幕間3-3:快適さと代償
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夜が更け、二つの月が中天に差し掛かる頃。ウルム村は深い静寂に包まれていた。
かつては魔獣の遠吠えに怯え、あるいは明日への不安で眠れぬ夜を過ごしていた村人たちも、今は高い防壁と、適切な室温に守られ、泥のように眠っていることだろう。
そんな中、俺は一人、村の正門前に立っていた。目の前には、朝霧の中にぬらりと黒く光る巨石――「黒皇石」の石碑が鎮座している。 帝国皇帝ヴァレリアン・フォン・アドラーが置いていった、不可侵の証。 月光を反射することなく吸い込むその黒さは、物理的な質量以上の重みを持って、この村の入り口を塞いでいるように見えた。
「……王、か」
俺は、皇帝が去り際に俺の耳元で囁いた言葉を反芻し、小さく息を吐いた。
『そなたは今日、自由を得たのではない。楽園を守るために、世界という盤面の“王”になることを、自ら選んだのだ』
まったく、政治家や覇王という人種は、どうしてこうも物事を大袈裟に、そして文学的に表現したがるのだろうか。
俺は首を振り、石碑の冷たい表面に手を触れた。
ひんやりとした感触。比熱の高い石材だ。熱しにくく冷めにくい。まるで、一度動き出したら止まらない、歴史という慣性のようだ。
俺は、この世界に来てからの日々を思い返した。
始まりは、単なる逃避だった。
王都の学園を追放され、実家からも見放され、辿り着いた最果ての地。
そこで俺が欲したのは、権力でも名誉でもなく、ただ「雨風をしのげる屋根」と「暖かい食事」、そして「誰にも邪魔されない安眠」だけだった。
そのために、俺は前世の知識と物理学を総動員した。
隙間風が入るなら、断熱材を作ればいい。
魔獣が来るなら、運動エネルギーを無力化する壁を作ればいい。
食事が不味いなら、土壌のpHを調整し、タンパク質と糖度の合成効率を上げればいい。
行動原理は常に「エントロピーの減少」であり、そのための手段が「物理学」だった。 だがどうだ……、その結果が、これだ。
俺は眠る村を見渡した。
整然と区画整理された石畳の道。
完全な上下水道システム。
高炉の火が消えることのない製鉄所。
そして、大陸最強の二大国が手出しできない、政治的な特異点。
「……やりすぎた、か?」
自問する。ただ昼寝がしたかっただけなのに、気づけば俺は、要塞都市の設計者になっていた。
物理学には「作用・反作用の法則」がある。 俺が「快適さ」という巨大な作用をこの土地に加えた結果、世界は「干渉」という反作用で押し返そうとした。 それを防ぐために、俺はさらに強力な「相互不可干渉協定」という力を加えた。 力が釣り合った状態で、物体は静止する。 今のこの静寂は、平和という名の「力の均衡状態」に過ぎない。
「……面倒なことになった」
俺は頭を掻いた。
均衡を保つためには、常にエネルギーを注ぎ続けなければならない。
壁のメンテナンス、インフラの維持、そして増え続ける人口と、それに伴う複雑な人間関係の管理。
それは、俺が最も忌避していた「労働」そのものではないか。
「俺は、彼らを守ったのか? それとも、俺の実験場に縛り付けたのか?」
ふと、そんな疑問が脳裏をよぎる。
快適すぎる環境は、生物から適応能力を奪う。
俺が与えた「楽園」は、村人たちから考える必要すら奪ってしまうのではないか。
それは、俺の美学――自然法則への理解と調和――に反するのではないか。
だが、その問いはすぐに否定された。
脳裏に浮かんだのは、昨晩のギード村長の顔だ。
『わしらは、あんたに守られるだけの羊じゃあない。』
『選ばされた自由なんぞ、御免じゃ。この村は、“選んだ自由”で行く』
あの親父さんは、震える手で酒瓶を握り締めながら、俺からハンドルを奪い返した。
その時、俺は理解したのだ。
ここは俺の実験場ではない。
そして彼らは、俺の被検体でもない。
彼らは「変数」だ。 俺が用意した環境という定数の中で、自らの意志で動き、予測不可能な解を導き出す、自由意志を持った変数だ。
「……そうか。俺は縛ったわけじゃない。選択肢を提示しただけだ」
過酷な自然の中で野垂れ死ぬか。
王国の搾取に耐えながら生きるか。
あるいは、物理学という新たな理の上で、自らの足で立つか。
彼らは選んだ。 俺の提示した「快適さ」を享受しつつも、それに溺れることなく、自らの意思でここに住むことを。 ならば、設計者である俺の役割は一つしかない。
俺は再び石碑に向き直り、その向こうに広がる闇を見据えた。
エントロピーは、放置すれば増大する。 秩序あるものは崩れ、熱は拡散し、形あるものは無へと帰す。 それが宇宙の絶対的な法則だ。 だからこそ、この「快適な楽園の低エントロピー状態」を維持するには、外部からエネルギーを供給し、システムを常に最適化し続ける「管理者」が必要になる。
ギード村長は、精神的な支柱として責任を負った。
ならば俺は、物理的な支柱として、このシステムを回し続けなければならない。
「……悪くない」
俺はニヤリと笑った。
王になどなるつもりはない。
英雄になど興味はない。
だが、「最高に効率的なシステムの管理者」という響きは、元研究者の心をくすぐるものがある。
これから、この村にはさらに多くの人が集まるだろう。
商人、職人、あるいは俺たちの技術を狙うスパイや、新たな政治的圧力。
それらが持ち込む「熱」は、村の秩序を乱そうとするはずだ。
「上等だ。降りかかる火の粉も、増大するエントロピーも、すべて物理ですべてねじ伏せてやる」
快適な昼寝を守るためなら、俺は世界一の悪魔にだってなってやる。 それが、この地で生きると決めた、追放物理学者の流儀だ。
夜風が吹き抜け、俺の髪を揺らす。
心地よい風だ。
この風の温度も、湿度も、すべて俺の計算通り。
「……さて、戻るか。明日は上水道の拡張工事の設計図を引かなきゃならない」
俺は石碑に背を向け、村へと歩き出した。
その足取りは軽い。
迷いはもう、消えていた。
快適さを維持するには、冷徹な管理者が必要だ。
そして今、その役割は、他でもない自分に回ってきている。
俺は研究室の灯りを目指して歩いた。
そこには、まだ見ぬ数式と、解決すべき課題が山のように待っているはずだから。
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