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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜  作者: しいたけ
第4章 自律と観測

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第50話:安全と油断

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

異変は、深夜の静寂の中でひっそりと起きていた。


ウルム村の西側、拡張されたばかりの農業区画。

そこには、俺の設計に基づき、川から引き込んだ水を効率的に分配する灌漑(かんがい)水路が張り巡らされている。

その支流の一つ、古いレンガと新しい配管の継ぎ目部分で、小さな亀裂が生じた。


ピシッ、という微かな音と共に、水が漏れ出す。

本来なら、定期点検で見つかるはずの微細なヒビだ。だが、その夜は違った。


漏れ出した水は、長い時間をかけて乾いた土壌に染み込み、地下の地盤をゆっくりと、しかし確実に侵食していった。

表層からは見えないまま、土砂は水に攫われ、空洞だけが広がっていく。


ズズ……ズズズ……。


鈍い音と共に、麦畑の一部が直径数メトルにわたって陥没した。

もし水量があと少し多ければ、隣の区画まで連鎖的に崩れていただろう。

幸いにして、そこは住居からは離れており、被害は収穫前の小麦が数株飲み込まれただけだ。


異変に気づいたのは、近くに住む農夫だった。

彼は夜中にトイレに起き、窓の外から聞こえる水音と、畑に空いた黒い穴に気づいた。


「おい、なんだありゃ……水が漏れてるのか?」


「どうしたの、あんた」


妻も起きてきて、窓の外を覗き込む。

月明かりの下、水路から溢れた水が、畑を泥濘(ぬかるみ)に変えつつあるのが見えた。


「あら、大変。……行って止めてくる?」


「うーん……」


農夫はあくびを噛み殺し、少しだけ考えた後、窓を閉めた。


「いや、いいだろ。暗い中行って、足を滑らせても危ないしな。それに、下手に俺たちが触って配管を壊しちまったら、それこそ大事(おおごと)だ」

「それもそうね。アシュラン様かカイン様に見てもらわないと」

「ああ。どうせ朝になれば見回りが来る。それから報告すれば、アシュラン様が魔法みたいな道具であっという間に直してくれるさ」


夫婦は顔を見合わせ、頷き合った。


「じゃあ、寝るか」


「ええ。おやすみなさい」


灯りが消える。

水は漏れ続け、土は崩れ続ける。

だが、彼らに焦りはなかった。

この村には「絶対的な解決策」が存在することを知っているからだ。


その安心感が、正常性バイアスという名の麻酔となって、彼らを再び深い眠りへと誘っていった。



翌朝。

俺は、報告を受けて西の農業区画へと向かった。

現場には既に人だかりができているが、悲鳴や怒号はない。

むしろ、「やれやれ、困ったものだ」といった程度の、どこか他人事のような空気が漂っていた。


「おはようございます、アシュラン様! 朝早くからすみません!」


畑の持ち主である農夫が、俺の姿を見るなり帽子を取って駆け寄ってくる。

俺は軽く手を挙げ、陥没した穴を覗き込んだ。


「……なるほど。配管のジョイント部分の劣化か。そこから漏水して、地下の土砂を流出させたんだな」


状況は一目瞭然だった。

物理的な現象としては単純だ。水流による洗掘(せんくつ)作用。

俺は隣に控えていたカインに視線を送った。


「カイン、原因は?」

「はい、マスター。私の計算ミスではありませんが……おそらく、先日設置した『黒皇石(こくおうせき)』の石碑を運搬した際、大型馬車がこの近くを通りました。その振動で、古い配管に予期せぬ応力がかかったものと推測されます」


