幕間3−2:自由と日常
お読みいただき、ありがとうございます。
このたび本作が、
[日間] 異世界転生/転移〔ファンタジー〕ランキング(連載中)163位に入ることができました。
ひとえに、読んでくださった皆さまのおかげです。
本当にありがとうございます。
これからも楽しんでいただけるよう、引き続き執筆していきますので、
どうぞよろしくお願いいたします。
ウルム村の正門前に、巨大な「黒皇石」の石碑が突き立ってから数日が過ぎた。
当初こそ、その威圧的な黒色と、黄金に輝く帝国の紋章に怯えていた村人たちだったが、数日も経てば、人はそれを「あるもの」として受け入れ始める。
今ではもう、その石碑は村の風景の一部として、日常に溶け込み始めていた。
◇
早朝。朝日が昇ると同時に、農夫の男は鍬を担いで畑へと向かう。
彼の歩みは軽い。かつて、王国の重税と魔物の恐怖に怯えていた頃の、鉛を引きずるような足取りとは大違いだ。
彼は正門を出る時、チラリと横目で例の石碑を見た。
学のない彼には、そこに彫り込まれた格調高い帝国の文字は読めない。
「……まあ、魔除けみたいなもんだろ」
男は鼻を鳴らし、それ以上気にかけることなく通り過ぎた。
彼にとって重要なのは、石碑の意味ではない。
石碑が立ってからというもの、街道をうろついていた柄の悪い傭兵崩れや、因縁をつけて作物を奪おうとする小役人たちが、まるで蜘蛛の子を散らすように消え失せたという「事実」だけだ。
畑に着くと、彼は土を掬い上げた。
アシュラン様が考案した配合肥料と、カイン様が整備した水路のおかげで、土は黒々と肥え、適度な湿り気を帯びている。
「いい土だ。……今年は、麦も野菜も去年の倍はいくな」
男はニヤリと笑い、鍬を振り下ろした。
帝国の属国か、独立領か。そんな難しい理屈は、作物の味を変えはしない。
明日、畑が踏み荒らされないとわかっている。それだけで、鍬を振るう腕には力が漲るのだった。
◇
昼下がり。村の広場では、子供たちの歓声が響いていた。
「おにー! こっちこっちー!」
「まてー!」
子供たちが走り回っているのは、なんとあの恐ろしい石碑の周りだった。
大人たちが「触るなよ、絶対に傷つけるなよ」と口を酸っぱくして言っているため、直接触れることはしない。だが、その巨大な影は、格好の隠れ場所であり、鬼ごっこの安全地帯になっていた。
その様子を、井戸端で洗濯をしていた母親たちが眺めている。
「まあ、あの子たちったら……。バチが当たらないといいけど」
「平気よ。アシュラン様が言ってたもの。『あれはただの石だ。拝む必要はないが、便利に使えばいい』って」
「ふふ、あの方らしいわね」
母親たちの手は、冷たい井戸水に浸っていても止まらない。 かつて、この村の母親たちは、常に子供を自分の背中に隠していた。いつ人攫いが来るか、いつ魔獣が壁を越えるか、恐怖で片時も目を離せなかったからだ。
だが今は違う。
彼女たちは、子供から目を離して、こうして世間話に花を咲かせることができる。子供が外で泥だらけになって遊び、夕方には腹を空かせて帰ってくる。
その「当たり前」が守られるなら、門前にあるのが王国の旗だろうが、帝国の石碑だろうが、彼女たちにとっては些末な問題だった。
平和とは、彼女たちにとって思想ではなかった。夜、子供が何事もなく眠りにつく――それだけが、確かな正解だった。
◆
夕刻。村唯一の宿屋兼酒場『赤煉瓦亭』は、かつてない活気に包まれていた。カウンターには、馴染みの村人たちに混じって、旅装を解いたばかりの行商人の姿がある。
彼は、王国と帝国の国境付近を行き来するベテランの商人だ。だが、その顔には隠せない緊張の色があった。
「……おい、親父さん。本当に大丈夫なのか? 表のあれ、本物の『勅定不可侵碑』だぞ。俺は初めて見た」
商人は、ジョッキを握る手を震わせながら、宿の主人に問いかけた。
「あんなものが置いてある村に泊まって、俺は王国軍にスパイ扱いされないか? それとも、夜中に帝国兵が乗り込んでくるんじゃあるまいな?」
