第20話:聖女と世界の真理
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アシュランの弟子となってから、聖女エレノアの「勘違い」に満ちた一日は、顔を洗うことから始まった。
「……ふぁ」
エレノアは、元は納戸だったものの、断熱リフォームを済ませて客室として整えた部屋から起き出すと、あくびを噛み殺しながら中庭の水場へと向かった。 そこには、先日完成したばかりの上水道から引かれた、真鍮製の蛇口が設置されている。
彼女は、慣れた手つきでハンドルを回した。
キュッ、ゴボッ。
ザーーーッ!
蛇口から勢いよく吐き出される、クリスタルのように透明な水。 それは、この村の朝の、当たり前の光景であった。 だが、寝ぼけ眼のエレノアは、その冷たい水を手ですくった瞬間、カッと目を見開いた。
「……!」
彼女はバシャバシャと顔を洗うと、滴る水も拭わずに、蛇口と、そこから伸びる地面のパイプを凝視し始めた。
「詠唱なし……魔石の触媒もなし……。なのに、どうしてこれほどの純度の聖水が、尽きることなく溢れ出てくるのですか……!?」
彼女は戦慄していた。 もちろん、帝国でも水を生み出す魔導具は存在する。だが、それは高価な魔石を消費し、熟練の術者が管理してようやく「チョロチョロ」と出る程度の代物だ。 このように、ひねるだけで奔流のごとく水が出るなど、あり得ない。
「おはよう、エレノア。朝から元気だな」
俺が声をかけると、彼女は濡れた顔のまま振り返った。
「師匠! これは『無限聖水』のアーティファクトですか!? この大地の下に眠る水脈と、空間魔法で直結しているとしか思えませんわ!」
「……違う。ただの『サイフォンの原理』と『重力』を利用した水道だ」
「スイ・ドー!なんと重厚な響き!きっと大地の加護が約束された真名ですのね。」
俺は、やれやれと首を振りながら説明を始めた。
「貯水池はここより高い場所にある。水は高いところから低いところへ流れる。そして、管の中が水で満たされていれば、一度下がった水も、元の高さより低い位置なら再び登ってくる。この圧力差を利用して、各家庭に水を配っているんだ」
俺は地面に図を描いて説明した。位置エネルギーと大気圧。単純な物理法則だ。
「そして、この水が綺麗なのは、砂と炭、そして微生物の力で『ろ過』しているからだ。魔法で生み出したわけじゃない」
「ろ過……。不純物を取り除き、純粋なる本質だけを抽出する……。なるほど、空間魔法ではなく、錬金術の極意を応用した『聖水生成システム』というわけですね!」
「いや、だから物理だって……」
「素晴らしいですわ、師匠! 朝一番の洗顔でさえ、これほどの真理に触れられるなんて!」
彼女はキラキラした目で蛇口を拝んでいる。
……ダメだ、通じない。
俺は早々に諦め、朝食の準備に取り掛かることにした。
◇
朝食後。
俺が作業着に着替えていると、エレノアもまた、袖をまくり上げてやる気満々の顔で現れた。
「師匠! 本日は何をいたしますか? どんな下働きでも、喜んでお受けしますわ!」
「そうだな……。今日は溜まった洗濯物を片付けようかと思うんだが」
「お洗濯、ですのね! お任せください!」
彼女は意気揚々と洗濯場である川から引いた水路の横にある洗い場へと向かった。
そこには、作業で汚れた俺や村人たちの服が山積みになっている。
泥汚れ、油汚れ、煤汚れ。なかなかの強敵たちだ。
エレノアは勇敢にも汚れ物に挑んだが、すぐに困り顔になった。
「……落ちませんわ。冷たい水で揉んでも、この油汚れが、ちっとも……」
