第39話:敗走の果てと王国の決断
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ウルム村からの敗走は、惨めという言葉すら生ぬるい、悪夢そのものだった。
アルベール・ド・リヒテンブールが率いた五百の私兵団は、もはや軍としての体裁を失い、ただの烏合の衆となって西へ西へと逃げ惑っていた。
「くそっ! 話が違うじゃねえか!」
隊列の後方で、金で雇われた傭兵の一人が、泥まみれの顔で悪態をついた。
「ただの追放者の村だって言っただろうが! なんだ、あの化け物どもは! 鉄の矢が雨みたいに降ってきて、見たこともねえゴーレムまでいやがった!」
「ああ、俺たちの魔法も、全部壁に吸い込まれちまった。まるで、赤子の手を捻るように……」
兵士たちの間に、不満と恐怖が伝染していく。彼らは、手柄を立てるどころか、命からがら逃げ出してきたのだ。その怒りの矛先は、当然、この無謀な作戦を指揮した男へと向けられた。
「おい! リヒテンブール公! いったい、どういうことだ! 説明してもらおうか!」
傭兵隊長が、馬上でふんぞり返るアルベールの前に立ちふさがる。その目には、もはや雇い主への敬意など欠片もなかった。
だが、アルベールは、その非難の視線を、狂気に満ちた瞳で睨み返した。その顔は、屈辱と憎悪に醜く歪んでいる。
「黙れ、下賤の輩が! 全ては、貴様らが不甲斐ないせいだ! 我が完璧な作戦を、貴様らの無能が台無しにしたのだろうが!」
プライドだけは、天よりも高い。彼は、自らの敗北を認めることができず、その責任を全て、部下たちに押し付けようとしていた。
そのあまりにも理不尽な言葉に、傭兵たちの怒りが沸点に達する。一触即発の空気が、敗残兵たちの間に漂った。
「……おやめください、アルベール様」
その険悪な空気を断ち切ったのは、リュシアンの、静かで、しかし有無を言わせぬ声だった。
「今は、内輪で争っている場合ではありますまい。一刻も早く、王都へ帰還し、体勢を立て直すべきです」
リュシアンは、冷静にそう告げながらも、内心では深いため息をついていた。
(……やはり、こうなるか。いや、これほどの惨敗は、私の想像すら超えていた。アルベール様、貴方の傲慢が、全てを破滅へと導いたのだ……)
◇
数日後。
敗戦の報告は、すでに王宮にも届いていた。
アルベールに下されたのは、即座の叱責ではなく、意外にも「王宮会議への出頭命令」だった。
(……ふん。ようやく、あの老いぼれどもも目が覚めたか)
アルベールは、歪んだ笑みを浮かべた。彼は、これを好機だと捉えていた。
今回の敗北は、兵の質と数が足りなかっただけだ。今度こそ、国王陛下に直訴し、王国の正規軍を率いる許可を得る。そして、あの忌々しい村を、アシュランを、この手で完全に消し去ってくれる。
彼は、そんな甘い夢想を抱きながら、久しぶりに上等な礼服へと袖を通し、王宮へと向かった。
だが、彼が通された大会議室の空気は、彼の想像とは全く違う、氷のように冷たいものだった。
玉座には国王アンリ四世。
その周りには、宰相、軍部の元帥、そして、魔術院のオリヴィエをはじめとする、前回の会議にも出席していた重鎮たちが、まるで汚物を見るかのような冷徹な目で彼を見つめていた。
アルベールが部屋の中央まで進み出た、その時だった。宰相ラザールが、ゆっくりと立ち上がった。
「アルベール・ド・リヒテンブール」
宰相は、抑揚のない、しかし部屋の隅々まで響き渡る声で、彼の名を呼んだ。
「其方は、この王国に対し、許されざる大罪を犯した」
「なっ! なにを……宰相閣下、何かの間違いでは!? 私は、王国のために、あの異端者アシュランを討伐しようと……!」
アルベールは狼狽し、見苦しい言い訳を口にする。だが、宰相は、その言葉を冷たい一言で遮った。
「黙れ」
そして、宰相はアルベールを無視するかのように、手にした羊皮紙を広げ、罪状を読み上げ始めた。
「一つ、越権行為。其方は、王宮会議の決定を無視し、独断で私兵を編成。王国の民である兵士たちを、自らの私利私欲のために死地へ向かわせた」
「一つ、利敵行為。其方は、敵対国である帝国の聖女と賢者に対し、明確な敵意をもって攻撃を仕掛けた。これは、帝国に開戦の口実を与える、極めて危険な行為である」
「そして、国家への背信行為。その無謀な行いによって、王国は多くの兵を無力化され、貴重な武具を失い、その権威を著しく失墜させた。王国に与えた損害は、計り知れない」
次々と読み上げられる罪状に、アルベールの顔から、血の気が引いていく。
「……以上を以て、アルベール・ド・リヒテンブールより、公爵家の継承権及び爵位を剥奪。全私財を没収の上、国家反逆罪として死罪を申し渡す!」
「し……死罪……!?」
アルベールの口から、悲痛な叫びが漏れた。
「ま、待ってくれ! 何かの間違いだ! 私は、王国のために……! あの異端者アシュランを、討伐しようと……!」
