幕間2-1:帝国の皇帝と黒き予感
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ヴィンデル帝国、帝都ヴィンデル。
質実剛健を旨とするこの国の象徴、皇帝居城の執務室は、深夜になっても明かりが消えることはなかった。
「……ほう。動いたか」
皇帝ヴァレリアン・フォン・アドラーは、書類の山から顔を上げ、宰相ベルンハルトが差し出した報告書に目を通した。
獲物を見据える猛禽のような瞳が、冷ややかに細められる。
「はい。エルディナ王国に潜伏させている『草』からの急報にございます」
ベルンハルトが、緊張した面持ちで補足する。
「リヒテンブール公爵家嫡男、アルベール。手勢五百を率い、王都を出立。名目は魔獣討伐としておりますが、進路は明白に東、ウルム村へ向かっております」
「五百、か」
ヴァレリアンは鼻を鳴らした。
「私兵団としては最大規模だな。国軍を動かせぬ鬱憤を、私怨で晴らすつもりか。……統治の末期症状だ」
地図の前に立ち、皇帝は小さな点を指でなぞる。
「地図にも載らぬ寒村が、今や聖女と賢者を抱え、独自技術で城塞へと化しつつある。……実に興味深い」
鉄を溶かす炉。
自動で水を汲む絡繰り。
未知の医術。
ベアトリクスからの報告は、皇帝の興味を強く惹きつけていた。
アシュランという男が持つ「物理学」は、この世界の力の均衡を揺るがしかねない。
「陛下。如何なさいますか?」
ベルンハルトが問う。
「アルベールの軍勢が国境付近で事を構えれば、我が国への挑発とも取れましょう。軍を動かし、『保護』を名目に……」
「否」
皇帝は即座に遮った。
「軍は動かさん」
「……御意外にございます」
「考えてもみよ。あの男は国に追われた身だ。権力の鎖を嫌う。余が踏み込めば、知識ごと逃げるやもしれん」
皇帝は目を細めた。
「それに……余は見たい。ウルム村が、どこまで“本物”かを」
「……百人にも満たぬ村ですが」
「聖女と賢者がいる。噂の自動防衛もある。試すには、丁度よい」
ヴァレリアンの口元が、わずかに歪んだ。
「ベアトリクスを呼べ」
「はっ」
影が動く。
無音のまま現れた女は、皇帝の前に跪いた。
帝国諜報部『黒鴉』総隊長、ベアトリクス・フォン・アイゼン。
「お呼びでしょうか、陛下」
「うむ。ベアトリクス、其方に再び任務を与える」
皇帝は、机の上にある盤上遊戯『軍略盤』の駒を指で弾いた。
「直ちにウルム村へ向かえ。アルベールの軍勢が到達する前に潜伏せよ」
「介入は?」
「不要だ」
皇帝の声は、低く、断定的だった。
「静観せよ。村が包囲されようと、攻撃を受けようと、手出しはするな」
「……聖女様が危機に陥った場合も?」
「構わん」
一切の躊躇はない。皇帝は断言した。
「五百に屈するなら、それまでの男だ。帝国が手を伸ばす価値はない」
静まり返る執務室。
それは、あまりにも冷酷な「選別」の宣言だった。
生き残れば交渉のテーブルに着く価値あり。死ねばそれまで。
実力主義を掲げる帝国らしい、極めて合理的な判断。
「だが……」
皇帝の瞳に、暗い光が宿る。
「もし、少数でそれを退けるなら。その時は、余が直々に会おう。一国の主と同等の礼をもってな」
「……御意」
皇帝自らが対話に臨む。その言葉の意味するところの大きさに、ベアトリクスは内心で目を見開いた。 この覇王が、たかが一介の村に対して、対等の立場での交渉を示唆したのだ。 だが、彼女は帝国の諜報部『黒鴉』の長。その心の乱れを、微塵も表に出すことはない。
「……御意」
ベアトリクスは、静かに、しかし力強く応じた。
彼女もまた、ウルム村で見たあの底知れぬ可能性に、密かな期待を抱いていた一人だったのだ。あのアシュランという男なら、あるいは……と。
「行け。歴史が動く瞬間を、その目で見届けよ」
「はっ!」
影が消え、再び静寂が戻る。
皇帝は窓の外、東の空を見上げた。夜空には、不吉な赤い星が瞬いている。
「アシュラン・ド・ランテーム……。余を失望させるなよ」
皇帝の手の中で、軍略盤の駒がカチリと音を立てた。 盤面は整った。 あとは、駒がどう踊るか……それだけだ。
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