彼女は高貴な身分だ。本格的な手洗い洗濯などしたことがないのだろう。
ただ水につけて擦るだけでは、繊維の奥に入り込んだ脂汚れは落ちない。
「水だけじゃ無理だ。これを使え」
俺は、棚から一つの木箱を取り出した。
中には、クリーム色をした四角い固形物が並んでいる。
「これは……?」
「『石鹸』だ。王都にも似たようなものはあるが、こいつは俺の特製だ」
「セッケン……?」
彼女が不思議そうに首をかしげるのを見て、俺はニヤリと笑った。
「作り方は単純だが、手間がかかってるぞ。動物の脂と、かまどに残った木灰から取れる灰汁、それに塩を混ぜて反応させるんだ」
俺は石鹸の一つを手に取り、説明した。
「脂と、強いアルカリ性の灰汁を混ぜて加熱すると、『鹸化』という反応が起きる。これによって、脂が『石鹸』と『グリセリン』という成分に変わるんだ。グリセリンは保湿成分だから、肌にも優しい」
「不浄な脂と、燃えカスの灰……。それらが出会い、混ざり合うことで、穢れを落とす『清浄なる石』へと生まれ変わる……」
エレノアは、石鹸をまるで宝石のように掲げ、うっとりと見つめた。
「これはまさに、錬金術の奥義! いいえ、相反する属性を統合し、高位の物質へと昇華させる『聖なる結合』ですわ!」
「まあ、化学反応だな。ただ、こいつを作るには一ヶ月以上じっくり寝かせて熟成させる必要がある。今日使うのは、先月から仕込んでおいたやつだ」
「一ヶ月も……! 時間という概念さえも調合の一部になさるとは……!」
「いや、質は落ちるが王都や帝都にもあるだろう……」
感動する彼女をよそに、俺はもう一つの準備に取り掛かった。
「まぁいい。エレノア。」
「はい。なんですの?師匠」
「……あぁ、これだがな。いくら良い石鹸があっても、この冷たい川の水じゃあ頑固な油汚れは落ちないぞ。」
「なぜですの?」
「油は冷やすと固まるからな」
「では、どうするのですか?」
「熱を使う。こっちだ」
俺は彼女を、洗濯場の隅に設置された奇妙な鉄の箱の前へと案内した。
そこからは太いパイプが伸び、すぐ近くの反射炉の方角へと繋がっている。
「これは、反射炉の排熱を利用した『蒸気ボイラー』だ」
俺が鉄の箱についたバルブをひねると、シューッ! という鋭い音と共に、箱の先端に取り付けられたノズルから、猛烈な勢いで白い蒸気が噴き出した。
「きゃっ!?」
エレノアが驚いて後ずさる。
「こいつは高温の蒸気だ。この熱と圧力で、繊維の奥にこびりついた油汚れを溶かして吹き飛ばす」
俺はノズルを操り、作業着の特に汚れがひどい部分にスチームを当てた。
熱によって油が溶け出し、そこへすかさず石鹸を塗り込んで洗濯板で擦る。
「見てろよ。熱で浮いた汚れを、石鹸の泡が包み込んで……」
ゴシゴシと擦り、お湯ですすぐと、あれほど頑固だった黒いシミが嘘のように消え去っていた。
「……!」
エレノアは絶句していた。
「な、なんという威力……! 熱を持った白き霧が、瞬く間に穢れを浄化していく……!」
彼女の瞳には、俺がただの蒸気を使っているようには見えていないらしい。
「これは……荒ぶる『炎の精霊』の力を水に宿らせ、霧の姿に変えて使役しているのですね!? 物理的な洗浄を超越した、属性融合による強制浄化……!」
「まあ、熱湯と蒸気の力だな」
「凄まじいですわ師匠! やりますわ! このわたくしが、蒸気の聖杖を振るい、全ての穢れを祓ってみせます!」
「あ、あぁ……まぁ、火傷するなよ?」
エレノアは腕まくりをすると、目を輝かせてスチームノズルと洗濯板に向かった。
シュゴーッ! ゴシゴシ!