彼は、見苦しく叫び、助けを求めるように、周りの重鎮たちを見回した。だが、その目に宿るのは、軽蔑と、冷笑だけだった。
誰も、彼を庇おうとはしない。彼は、トカゲの尻尾として切り捨てられたのだ。
「連れて行け」
国王の、冷たい一言が、彼の運命を決定づけた。
屈強な衛兵たちが、アルベールの両腕を掴む。
「離せ! 私は、リヒテンブール公爵家の嫡男だぞ! こんなことが、許されるものか! 間違いだ! 夢だ! これは、悪夢だ! 父上を! 父上を呼べ! 父上は公爵だぞ! 王廷の子孫だぞ!」
衛兵たちは終始無言で、表情一つ変えずに彼を引きずっていった。その冷徹な職務遂行ぶりは、アルベールの喚き声をより一層惨めなものにしていた。
彼の無様な絶叫は、重い扉が閉ざされると共に、会議室から完全に断ち切られた。
◇
アルベールが連れ去られた後、会議室には、さらに重苦しい沈黙が満ちていた。
誰もが、頭を悩ませていた。アルベールという厄介者を排除はしたが、彼が残した負の遺産は、あまりにも大きい。
「……さて、どうしたものかの」
宰相が、疲れたように溜息をついた。その声が、侃々諤々の議論の始まりを告げるゴングとなった。
「決まっている! 再度、軍を発兵させるのだ!」
最初に沈黙を破ったのは、軍部の元帥、ギヨーム・ド・モンフォールだった。彼は、歴戦の傷跡が刻まれた顔を憤怒に歪ませ、テーブルを拳で叩いた。
「アルベールの若造の失態は、奴個人のもの! 我らが王国の正規軍が出向けば、あのような辺境の村、赤子の手を捻るが如し! この屈辱、力をもって雪がねば、諸国への示しがつきませぬぞ!」
その脳筋とも言える主張に、財務大臣である恰幅の良い侯爵が、鼻で笑った。
「元帥殿は、相変わらず血の気が多いことで。軍を動かすのに、どれだけの金がかかるか、ご存知かな? アルベールの道楽のせいで、ただでさえ国庫は痛手を被っている。その穴埋めのために、これ以上我ら商人に重税を課されては、国内の経済が立ち行かなくなる。兵士の誇りも結構だが、民の腹は満たせぬぞ」
「金勘定ばかりか、商人め!」
「戦のことしか頭にない猪武者よりはマシですな!」
睨み合う軍部と貴族。それぞれの既得権益を守ろうとする醜い争いが始まろうとした、その時。
「――お静まりいただきたい」
その場を制したのは、オリヴィエの、氷のように冷たく、しかし芯の通った声だった。
「元帥殿の言う通り、このままでは王国の威信は地に落ちるでしょう。そして、侯爵殿の言う通り、帝国との全面衝突は、国家の破滅を意味する。どちらも、真実です」
皆の視線が、彼に集まる。
「ならば、道は、一つしかありますまい」
オリヴィエは、静かに続けた。
「我々が、先に頭を垂れるのです。この度の非礼を詫び、友好の意思を示すための、正式な使節団を、ウルム村へ派遣する。それも、辺境伯クラスの、相応の地位を持つ者を長として」
その言葉に、会議室は再び騒然となった。
「追放者の元へ、頭を下げろと申すか!」
「帝国に媚を売るつもりか!」
「媚を売るのではありません!」
オリヴィエは、珍しく声を荒げた。
「現実を見るのです! 我々は、アルベールという愚か者のせいで、帝国に『借り』を作ってしまった。この借りを返さぬまま、事を荒立てれば、どうなるか。皇帝ヴァレリアンは、それを口実に、必ずや我らがエルディナ王国に牙を剥くでしょう。そうなれば、全面戦争は避けられない」
彼の言葉は、熱狂していた者たちの頭に、冷や水を浴びせた。
そうだ。問題は、ウルム村ではない。その背後にいる、巨大な帝国の存在だ。
「使節団を送り、我々がアルベールの非を認めることで、まずは帝国との衝突を回避する。そして、その上で、ウルム村と、そこにいる聖女と賢者の真意を探る。それこそが、今、我々が取るべき、唯一の道です」
オリヴィエの、あまりにも正しく、そしてあまりにも屈辱的な提案に、誰もが言葉を失った。
長い、長い沈黙の後。
これまで、全ての議論を黙って聞いていた、玉座の上の存在が、静かに口を開いた。
「――宰相よ。使節団の人選、そちに一任する」
国王アンリ四世。その一言が、この国の運命を決定づけた。
帝国との戦争。その最悪のシナリオを回避するためには、もはや、それしか道は残されていなかったのだ。
こうして、エルディナ王国は――「決断したつもりになった」。
それが、屈辱を飲み込んだ末の最善手なのか。それとも、嵐の前の静けさに過ぎないのか。少なくとも、この時点では、誰にも分からなかった。
……そして翌日。
地下牢に厳重に繋がれていたはずのアルベールが、忽然と姿を消した。
それが、「偶発的な失態」だったのか。それとも、誰かの意思によるものだったのか。
真相を知る者は、まだ、どこにもいなかった。
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※ 王国と帝国の宰相の名前が同じになっていましたm(_ _)m
王国の宰相の名をベルンハルトからラザールへ変更しました。 (2025.02.24)




