄の報告書

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

ウルム村を後にした巡察司祭セルジオの帰路は、想像以上に過酷なものだった。


車輪が軋み、硬い座席が容赦なく腰を打つ。

エルディナ王国の国境を越え、聖教国へと向かう山岳地帯の街道は、長年の雨風で洗われ、荒れ放題になっていた。


「……うっ」


馬車が大きな石に乗り上げるたび、セルジオは顔をしかめて手すりを握りしめる。

随行の若い修道士たちは、すでに酔いで顔色を青くし、口数も少なくなっている。


セルジオは、ふと数日前まで滞在していたウルム村の光景を思い出した。


隙間なく敷き詰められた平滑な石畳。

泥濘(ぬかるみ)知らずの排水システム。

そして、荷車の振動を吸収する「バネ」とかいう奇妙な機構。


あの村では、移動すらも快適だった。

だが一歩外に出れば、世界はこの有様だ。泥と、石と、不快な振動が支配する、ありふれた現実。


「……遠いな」

セルジオは窓の外、荒涼とした岩肌を眺めながら呟いた。


「地理的にも……思想的にも」


物理的な距離だけではない。

あの村で見た「(ことわり)」に支配された日常と、神の加護を乞いながら泥道を這う今の自分たちの間には、決して埋まらない深い溝があるように感じられた。


あの村は、神の統治圏の外側にある「空白地帯」だ。

その事実が、馬車の揺れと共に、セルジオの胃袋に重くのしかかっていた。



ウルム村を出立してからおよそ一週間。馬車の車輪が悲鳴を上げ続ける山越えの末、ようやく聖教国の国境付近にある、古びた修道院に辿り着いた。 ここが、巡察の一次報告を行う中継拠点である。


薄暗い執務室で、セルジオは地方を管轄する司教と向かい合っていた。

部屋には古い羊皮紙と、(かび)たインクの匂いが漂っている。


「……報告書は読ませてもらった、セルジオ司祭」


白髪の司教が、老眼鏡越しに困惑した視線を向ける。


「だが……どう判断すべきか迷うな。これは、本当に『異端の疑いあり』として調査した村の記録かね?」


「事実を、ありのままに記しました」


セルジオは淡々と答えた。


報告書に記されているのは、およそ異端審問の対象とは思えない内容ばかりだ。

『魔術的儀式の痕跡:なし』

『悪魔崇拝の形跡:なし』

『禁忌の遺物:確認されず』

『住民の素行:勤勉かつ温厚。治安は極めて良好』


どこをどう切り取っても、模範的な優良な村の記録でしかない。

だが、司教の指は、ある一点で止まっていた。


『祈祷施設:存在せず』

『住民の信仰心:敵意はないが、必要性を感じていない』


「……祈りの場がない、か」

司教が唸る。


「貧しい開拓村なら珍しくはない。だが、報告によればこの村は、近隣の都市を凌ぐほどの経済力と技術力を持っているそうではないか」


「はい。水道、暖房、物流。全てが完備されています」


「それほど豊かならば、真っ先に神への感謝を捧げるのが人の道だろう。……なぜ、教会を建てない?」


「彼らにとって、豊かさは神からの授かりものではないからです」


セルジオは、村で見た光景を脳裏に浮かべながら言った。


「彼らにとって、水は『管を通って来るもの』であり、暖かさは『断熱材によって保たれるもの』です。……全ては彼ら自身の手と、アシュランと呼ばれる一人の人物の知恵によって作られたもの。そこに、奇跡()の入る余地はありません」


司教は沈黙した。


悪魔を崇めているなら、断罪すればいい。

邪神を信じているなら、教化すればいい。

だが、「自分たちの力だけで幸せになった人々」を、教会はどう裁けばいいのか。

教義の想定外の事態に、地方司教の判断能力は停止していた。


「……これは、私の手には余る。中央へ送ろう」


司教は報告書に『分類不能・要審議』の印を押した。

それは、善悪の彼岸にある「異物」として、ウルム村が処理された瞬間だった。



そして、一ヶ月後。

聖教国の首都、聖都イルミナ。

その中心にそびえ立つ白亜の中央大聖堂。

ステンドグラスの光が降り注ぐ荘厳な表舞台とは裏腹に、その地下には、教会の「闇」と「法」を司る実務部隊の会議室があった。


石造りの冷たい部屋。

円卓を囲むのは、教会の頭脳とも呼べる数名の高官たちだ。

教義の解釈を行う「教理官」。

世界の情報を記録する「記録司祭」。

そして、漆黒の法衣を纏った「異端審問局」の連絡係。


ここには、大評議会のような派手さはない。しかし、ここで決まったことが、数日後には「神の意志」として世界に布告される。


「……巡察司祭セルジオ。報告をご苦労」


議長を務める教理官が、低い声で告げた。

手元には、セルジオが書き、地方司教が印を押したあの報告書がある。


「貴官の報告は、非常に興味深く、そして……極めて不愉快なものだ」

教理官は、感情を押し殺した声で言った。


「辺境の一村落が、独自の技術で繁栄し、神を忘れている。……ここまではよくある『傲慢の罪』だ。いずれ天罰が下り、彼らは泣いて神にすがるだろう。……そう、結論付けたいところだが」


