第133話 祈りと名前
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滞在四日目の朝。
礼拝堂の外、隣の休息所には、昨日とは少し違うざわめきがあった。
「今日も、あの司祭様は来てくださるのかねえ」
「昨日のお言葉で、ずいぶん胸がすっとしたからねえ。」
茶をすする村人たちの間で、そんな囁きがぽつりぽつりと交わされている。
昨日の一件は、確かに村人たちの心に残っていた。
村の空気がすべて教会へ傾いたわけじゃない。だが、あの人たちに話せば少し楽になる――そんな空気は、すでに小さな根を張り始めていた。
「さあさあ、皆様。本日は少し茶葉を濃いめにしておりますのよ」
そんな落ち着かない空気の中でも、エレノアだけはいつも通り明るかった。
「たくさん泣いた後は、薄いお茶だと心細いですもの! しっかりお腹から温まってくださいませね」
理屈より先に手が動く。そういう気遣いが、いかにもエレノアらしかった。
村人たちの声は、当然エレノアの耳にも入っていただろう。
茶器を運ぶその横顔が、ほんの一瞬だけ曇ることがあった。
◇
少し離れたところで休息所を見ていた俺は、不穏な動きを見逃さなかった。
バルテル本人ではなく、彼の後ろに控えていた若い書記官が、村人たちの輪の中に静かに、そしてごく自然に混ざり込んでいたのだ。
彼は手伝いをするような素振りで空いた茶器を片付けながら、遺族や村人へ自然に声をかけていた。
「昨日、あちらで涙を流しておられた方は、お母上を亡くされたのですね。お労しいことです」
「では、この辺りに座っておられるのは、同じ長屋の区画の方々なのですね。励まし合える隣人がいるのは素晴らしい」
「皆様のお心に沿った祈りを捧げるには、私どもも少しでも皆様の事情を知っておきたく……」
声も顔つきも、どこまでも穏やかだった。
だが、拾っているのは慰めの言葉だけではなかった。
どの区画の人間か。何を失ったのか。いつ、誰が集まるのか。そういうものを、会話の形で探っていた。
「……お気遣いはありがたく存じます」
そこへ、静かで凛とした声が割って入った。いつの間にか書記官の背後に立っていたロッテだ。
彼女は記録板を胸に抱え、礼儀正しいが一切の隙がない態勢で立っていた。
「皆様のお心に寄り添おうとしてくださるお気持ちには、感謝いたします。ですが、どなたが何を抱えておられるかは、この村では必要な範囲でのみ内部で共有することにしております」
ロッテは、書記官の目を真っ直ぐに見据えて言った。
「祈りの場を静かに守るためにも、個人の悲しみを外へ広げすぎぬ方がよろしいのです。どうか、ご理解くださいませ」
規則だから駄目だ、と突っぱねたわけじゃない。
なぜそこで線を引くのかまで含めて、ロッテはきっちり塞いだ。
「……左様ですか。立ち入りすぎたようですね」
書記官は穏やかな笑顔を崩さなかったが、それ以上は食い下がることはできず、小さく一礼して引き下がるしかなかった。
◇
だが、向こうもそれで引いたわけじゃない。
ロッテから離れた書記官は、今度は直接、遺族の一人に語りかけた。
動乱で幼い子供を失い、憔悴しきっていた母親だった。
「お名を、我々の祈りに乗せましょう」
書記官の声は、どこまでも優しく響いた。
「失った方のお名前を、もし差し支えなければお教えください。お名を祈りに載せ、忘れぬよう心に留めたいのです。この村で、どなたがどのような悲しみを抱えておられるのか――それを知ることもまた、慰撫の備えになりますので」
表向きには、どこまでも優しい申し出だった。
昨日の一件を見ているだけに、周りの村人もその言葉をすぐには拒めなかった。
「名前を呼んで祈ってもらえるなら、それも悪くない」――そんな気持ちが一瞬だけ広がる。
だが、その言い回しには、悲しみそのものより、誰がどんな痛みを抱えているのかを知ろうとしている気配があった。
「……お名前は、大切ですわ」
ふと、澄んだ声が休息所に響いた。
茶を配っていたエレノアが、手を止め、書記官を静かに見つめていた。
「ええ、その通りです。ですから我々も――」
「けれど」
エレノアは、柔らかく言葉を継いだ。
「それは、集めるためのものではなくて、その方を忘れないためのものですもの」
エレノアは静かに書記官を見返した。
いつものふわふわした調子はない。ただ、そこだけは譲れないとでもいうようだった。
その一言に、書記官は一瞬だけ返す言葉を失った。
「……失礼いたしました。彼の善意が、少しばかり先走りましたな」
空気が張り詰めかけたその時、背後からバルテルが穏やかな足取りで現れた。
彼は書記官を庇って主張を押し通すような真似はしなかった。ただ静かに頭を下げ、争いの芽を摘み取る。
「悲しみの扱いに慎重であるべき、という点では、我々も全く同じ思いです。エレノア殿、どうかご不快にならないでいただきたい」
見事な引き際だった。正面からぶつかってこないから、こっちも露骨には切れない。
それでも、向こうはちゃんと見ていたはずだ。
ロッテが情報を簡単には外へ出さないこと。
そして、泥だらけの長靴を履いた聖女が、ただ明るいだけではないことを。
◇
一件が収まり、バルテルたちが客舎へ戻った後も、エレノアはしばらく黙ったまま茶器を拭いていた。
いつもの軽口もなく、ただ手元ばかり見ていた。
俺はエレノアの隣に歩み寄った。
「……さっきのは、よく言ったな」
周囲に聞こえない程度の声で、短く告げる。
エレノアは手を止め、少し戸惑ったように俺を見上げた。
「……お名前は、雑に扱ってよいものではありませんもの」
俺は小さく息を吐き、「そうだな」とだけ返した。
本人は大げさに考えてはいないだろう。
だが、あいつはもう、そういうところで人を見ている。
◇
その夜。外来客用の客舎の一室。
「申し訳ありません。少し、踏み込みすぎました」
書記官の青年が、深く頭を下げて詫びた。
バルテルは窓際の椅子に深く腰掛けたまま、責めることもなく静かに首を振った。
「構いません。おかげで、彼らの守りの形が分かってきましたからね」
バルテルの声は、静かだった。
「情報は窓口の娘がきっちりと守り、感情の導線は村の仕組みが守っている。そして何より……あの聖女本人もまた、思った以上に村側に立っているようです」
バルテルの脳裏に、エレノアの真っ直ぐな瞳が蘇る。
「あの聖女は、ただ無邪気なだけではないですね。……なるほど。厄介なのは、むしろあちらかもしれません」
ただ笑っているだけの娘なら、いずれこちら側へ迎え入れることもできたかもしれない。
だが、あの聖女はもう、自らの居場所を定めているようだった。
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