カインが眼鏡を光らせながら冷静に分析する。

構造的な欠陥ではない。突発的な外部要因による事故だ。


「怪我人は?」

俺が尋ねると、エレノアが一歩前に出た。彼女はすでに、農夫の家族や近隣住民への聞き取りを終えていた。


「おりませんわ、師匠。作物が少しダメになってしまいましたけれど、人的被害はゼロです。皆様、驚いてはいますが、落ち着いていらっしゃいます」

「そうか。ならいい」


俺は袖をまくり、カインに指示を出した。

「カイン、土魔法で地盤の固化を。俺は配管を交換する。……エレノア、周辺の土壌が過湿状態だ。根腐れを防ぐために、余分な水分を吸い上げてくれ」


「はい。マスター」


「師匠、お任せくださいまし!」


作業は、ものの十分で終わった。

俺が予備の樹脂製パイプに取り替え、カインが地盤を鋼のように固め、エレノアが聖魔法で土壌バランスを整える。

陥没した穴は綺麗に埋まり、何事もなかったかのように平らな地面が戻った。


「おお……! さすがアシュラン様だ!」


「あっという間に元通りだぞ!」


周囲で見守っていた村人たちから、拍手と歓声が上がる。

それは純粋な称賛であり、感謝の念に満ちていた。

俺は額の汗を拭い、農夫に向き直った。


「直ったぞ。念のため、数日はここには立ち入らないでくれ。地盤が安定するまで多少は時間がかかる」


「へい! ありがとうございます、アシュラン様! いやあ、助かりました!」


農夫は何度も頭を下げ、それから安堵したように笑って言った。


「昨日の夜に見つけた時はどうしようかと思ったんですが、やっぱり待ってて正解でしたよ。俺なんかが下手にいじって悪化させるより、アシュラン様にお任せするのが一番確実ですからね!」


その言葉を聞いた瞬間。

俺の心臓が、ドクリと嫌な音を立てた。


「……昨日の夜?」


俺は動きを止めた。


「昨日の夜、気づいていたのか?」


「ええ。トイレに起きたら、水音がしたんで。でも真っ暗だし、素人が手を出してもろくなことにならないと思って、寝たんですよ」


農夫は悪びれもせず、むしろ自分の判断を誇るように胸を張った。


「結果、大正解でした!やっぱり俺の判断は間違ってなかった。俺が直そうとしたら、きっと泥だらけになっただけで、配管をさらに割ってたかもしれません。いやあ、やっぱり餅は餅屋、トラブルはアシュラン様ですね!」


周囲の村人たちも、口々に同意する。


「全くだ」

「賢い判断だ」

「俺でもそうするさ」


俺は、笑っている彼らの顔を呆然と見渡した。


彼らは正しい。

合理的だ。


素人が夜間に作業するリスクと、俺が朝になってから作業する確実性を天秤にかけ、後者を選んだ。

経済的にも、効率的にも、彼らの判断は「正解」だ。


だが。

俺の背筋には、冷たい汗が伝っていた。


(……待て。昨日の夜、気づいていて放置しただと?)


もし、これが単なる水漏れじゃなかったら?

もし、火事だったら?

もし、防壁の一部が崩れかけていたら?

もし今夜、別の場所で同じことが起きたら。彼らはまた、同じ判断をするだろう。


彼らは、「アシュラン様が直してくれるから」という理由で、俺が寝ていようが、風呂に入っていようが、トイレにいようが、朝一番で俺を叩き起こして現場に連れてくるつもりなのか?


(……その発想は、危険だ)


