第55話:聖女とウルム村
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ウルム村に「ギルド制」が導入されてから、数日。
村は確かに忙しくなったが、不思議と息苦しさはなかった。
広場からは、ドワーフのドルガンたちがクレーンを操る威勢のいい掛け声が聞こえ、街道にはロイルたち物流ギルドの荷車が整然と列をなしている。
そんな喧騒から少し離れた、迎賓館の裏庭。
そこには、村の賑わいとは対照的な、穏やかでゆったりとした時間が流れていた。
秋晴れの高い空の下、白いシーツが風にはためいている。
爽やかな石鹸の香りと、水が跳ねる涼やかな音。
村の共同洗い場の一つとなっているこの場所で、元帝国聖女――エレノア・フォン・シルバクロイツは、腕まくりをして洗濯板と格闘していた。
「……んっ、しょ! んっ、しょ!」
気合の入った掛け声とは裏腹に、彼女の手つきは危なっかしい。
純白のエプロンを身につけ、銀髪をシュシュでまとめた姿は、どこからどう見ても可憐な村娘――と言うには、少しばかり所作が優雅すぎるが――だ。
彼女が洗っているのは、師匠であるアシュランの実験着だった。薬品の染みや、機械油の汚れがついた厚手の生地。本来なら魔法【洗浄】一発で済む作業だ。だが、彼女はあえて自分の手で、固形石鹸とブラシを使って汚れを落とそうとしていた。
「師匠は『魔法は便利だが、特殊な薬品や油汚れまでは分解できない』と仰っていましたもの。……たまには、こうして手洗いをして、日頃の感謝をお伝えしませんと」
エレノアは額に浮いた汗を手の甲で拭った。聖女として神殿の奥深くにいた頃は、自分の服を洗うことなどあり得なかった。食事も、掃除も、全ては侍女たちがやってくれた。だが、このウルム村に来てからは違う。
ここでは「生きること」は「手を動かすこと」だ。アシュランが物理学で世界を快適にするように、自分も生活という営みの中で、誰かの役に立ちたい。そう思っていた。
だが。
「……あら? ああっ!?」
ゴシゴシと力を入れすぎたせいで、泡で滑った石鹸が手から飛び出した。石鹸は美しい放物線を描き、洗い場の隣にいた女性の足元へ。さらに、慌てて拾おうとしたエレノアは、濡れた石畳に足を取られ――。
「きゃっ!」
派手に尻餅をついた。
バシャン! という水音と共に、洗濯桶の水が跳ね、エレノアのエプロンをびしょ濡れにする。
冷たい飛沫が頬を打ち、思わず目を瞬かせた。神殿の磨き上げられた床では、決して味わえなかった感触だ。
「あらあら、大丈夫ですか? エレノア様」
クスクスという笑い声と共に、ふくよかな手が差し伸べられる。隣で洗濯をしていた、農夫トマスの奥さん、マーサだ。
自分の失敗を周りが笑う。しかし、その笑い声は嫌ではなかった。
「あうぅ……。だ、大丈夫ですわ。……面目ないです」
エレノアは顔を真っ赤にして、マーサの手を借りて立ち上がる。そこには、聖女の威厳など欠片もない。あるのは、ドジを踏んでへたり込む、ただの湿った娘の姿だけだ。
「エレノア様。精が出ますねぇ。でも、アシュラン様の白衣は生地が厚いから、そんなに力を入れたら指の皮が剥けちまいますよ」
マーサは笑顔で石鹸を拾ってくれた。周囲にいた他の主婦たちも、温かい目で見守っている。
「コツがあるんですよ。こうやって、体重を乗せて押し出すように……」
「ブラシは円を描くようにね。……ほら、ここ、まだ汚れが残ってるわよ?」
気づけば、洗い場は即席の洗濯教室になっていた。
「はい……! こう、ですのね?」
「そうそう! 上手上手!」
「あらやだ、エレノア様ったら、泡だらけ!」
きゃあきゃあと笑い声が上がる。エレノアもつられて笑った。
神殿では決して許されなかった、無防備で、無作法で、とびきり楽しい時間。
「……ふふっ。洗濯って、難しいですわね」
「何言ってるんですか。あの恐ろしい魔獣を追い払う方が、よっぽど難しいでしょうに」
「いいえ。魔獣は聖魔法を撃てば消えますが、この油汚れは魔法でもなかなか消えませんもの」
エレノアが真顔で言うと、主婦たちは腹を抱えて笑った。
平和だ。
ギルドができて、男たちが仕事に精を出している間、女たちはこうして井戸端で情報を交換し、生活を回している。
その輪の中に、自分もいられることが、エレノアは何よりも嬉しかった。
◇
洗濯を終え、絞った白衣を干し終えた頃。
エレノアは、洗い場のベンチに座って一休みしていた。手には、マーサがお裾分けしてくれた、蒸かしたてのサツマイモがある。
「……熱っ、はふ、はふ」
行儀悪くかぶりつくと、素朴な甘みが口いっぱいに広がった。
アシュランが土壌改良した畑で採れた芋だ。甘くて、ホクホクしている。
「……お疲れ様、エレノア」
不意に、背後から声をかけられた。振り返ると、いつの間にかアシュランが立っていた。手にはマグカップを二つ持っている。片方からは湯気が立っていた。
