第58話:怠惰な怪物と戦慄する帝国
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ウルム村の喧騒から少し離れた丘の上。
聖樹リナの枝葉が心地よい木陰を作るその場所に、アシュランの自宅兼工房はあった。
案内役のロイルに連れられ、帝国理知院の観測官ゲルハルトたちがそこに到着した時、彼らが目にしたのは、あまりにも「無防備」な光景だった。
護衛の兵士はいない。威圧的な門もない。
ただ、幾何学的に配置された窓ガラスが午後の光を反射し、煙突からは穏やかな煙が立ち上っているだけだ。
「……ここが、統治者の館か?」
ゲルハルトは眉をひそめた。
王国の貴族や、帝国の高官の屋敷といえば、権威を誇示するための装飾と、厳重な警備が常識だ。
だがここには、拒絶の意志も、権威の誇示も感じられない。あるのは、徹底した「実用性」と、奇妙なほどの「静寂」だけだ。
「アシュラン様ー。お客さんですよー」
ロイルが玄関のドアをノックする。
しばらくして、中からドタドタという足音が聞こえ、ドアがガチャリと開いた。
「……んあ? 誰だ、ロイル。今は昼寝の時間だと言ったはずだが」
現れたのは、寝癖のついた黒髪に、着崩したシャツを纏った青年だった。
眠そうに目を擦り、手には読みかけの魔導書を持っている。
覇気はない。魔力の波動も感じられない。
どこにでもいる、少し偏屈そうな研究者崩れ。それが第一印象だった。
「すみません。鉄の買い付けに来た商人さんたちが、どうしてもアシュラン様に挨拶したいって」
「……チッ。商売の話なら商業ギルドに行けと言っただろう」
青年――アシュランは、露骨に舌打ちをした。
偽装しているとはいえ帝国の高官を前にして、この態度。
ゲルハルトの部下たちが、ムッとして色めき立つ。だが、ゲルハルトは片手でそれを制し、恭しく一礼した。
「お初にお目にかかります。鉄の仲買人をしております、ゲルハルトと申します。……この村の驚くべき発展ぶりを拝見し、ぜひその中心におられる方にご挨拶をと」
「挨拶? いらんいらん。俺はただの相談役だ。責任者は村長のギードだから、そっちに行ってくれ」
アシュランは面倒くさそうに手を振った。
謙遜ではない。本気で「関わりたくない」という顔だ。
「……ですが、村の方々は皆、貴方様の指示に従っていると伺いましたが?」
ゲルハルトが鎌をかけると、アシュランは「はぁ?」と心底嫌そうな顔をした。
「指示? してないぞ。……俺があいつらに言ったのは、『俺の昼寝を邪魔するな』『自分で考えろ』『壊したら直してやるから持ってこい』。それだけだ」
アシュランは欠伸を噛み殺しながら、ドア枠に寄りかかった。
「あいつらが動いているのは、あいつらが勝手に決めたからだ。俺は、そのための『仕組み』と『道具』を置いてやったに過ぎない」
その言葉を聞いた瞬間。
ゲルハルトの背筋に、氷柱を突き立てられたような悪寒が走った。
『命令』していない。
『管理』していない。
ただ、『仕組み』を置いただけ。
それは、統治者として最も恐ろしい言葉だった。
通常の支配は、命令と服従によって成り立つ。だが、それは常に「反発」というコストを伴う。
しかし、この男がやっていることはどうだ?
住人たちに「自分たちで決めた」と思わせ、自発的に動くように環境を設計している。
それはもはや統治ではない。
人間という変数を組み込んだ、巨大な自動演算装置の構築だ。
「……恐れながら」
ゲルハルトは、商人の仮面が剥がれそうになるのを必死で抑え、問いかけた。
「もし、彼らが間違った判断をしたら? あるいは、貴方様の方針に逆らったら、どうされるおつもりで?」
もし反乱が起きたら。もし利益を独占しようとする輩が出たら。
支配者ならば、当然用意しているはずの「罰」や「抑止力」を問うたのだ。
だが、アシュランはきょとんとして、それから鼻で笑った。
「逆らう? なんで?」
その問いは、あまりにも純粋で、それゆえに不気味だった。
「この村は快適だぞ。飯は美味いし、冬は暖かいし、夏は涼しい。……俺の方針に従っていれば、それが維持される。逆に、勝手なことをすれば、不便になるだけだ」
アシュランは、さも当たり前のように言った。
「人間は、不快より快適を選ぶ。非効率より効率を選ぶ。……水が低い方へ流れるのと同じだ。理屈さえ整えてやれば、強制なんかしなくても、勝手にまとまるさ」
ゲルハルトは絶句した。
洗脳でもない。
宗教的な教義でもない。
この男は、「快適さ」という餌と、「物理的な合理性」というレールだけで、何百人もの人間が、結果として同じ方向を向いているのだ。
恐怖による支配は脆い。
だが、「利益」と「納得」による支配は、岩盤のように堅固だ。
この村の住人たちは、アシュランの掌の上で踊らされていることすら気づかず、むしろ「自分たちは自由だ」と感謝しながら、最高効率で働いている。
(……なんて、男だ)
目の前にいるのは、寝癖のついた怠惰な青年だ。
