第2話:置き土産と崩壊の予兆
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「さて、荷造りはこんなものか」
王立魔術院の最奥にある狭い研究室で、俺は数少ない私物を鞄に詰め終えた。 貴族の三男坊としての生活も、魔術院の研究員としての身分も、今日で終わりだ。持っていくのは、着替えと数冊の手記、そしてわずかな路銀だけ。
俺は部屋を出る前に、部屋の隅で静かに稼働している「ある装置」に目をやった。 それは、俺が廃材置き場から拾ってきた魔石と銅管を組み合わせて作った、自作の魔導具だ。
「……こいつとも、お別れだな」
俺は装置のスイッチ――魔力回路の接点に手を伸ばした。 この王立魔術院は、王都を守る『絶対防御結界』の維持装置が地下にあるせいで、常に凄まじい排熱に晒されている。夏場ともなれば、石造りの壁が蓄熱し、室温は優に四十度を超える灼熱地獄だ。 魔術師たちは「耐熱の魔法」を自分にかけて凌いでいるが、そんな非効率なことをするよりも、室温そのものを下げた方が遥かに快適だ。
だから俺は、この装置を作った。 原理は単純だ。断熱膨張と熱交換の法則を利用し、排熱を効率よく屋外へ逃がし、冷やされた空気を循環させる。現代地球で言うところのエアコンと換気システムを組み合わせたものだ。 俺はこいつの配管を、こっそりと魔術院全体の通気口に接続していた。おかげで、院内はこの季節でも快適な室温に保たれている。
「俺が『快適に過ごすため』に作ったものだ。俺を追い出す連中に、タダで使わせてやる義理はない」
パチン。
乾いた音と共に、装置の微かな駆動音が止まった。 その瞬間、淀んだ空気が部屋に満ち始めた気がした。熱力学の法則は冷徹だ。強制的な冷却サイクルが止まれば、エントロピーは増大し、熱は均一化しようとする。つまり、この建物は本来あるべき「巨大な石釜」へと戻っていく。
「さようなら、非効率な象牙の塔」
俺は装置の心臓部である魔石を抜き取ると、ポケットに放り込み、振り返ることなく部屋を出た。
魔術院の正門をくぐると、衛兵たちが憐れむような、あるいは嘲るような視線を向けてきた。
「見ろよ、魔力なしのアシュランだ」
「追放されたんだってな。いい気味だ」
彼らの囁き声が聞こえるが、俺の心は驚くほど軽かった。 組織のしがらみ、非論理的な慣習、そして意味のない足の引っ張り合い。それら全てから解放されたのだ。
「さて、まずは停車場へ向かうとするか」
俺は背中に感じる王都の威容を一度だけ振り返り、そして前を向いた。 背後の巨大な建物の中で、今まさに小さな、しかし致命的な「異変」が始まっていることなど、知る由もなく。
同時刻。王立魔術院、院長室。
「ふう……せいせいしたな」
豪奢な椅子に深く腰掛けた魔術院長は、上機嫌で葡萄酒を傾けていた。その向かいには、若き天才魔術師アルベール・ド・リヒテンブールの姿があった。
「ええ。あのような異端者が魔術院に居座っていること自体が、我らの『芸術』に対する冒涜でしたから。これでようやく、清浄な空気が戻ってきます」
アルベールは優雅に微笑み、グラスを揺らした。 だが、その優雅さは長くは続かなかった。
「……ふむ? なんだか、暑くないかね?」
院長が、不快そうに襟元を緩めた。 言われてみれば、アルベールも額にじわりと汗が滲んでいるのを感じていた。部屋の空気が妙に重く、熱気を帯び始めている。
「空調魔法の調子が悪いのでしょうか? 下級魔術師に確認させましょう」
アルベールが従者を呼ぼうとした時、廊下の方から慌ただしい足音が聞こえてきた。 バン! と扉が開かれ、若い魔術師が血相を変えて飛び込んでくる。
「い、院長! アルベール様! 大変です!」
「騒々しい! 何事だ!」
「ち、地下の魔力炉の冷却水が、急激に温度上昇しています! このままだと、魔力炉が熱暴走を起こしかねません!」
「な、なんだと!?」
院長が驚いて立ち上がる。その拍子に、卓上の書類が床に散らばった。 拾おうとしたアルベールは、その紙が熱気で湿り、端が反り返っていることに気づいた。 異常だ。今までこんなことはなかった。夏場であっても、魔術院の中は常に聖なる静寂と冷気に満たされていたはずだ。
「冷却の魔法陣はどうなっている!?」
「ぜ、全開で稼働させています! ですが、なぜか熱が逃げないのです! まるで、見えない排熱口が塞がれたかのように……!」
「馬鹿な! 魔法陣に異常はないはずだぞ!」
アルベールは舌打ちをした。
彼らは知らなかった。 これまで魔術院の空調が完璧に機能していたのは、魔法陣の力だけではない。アシュランが裏でこっそりと調整していた物理的な熱交換システムが、魔法では処理しきれない廃熱を効率的に外部へ逃がしていたからだということを。
「ええい、ただの季節外れの暑さだろう! 氷の魔石を追加しろ! 魔力を注ぎ込めば解決する話だ!」
院長が怒鳴る。 アルベールもまた、ハンカチで汗を拭いながら苛立ちを募らせていた。
「まったく……アシュランの奴が出て行った日にこれとは。あの疫病神め、どこまで我らを不快にさせれば気が済むのだ」
彼らは気づいていない。 これが、「疫病神」がいなくなったことによる不運ではなく、「守り神」を追い出したことによる必然の帰結であることに。
物理学という支えを失った魔法の塔は、その構造的欠陥を露呈し始めた。 廊下のあちこちで、「暑い」「魔道具が動かない」「結界の出力が安定しない」という悲鳴が上がり始めている。 だが、その原因に気づくことができる唯一の頭脳は、もうここにはいない。
アルベールたちの背中を流れる汗は、単なる暑さのせいだけではないことを、彼らが知るのはもう少し先の話だ。
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