「あ、師匠! ……すみません、お見苦しいところを」
エレノアは慌てて口元の芋屑を拭い、立ち上がろうとしたが、アシュランは手で制して隣に座った。
「いいさ。休憩中だろ」
アシュランはマグカップの一つをエレノアに差し出した。中身は、蜂蜜を垂らしたホットミルクだ。
「ありがとうございます……。師匠はお仕事の途中では?」
「サボりだ。……いや、視察だな」
アシュランは悪戯っぽく笑い、自分のコーヒーを啜った。
「カインが『ギルド間の予算調整会議』なんてものを始めたからな。数字の羅列を見るのは飽きたから、逃げてきたんだ」
「ふふ。カインも大変ですわね」
アシュランの横顔を見る。
以前のように眉間に皺を寄せ、常に何かに追われているような切迫感はない。
ギルド制が機能し始め、村人たちが自発的に動き出したことで、彼にかかる負担は確実に減っていた。もちろん、最終的な相談や、新しい技術の考案など、やることは山積みだ。だが、今の彼には「余白」がある。
「……見ていたぞ。洗濯」
アシュランが、干された白衣を見上げて言った。
「盛大に転んでいただろう」
「うっ……! み、見ていらしたのですか!?」
「ああ。マーサさんたちに笑われていただろう」
アシュランはクスクスと笑う。
エレノアは恥ずかしさで顔を覆った。
「穴があったら入りたいですわ……。聖女失格です」
「そうか? 俺は、いい光景だと思ったがな」
アシュランの言葉に、エレノアは指の隙間から彼を見た。彼は、干された洗濯物越しに、村の風景を眺めている。
「お前がここに来たばかりの頃、村人たちは腫れ物に触るようにお前を見ていた。『帝国の聖女様』『高貴な方』『自分たちとは違う世界の住人』だってな」
確かにそうだった。誰もが敬語を使い、道を譲り、決して目を合わせようとしなかった。それは敬意だったが、同時に分厚い壁でもあった。
「だが、さっきはどうだ。……お前は転んで、泥だらけになって、おばちゃんたちに助け起こされて、一緒に笑っていた」
アシュランはエレノアを見た。その瞳は、秋空のように澄んでいて、優しい。
「……今のお前は、もう『聖女様』じゃないな」
アシュランはそう言って、少しだけ笑った。
エレノアの胸の奥が、じんわりと温かくなった。
ホットミルクのせいだけではない。アシュランの言葉が、彼女が一番欲しかった「肯定」をくれたからだ。
「……わたくし、ここが好きです」
エレノアは、サツマイモの皮を弄りながら呟いた。
「帝国にいた頃は、毎日が『正しさ』との戦いでした。聖女として正しくあれ、清くあれ、人々を導けと……。でも、ここでは誰もわたくしに『導き』なんて求めません」
彼女は村の方を見た。
ドルガンが部下を怒鳴り飛ばし、ロイルが荷車を引いて走り回り、子供たちがその周りを笑いながら駆け抜けていく。
「皆様、自分の足で立って、自分で考えて生きていらっしゃいます。わたくしがいなくても、明日は来ます。……それが、たまらなく心地いいんです」
誰かに必要とされることは嬉しい。だが、誰かがいなければ生きていけない世界は、息苦しい。自立した個人が集まり、互いに支え合う。
アシュランが作ろうとしているこの「快適な楽園」の意味が、ようやく肌感覚で理解できた気がした。
「……そうか」
アシュランは短く答え、空を見上げた。
「俺もだ。……俺も、ここが好きだよ」
それは、普段は憎まれ口や理屈ばかり言う彼にしては珍しい、素直な言葉だった。
「お前やカイン、そしてギードや村の連中がいてくれるから、俺はこうして昼間からサボってミルクティーが飲める。……悪くない取引だ」
「まあ。結局はそこなんですのね」
「当然だ。スローライフ至上主義だからな」
二人は顔を見合わせて笑った。
風が吹き抜け、洗濯物がパタパタと音を立てる。遠くで、昼を知らせる鐘の音が聞こえた。
「……さて。そろそろ戻るか。カインが『予算案の決裁を』と鬼の形相で探しているかもしれん」
「ふふ。わたくしも、診療所に戻らなくては。……あ、その前に、この白衣のアイロン掛けを」
「無理するなよ。また火傷するぞ」
「大丈夫ですわ! 今度はマニュアル通りにやりますから!」
アシュランが立ち上がり、手を差し伸べる。
エレノアはその手を取り、立ち上がった。
泥だらけのエプロンも、石鹸の匂いがする手も、今の彼女にとっては勲章のように誇らしかった。
聖女は導かない。
奇跡も起こさない。
ただ、隣人と共に笑い、共に働き、時々失敗して、明日を迎える。そんな「当たり前の日常」が、この村には溢れている。
エレノアは、空になったマグカップを両手で包み込み、心の中で小さく祈った。
神へではない。
この愛おしい日常が、一日でも長く続きますようにと、この村の空気に溶けるように願ったのだった。
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