だが、ゲルハルトの目には、玉座の皇帝とは別種の、理解不能な存在に見えた。
「……あー、もういいか? コーヒーが冷めるんだが」
アシュランが退屈そうに言う。
これ以上話しても無駄だ、という明確な拒絶。
「……失礼いたしました。お忙しいところ、貴重なお話をありがとうございました」
ゲルハルトは深々と頭を下げた。
それは、一介の商人としての礼ではない。
帝国理知院の局長として、未知なる脅威に対する最大限の敬意と警戒を込めた礼だった。
「おう。……ロイル、帰りにそいつらに、ヘイムの宿の優待券でも渡してやれ。高い部屋に泊まらせて、金を落とさせろよ」
「了解です! アシュラン様、ゆっくり休んでくださいね!」
ロイルが敬礼し、アシュランはパタンとドアを閉めた。
後に残されたのは、静寂と、冷や汗に濡れた視察団の一行だけだった。
◇
帰路につく馬車の中。
行きとは打って変わり、車内は葬式のような重苦しい空気に包まれていた。
「……局長」
部下の一人が、震える声で沈黙を破った。
「あの男……アシュランは、何者ですか? あんな……あんな『虚無』のような目をした支配者は、見たことがありません」
「……ああ」
ゲルハルトは額の汗を拭った。
アシュランの目は、野心に燃える者の目ではなかった。かといって、慈愛に満ちた聖人の目でもない。
ただ淡々と、現象を観察し、計算し、最適解を出力する機械のような目。
「あれは、軍隊よりも厄介だ」
ゲルハルトは断言した。
「軍隊なら、指揮官を潰せば終わる。恐怖政治なら、民衆を扇動すれば崩せる。……だが、あの村は違う」
ゲルハルトは、窓の外に広がる荒野を睨みつけた。
「あの村には、『命令する者』がいない。全員が自律的に動き、仕組みの一部として機能している。……アシュランという男は、自分がいなくても回る『永久機関』を作ろうとしているのだ」
もし、帝国がこの村を武力で制圧しようとすればどうなるか。
村人たちは、誰に命じられるでもなく、それぞれの判断で最善の抵抗を行うだろう。
補給線を断ち、罠を仕掛け、ゲリラ戦を展開する。中心を叩いても、その体制は止まらない。
それは、泥沼の消耗戦を意味する。
「……壊せない」
ゲルハルトは結論を下した。
「今の帝国にとって、ウルム自治区を敵に回すコストは、得られる利益を遥かに上回る」
「では、どう報告を?」
「『観測継続』。……そして、『最優先保護対象』だ」
ゲルハルトは苦渋の決断をした。
敵にするには危険すぎる。ならば、味方という枠に押し込め、飼い殺すしかない。
たとえそれが、猛毒を懐に入れる行為だとしても。
「……アシュラン・ド・ランテーム。……ただの追放者ではない。あれは、理という名の鎖で人を縛る、無防備な怪物だ」
馬車は帝都へ向けて速度を上げた。
だが、ゲルハルトの胸に残る戦慄は、距離が離れても消えることはなかった。
◇
その頃。
迎賓館の執務室では、カインが窓の外を見下ろしていた。
視察団の馬車が、逃げるように去っていくのが見える。
「……ふふ。思った通りですね」
カインは口元を歪めた。
彼には聞こえていたわけではないが、理知院の連中がどんな顔をして、どんな結論に至ったかは手に取るようにわかる。
彼らは「深読み」のプロだ。
アシュランの「ただ楽がしたい」という純粋な動機を、きっと「高度な統治哲学」や「洗脳技術」として解釈したに違いない。
「評価が、一人歩きしていますね」
カインは手元の報告書――理知院へ送るための定例レポート――にペンを走らせた。
そこには、アシュランの功績や、ギルド制の有効性が、少しばかりカインフィルターを通して美化されて記されている。
「ですが、止めませんよ。……この誤解は、村にとって最強の鎧になりますから」
「底知れない賢者が治める、不可解な自治領」。
その評判が広まれば、王国も帝国も、うかつには手を出せなくなる。
アシュランが望む「静かなスローライフ」を守るためには、外の世界に対して「虎」の絵を描いておく必要があるのだ。
だが、問題もある。
注目が集まれば、今回のような視察団や、あるいはもっと厄介な連中――教会や、利権に聡い大商人たち――が押し寄せてくるだろう。
そのたびにアシュランを対応させていては、彼の安眠は守れないし、ボロが出る可能性もある。
「……ギード殿、ロイル」
カインは、次の計画を練り始めた。
「商業ギルドだけでは足りませんね。……外部からの干渉を専門に捌き、アシュラン様を守るための防波堤。……『対外折衝ギルド』、あるいは『外交部門』の設立が必要です」
カインの眼鏡が妖しく光る。
アシュランは「仕組みを作った」と言った。
ならば、その仕組みを完璧なものに仕上げ、主を守り抜くのが、賢者たる自分の役目だ。
誤解と戦慄を置き土産に、帝国の視察は終わった。
だがそれは、ウルム村が「世界」という舞台に、正式にプレイヤーとして引きずり出された瞬間でもあった。
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