俺は、自分の手を見つめた。

泥に汚れた手。

俺はこの手で、彼らを守るためのシステムを作った。

だが、そのシステムは今、俺自身を縛り付ける鎖になろうとしているのではないか。


「餅は餅屋」と言えば聞こえはいい。

だが構造として見れば、「面倒ごとは俺に集約される」方向へ流れているだけだ。


「マスター? どうされました?」

カインが不思議そうに顔を覗き込んでくる。


「……いや、何でもない」


俺は首を振り、農夫に努めて穏やかな声で言った。

「……正しい判断だ。怪我がなくてよかったよ」


「へへっ、ありがとうございます!」


農夫は満面の笑みで答えた。

その笑顔には、一点の曇りもない。

完全なる善意。

そして、それゆえの「完全なる依存」。


修理は完璧に完了した。

被害は最小限。

村人たちは満足し、日常へと戻っていく。

だが、俺の胸には、将来への重たい不安が残ったままだった。



その日の夕方。

俺は定例報告のため、ギード村長の家を訪れていた。


「……ふむ。水漏れか。新しい区画では、まあ、よくあることじゃな。怪我人がなくて何よりじゃった」


そう言って、ギードは安心しきった笑みを浮かべた。


「……あんたがいれば、この村は安泰じゃ」


ギードは報告書に目を通し、満足げに頷いた。

彼にとっても、今回の件は「ボヤ騒ぎですらなかった些事」という認識だ。

迅速な対応、被害の極小化。行政の長として、これを問題視する理由はない。


「配管の予備はまだあるか?」


「ええ、十分に。カインに振動対策の補強も指示しました」


「うむ。なら安心じゃ。……アシュラン、あんたがいれば、この村は安泰じゃのう」


ギードは心からの信頼を込めて笑った。

その笑顔は、朝の農夫のものと同じだった。


俺は、何も言わずに頷いた。

否定はしない。

だが、俺の内心では、強烈な警報が鳴り響いていた。


(……違う。安泰なんかじゃない。安泰なのは『村人たち』であって、俺の『スローライフ』じゃない!)


俺は帰り道、一人で村の通りを歩きながら思考を巡らせた。


この村のシステムには、致命的な欠陥がある。

それは「俺への負担集中」だ。


すべてのトラブルシューティングが、「俺とカイン、エレノア」という特定のリソースに依存している。

俺が行けば解決する。だから、誰も解決しようとしない。

俺という「万能の便利屋」が存在することが、逆に現場の対応力を殺しているのだ。


今はいい。

俺が元気で、村にいて、トラブルが一つずつ起きているうちは。


だが、もし俺が「今日は一日中寝ていたい」と思った日はどうなる?

もし俺が「新作の魔道具の開発に没頭したい」と思った時に、下水が詰まったら?


俺は昼寝を中断し、開発を投げ出し、泥まみれになって排水溝を掃除しなければならないのか?

そんなものは、俺が求めた「スローライフ」ではない。


俺が求めたのは、俺自身が楽をするためのシステムであって、俺が死ぬまで村のために働き続ける「ブラック企業」ではないはずだ。


「アシュラン様、こんばんは!」


「今朝はありがとうございました!」


通り過ぎる村人たちが、俺に気づいて笑顔で挨拶をしてくる。

彼らは善良だ。

彼らは俺を信じている。

だからこそ、タチが悪い。善意の依頼ほど、断りにくいものはないからだ。


このままでは、俺は彼らの「守護神」という名の「高機能な奴隷」になってしまう。


「……守るだけじゃ、ダメだ」


俺は呟いた。

ただ便利な道具を与え、ただ問題を解決してやるだけでは、彼らは永遠に自立しない。そして俺は永遠に休めない。


彼らに必要なのは、安寧ではない。

「自分たちで何とかしないと不便になる」という、適度なストレスと、俺の手を煩わせない技術力だ。


俺は夜空を見上げた。

満天の星空。

物理法則は、いつだって冷徹だ。

エネルギー保存の法則。俺が楽をするためには、その分の負荷をどこかへ流さないと。


「……カイン、エレノア。明日から少し忙しくなるぞ」


俺は誰にともなく呟いた。


「次は、俺が“働かない前提”で設計し直す。俺がいない時間も、この村が回るように」


俺は拳を握りしめた。

この村を、本当の意味で「完成」させるために。

俺という柱が昼寝をしていてもビクともしない、自律した構造体へと作り変えるために。


それは、村のためであり、何よりも俺の快適な睡眠時間を守るための、一大改革の始まりだった。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

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