聖女様が、鬼の形相で服にスチームを噴き付ける。 その勢いは凄まじく、積み上がっていた洗濯物は次々と白さを取り戻していった。
「あら、聖女様? 手際がいいですねえ」
そんな時、近所の主婦たちが集まって来た。
「ええ! 師匠に授かったこの『セッケン』と『スチーム』のおかげですわ! 炎と水の属性融合……これがあれば、どんな穢れも敵ではありません!」
「まあ、アシュラン様が作ったの? すごーい!」
「私にも一つ分けてくれないかい?」
いつの間にか、洗濯場はアシュラン教の信者獲得会場と化していた。
俺はそっとその場を離れ、次の仕事へと向かった。
◇
午後。 洗濯を終えたエレノアは、休む間もなく「次は畑仕事ですわね!」とついてきた。 まだ体力が十分戻ってはいないはずなのに、精神力と勘違いだけで動いている気がする。
「収穫した野菜を倉庫へ運ぶぞ。……っと、エレノア、無理するなよ」
俺が言うより早く、彼女はカゴいっぱいに詰まったカボチャを持ち上げようとして、よろめいた。
「くっ……! こ、これしき……!」
プルプルと腕を震わせる聖女様。
魔法使いはインテリ職だ。肉体労働に向いているわけがない。
「貸してみろ。道具を使う」
俺は納屋から、一台の奇妙な乗り物を引っ張り出した。 大きな一つの車輪と、二本の持ち手、そして荷台がついた手押し車。 通称、「ネコ車」だ。
「これは……?」
「これに荷物を載せるんだ。見てろよ」
俺はカボチャの入ったカゴを三つ、一輪車の荷台に積み上げた。大人の男でも一度に運ぶのは苦労する重さだ。
だが、俺は持ち手を掴み、ひょいと持ち上げる。
「えっ? 師匠、そんな重さをいとも簡単に!?」
「いいから、持ってみろ」
俺は持ち手をエレノアに渡した。
彼女は恐る恐る持ち手を握り、持ち上げる。
「……っ!? か、軽い!?」
彼女は目を見開いた。
ずしりとした重みはあるものの、先ほど手で持とうとした時の絶望的な重さとは比べ物にならない。華奢な彼女の腕でも、十分に支えられる重さだ。
「どうして……!? 荷物は減っていないのに、重さが消えましたわ!?」
「『テコの原理』だ」
俺は車輪を支点、荷台を作用点、そして持ち手を力点とする関係を説明した。
「重たい荷物を車輪の近く、つまり支点に載せ、遠くの持ち手である力点を持ち上げる。こうすることで、小さな力で重いものを支えることができる。さらに、地面との接点は回転する車輪一つだ。摩擦抵抗が極限まで減らされているから、押す力も少なくて済む」
物理学が生み出した、運搬の革命児。それがネコ車だ。
だが、エレノアの解釈は違った。
「テコ……。それは、世界の理を書き換える呪文……!」
彼女はネコ車のハンドルを握りしめ、戦慄した。
「本来そこにあるはずの『質量』を、車輪の一点に封じ込め、持ち手にかかる重力を無効化している……。こ、これは、荷物の質量そのものを消し去る『重力操作』の魔導具ですのね!?」
「いや、消えてない。分散させてるだけだ」
「凄まじいですわ……! これなら、わたくしでも巨人を持ち上げられます!」
エレノアは興奮して、一輪車を押し出した。 ゴロゴロゴロ……。 車輪が回り、重いはずのカボチャたちが軽やかに進んでいく。
「軽いですわ! まるで羽が生えたようですわ!」
「おい、あまりスピードを出すなよ! バランスが……」
「わたくし、風になりましたわーーーっ!!」
忠告も虚しく、聖女様は一輪車を押して畑のあぜ道を爆走し始めた。
純白のローブをなびかせ、カボチャ満載のネコ車を押して疾走する聖女。
シュールすぎる光景に、農作業中のボルグたちが「お、おう、聖女様は元気だなぁ」と生温かい視線を送っている。
「……たく、怪我するなよ」
俺は呆れつつも、その背中を見送った。
彼女の勘違いは相変わらずだが、その労働力と、何より「楽しんでやってくれている」ことには感謝すべきかもしれない。
◇
夕食時。
食卓に着いたエレノアの顔には、泥と煤がついていた。
髪もボサボサで、高貴な聖女の面影はない。だが、その表情は、これまでに見たどの瞬間よりも充実して輝いていた。
「師匠。わたくし、今日一日で多くのことを学びました」
彼女は、俺が栄養学に基づいて作った具だくさんのスープを一口飲み、ほう、と息をついた。
「水も、泡も、そして重ささえも。師匠の魔法は、特別な儀式の中だけでなく、生活の全てに息づいていますわ。人の営みを支え、楽にする……これこそが、真の魔法のあるべき姿なのですね」
彼女の言葉は、方向性はともかく、俺の本質を突いていた。
物理学とは、世界のルールを解き明かし、人の役に立てるための学問だ。
「……まあ、そういうことにしておくよ」
俺は苦笑いしながら、黒パンをかじった。
否定しても無駄だし、彼女が幸せならそれでいい。
「明日は何を教えていただけるのですか? わたくし、楽しみで夜も眠れそうにありません!」
目をキラキラさせるエレノア。
俺は、どっと押し寄せてきた疲労感に肩を落とした。
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