宿の主人は、肉厚な干し肉を炙りながら、豪快に笑い飛ばした。
「はっはっは! 心配性だな、アンタも。見ただろ? 村の中には帝国兵なんざ一人もいやしねぇよ」
「だ、だが……」
「それに、スパイ扱いが怖いなら、他所へ行きな。……もっとも、ここより北の街道じゃ、野盗が出るらしいがな」
商人は言葉に詰まった。
確かに、ここへ来るまでの道中、他の宿場町は荒れていた。治安は悪化し、物価は乱高下している。
それに比べて、この村はどうだ。
道は石畳で舗装され、馬車の車輪が泥に取られることはない。
出された食事は、信じられないほど美味く、酒はよく冷えている。
そして何より、部屋の窓ガラスは曇り一つなく、清潔なシーツからは太陽の匂いがする。
「……ちっ。商売人にとっちゃ、安全と快適さが一番の商品か」
商人は観念したようにジョッキを煽った。
「わかったよ。ここに泊まる。……これだけ良い環境だ。帝国の威光だろうが何だろうが、利用できるもんは利用しなきゃ損だな」
「おうよ。それがこの村の流儀だ」
主人はニカっと笑い、おかわりを注いだ。
◇
夜。防壁の上で見回りをしていた元傭兵の男が、交代の時間になって詰所に戻ってきた。
そこには、非番の男たちが集まり、サイコロ遊びに興じていた。
「おう、異常なしだ。……というか、静かすぎてあくびが出るぜ」
男が武器を置くと、仲間の一人が笑いながら言った。
「そりゃそうだ。あの石碑を見て、喧嘩を売ってくる馬鹿はいねぇよ」
場の空気が、少しだけ真面目なものに変わる。
彼らは元々、食い詰めてこの村に流れ着いた荒くれ者たちだ。力こそが正義、生き残った者が勝者という過酷な世界を生きてきた。
そんな彼らだからこそ、今回の「政治的決着」の意味を、肌感覚で理解していた。
「……なあ。結局、俺たちはどっちについたんだ?」
新入りの若者が、不安そうに尋ねた。
「帝国か? それとも、まだ王国の民なのか?」
古株の男が、サイコロを振りながら答えた。
「どっちでもねぇよ」
「え?」
「ギードの旦那が言ってたぜ。『俺たちは、ここで生きる』ってな。それ以上でも以下でもねぇ」
その言葉に、周りの男たちが深く頷く。
彼らは知っている。
アシュランという天才が、とんでもない魔法(物理)を使って皇帝と渡り合ったことを。
そして、ギードという親父が、震える足を踏ん張って、村の舵取りを引き受けたことを。
「難しい話は、偉いさんたちの仕事だ。俺たちの仕事は、壁を守って、畑を耕して、美味い飯を食って寝る。……そのために剣が必要なら抜くし、石碑が必要なら拝む。それだけだろ」
「……違いねぇな」
若者の顔から不安が消える。
彼らは、自分たちが「政治的に利用されている」などとは微塵も思っていない。
むしろ、逆に思っていた。
皇帝の威光も、アシュランの知恵も、自分たちが「人間らしく生きる」ために利用してやっているのだと。
そのしたたかさが、この辺境で生きる者たちの根底にある強さだった。
◇
夜が更けていく。
家々の窓から漏れていた灯りが、一つ、また一つと消えていく。それは、明日への活力を養うための、安らかな眠りの合図だ。
彼らは知らなかった。
アシュランが皇帝と交わした密約の詳細も、この村が世界にとってどれほど特異な存在になったかも。詳細な条文など、誰も読んでいないし、理解もしていない。
だが、彼らは「強制」されてはいなかった。誰かに命じられてここに住んでいるわけではない。不満があれば出ていけばいい。だが、誰も出ていこうとはしなかった。
この村の水は甘い。この村の壁は高い。そして、この村の長たちは、自分たちのために頭を下げ、汗を流してくれる。
だから、彼らは選んだのだ。言葉による署名ではなく、日々の営みという確固たる実証をもって。
この「ウルム村」という、奇妙で、最高に快適な場所で生きていくことを。
静寂の中、誰かの寝息が聞こえる。
それは、どんな高尚な演説よりも雄弁に、この村の「意思」を物語っていた。
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