教理官は視線を異端審問局の男に向けた。

「審問局の見解は?」


黒衣の男が、感情のない声で答える。

「……少なくとも、我々が想定する形では下らないでしょう」


会議室の空気が凍る。


「現地の調査によれば、彼らは自然災害に対する防御策も万全です。洪水、干ばつ、害獣。……それらを物理的に無力化する術を持っています。彼らが神に泣きつく未来は、確率的に低いと判断します」


「……神の試練すらも、技術で弾き返すと言うのか」


記録司祭が、信じられないものを見るような目で報告書を見た。


「これは……『否定』よりも質が悪い」


セルジオは、ここで口を開く許可を得た。

「はい。それが、私が現地で感じた最大の恐怖です」


セルジオは、円卓の全員を見渡して言った。

「彼らは、神を否定してはいません。敵意もありません。……ただ、彼らの生活において、神は『存在しないもの』として扱われているだけです」


「存在しないもの……」


「ええ。空気や水は必要だが、神は必要ない。……彼らにとって神とは、『子供の頃に聞いたお伽噺』程度の重さしかないのです」


静寂。

重く、粘り気のある沈黙が会議室を支配する。


もし、「神がいなくても人は幸せになれる」という事実が証明されてしまったら?

それは、教会の存在意義そのものを根底から覆す毒になる。

悪魔の誘惑よりも甘く、そして致死性の高い毒だ。


「……分類不能、ということですか」

異端審問局の男が、ポツリと漏らした。


「神を憎む者は裁ける。異教徒は改宗させられる。だが、神を『不要』とする者は……教義の想定外だ」


彼らの顔にあるのは、怒りではない。

未知の病原体を発見した医師のような、制度的な不安と困惑だった。


「……軍を送り、焼き払うか?」

強硬派の司祭が提案する。

「異端の芽は、早めに摘むべきだ」


「却下だ」

教理官が即座に否定した。

「理由がない。彼らは法を犯していないし、教会に敵対もしていない。ただ『便利に暮らしている』だけの村を焼き払えば、民衆の支持を失う。……それに、背後に帝国の影が見える」


「帝国……」


「報告書によれば、帝国皇帝の署名入り石碑があるとのこと。……今、帝国と事を構えるのは得策ではない」


議論は、神学論争から政治的判断へとシフトしていく。

神の正義も、現実の政治力学の前では慎重にならざるを得ない。


数時間の議論の末、教理官が木槌を叩いた。


「……結論を出す」

彼の声が、冷たく響く。


「現時点での軍事介入、および異端認定は保留とする。……だが、放置はしない」


教理官は、羽根ペンを取り、報告書の表紙に新たな文字を書き込んだ。


「当該地域――ウルム村を、『信仰空白地帯』および『技術的特異点』として特別監視対象に指定する」


監視対象。

それは、「今は泳がせるが、いつでも首を刎ねられるように刃を研いでおく」という意味だ。


「布教活動の名目で、より高位の司祭を送り込め。……そして、彼らの思想が外部へ波及しないよう、情報の封鎖も検討せよ」


「はっ」


全員が頭を下げる。

セルジオもまた、深く頭を下げながら、心の中で冷たい納得を感じていた。


(やはり……“村”ではなく、“事例”として扱われたか)


教会にとって、ウルム村に住む人々の笑顔や生活はどうでもいい。

重要なのは、それが「教会の秩序」を乱すか否か、その一点のみ。

神の秤にかけられた村は、今、「保留」という不安定な皿の上に乗せられたのだ。



会議が終わり、参加者たちが資料を片付けている時だった。

異端審問局の男が、資料の一部をめくりながら、独り言のように呟いた。


「……それにしても、奇妙ですね」


「何がだ?」


「この報告書にある『社会構造の記述』です。……先日、帝国の理知院から入手した極秘資料と、妙に一致している」


男の言葉に、セルジオは足を止めた。


「帝国もまた、あの村を『脅威』として見ているようです。……ただし、我々とは逆の理由で」


「逆?」


「ええ。我々は『神なき秩序』を恐れる。帝国は『統治者なき秩序』を恐れる。……見ている側面は違いますが、感じている不気味さは同じようです」


男は、口元を歪めて笑った。


「神の秩序か、人の秩序か。……あるいは、そのどちらでもない新しい(ことわり)か。……これは、急いで裁くべき案件ではないかもしれませんね」


男は資料を閉じ、影のように退室していった。


セルジオは、誰もいなくなった会議室で、天窓から見える空を見上げた。

聖都の空は青い。

だが、ウルム村で見たあの青空のような、突き抜けるような開放感はなかった。

教義と石壁に囲まれた、閉じた空。


「……嵐が来るな」


セルジオは呟いた。

まだ風は吹いていない。

教会も、帝国も、まだ動かない。

だが、その視線だけは確実に、あの辺境の小さな村へと注がれている。


書類の上で始まった「審判」は、いずれ現実の圧力となって、ウルム村に住む者たちの平穏を浸食するだろう。

その時、神の秩序は、あの村の(ことわり)を包摂できるのだろうか。


セルジオは胸で十字を切り、重い足取りで部屋を後にした。

彼の背中には、ただの報告者には重すぎる、世界の予兆がのしかかっていた。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

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