第45話:皇帝と完璧な温度
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じりじりと肌を焼くような夏の日差しは、エルディナ王国の東端に位置するウルム村にも容唆なく降り注いでいた。だが、その街道を進む一団には、真夏特有の焦燥が欠けていた。
リヒテンブール公爵家の五百の私兵を退けた「鉄壁の楽園」――ウルム村。そこに現れたのは、豪華な馬車も、はためく旗印も、耳をつんざくような先触れの喇叭もない。大帝国を統べる皇帝の行幸としては、あまりにも簡素……。いや、無防備と言えるほどに質素な馬車が、わずか数名の同行者に守られて一台、静かに進んでくる。
帝国の『黒鴉』ベアトリクスが手綱を引き、静かに村の正門へと入っていく。
馬車の中から外を眺めていた男――帝国皇帝ヴァレリアン・フォン・アドラーは、その鋭い眼光を一度も弛めることはなかった。
村の入り口にある防壁、そして要所に配置された弩砲の影。それらが「威嚇」ではなく、もっと冷徹な「計算」に基づいて配置されていることを、戦場を統べる覇王の勘が告げている。
(この距離感。……意図して、あえて隙を見せているのか。それとも、この程度は脅威ではないという自負か。歓迎の意など微塵も感じぬが、無意味な衝突を避ける理知だけは感じる)
ヴァレリアンは薄く笑みを浮かべた。帝国一個師団に匹敵すると報告された防衛能力。それを、この目で見極める時が来たのだ。
馬車が止まったのは、村の中央に建つ石造りの建物だった。迎賓館と呼ぶには簡素だが、その佇まいはどこか異質。継ぎ目のない石材の加工には、精密な魔力操作の痕跡が色濃く残っている。
「陛下、こちらへ」
そう言って、カインが案内する。
ヴァレリアンは無言で頷き、建物の中へと足を踏み入れた。
その瞬間, ヴァレリアンの思考が止まった。
(……妙だ)
一歩、中へ入っただけだ。
外は、肌を焼くような夏の熱気と、土埃が舞う乾いた風に満ちていた。当然、皇帝の正装に近い装束を纏うヴァレリアンは、外套を脱いでいない。本来なら、不快な汗が背中を流れるはずの状況だ。
それなのに。
息が、驚くほど楽だった。
暑くない。だが、寒くもない。肌に触れる空気は、まるで春の朝の陽光のように穏やかで、一定の湿度を保っている。
ヴァレリアンの視線が鋭く室内を走る。
(魔法か? ……いや、魔力の揺らぎがない)
氷の精霊石による冷気魔法であれば、特有の冷え込みや、精霊特有の魔力臭がする。風魔法であれば、もっと不自然な気流が起こるはずだ。 だが、ここにはそのいずれもない。魔法陣の一つも見当たらず、窓も閉ざされている。それなのに、室温は完璧なまでに「快適」に制御されていた。
(理屈が見えん。だが、害も感じぬ。空気そのものが、意志を持つかのようだ)
理解しようとしてそれができない。しかし、ヴァレリアンは無意識のうちに肩の力を抜いていた。 この男は、戦場でも、宮廷の陰謀の中でも、一瞬たりとも気を休めたことがない。そんな男が、久しく忘れていた余白に触れた。
気づかぬうちに、深い呼吸が漏れる。
(これは心を許したのではない。……ただ理性が「この場に敵意はない」と断じ、状況を冷静に分析した結果だ)
この空間、この温度、このもてなし。
これらは「敵意を持つ者の創り」ではない。だが同時に、決して「へりくだる者の創り」でもない。
ただ、そこに「快適さ」という絶対的な理があるだけだ。
ヴァレリアンは視線をアシュランに向けた。その目は、帝国を背負う“皇帝の顔”へと戻っていた。
(技術か、思想か、それとも生き方か。……いずれにせよ、この男は、もはや一村の住人という枠に収まる存在ではない。国家案件だ。野放しにするには惜しく、敵に回すには不気味すぎる)
静寂が部屋を支配する。
先ほどまでの心地よい温度が、今は一転して、肌を刺すような緊張の媒介となったかのようだった。
「……アシュランと言ったな」
ヴァレリアンは、ゆっくりと立ち上がった。
その動きに、先ほどまでの刺々しい緊張感はなかった。代わりに、山が動くような、抗いがたい重圧が室内に満る。
「余は、そなたに一つだけ聞きに来た。数多の報告や物証よりも、この肌で感じたかったのだ」
皇帝の声は穏やかだった。だが、ベアトリクスの手は無意識に剣の柄にかかり、カインは冷や汗を流して固唾を呑んでいる。
王国の追放者。魔力なしの物理学者。だが、皇帝はその瞳に、かつての賢者にも聖女にも見出せなかった「底知れぬ深淵」を見ていた。
「帝国に来る気はないか。そなたの望むだけの予算、人員、そしてこの『快適さ』を大陸中に広げるための権限を与えよう。そなたの『理』で、余の帝国を塗り替えてみせよ」
破格、という言葉ですら生ぬるい、世界最大の国家からの全権委任。
誰もが、アシュランが皇帝に対し言葉に詰まるか、あるいは歓喜のあまり跪くことを予想した。
だが、短い沈黙の後。
「……お断りします、陛下」
アシュランは、申し訳なさそうに、しかし迷いなく言った。
「帝国へ行けば、成すべき仕事が増えます。そうなれば、私の昼寝の時間が削られる。……それは、困ります」
一瞬、室内の空気が物理的に凍りついたかのような錯覚が走った。
「なっ、な……マスター!今のは、その、国家間の均衡を保つための高度な比喩ですよね!?そうですよね!?」
カインがガタガタと椅子を鳴らして立ち上がり、噴き出した脂汗を拭う余裕もなくアシュランに詰め寄ろうとする。眼鏡の奥の瞳は驚愕で痙攣し、これ以上ないほど見開かれていた。
「……さすがです、師匠。皇帝陛下のお誘いでさえ、師匠にとっては“昼寝の快適さ”には及ばないのですね」
方やエレノアは、どこか誇らしげに胸を張り、まるで自分のことのように、師の選択を肯定する表情を浮かべていた。
誘いを一蹴された当の本尊――皇帝ヴァレリアンは、金縛りにあったようにアシュランを凝視していた。
数秒、いや十数秒。
大陸最高の権力者として、かつて経験したことのない「理解不能」という事態に直面し、その端正な顔が呆然と緩んでいく。
だが、次の瞬間、ヴァレリアンは一瞬だけ目を伏せ、そして、喉の奥で低く笑った。
「……なるほど。そういう男か」
ヴァレリアンは喉を震わせ、膝を叩いて笑い始めた。その瞳からは先ほどまでの鋭い覇光が消え、純粋な驚きと、抗いがたい愉快さが溢れ出している。
こうして、帝国皇帝と一人の追放者の交渉は、ありえない形で幕を開けたのである。
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