第132話 慰撫と違和感
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滞在三日目の朝。
礼拝堂には、昨日よりも明らかに多くの村人が集まっていた。
定期市や仕事の前、ほんのわずかな時間を利用して祈りを捧げる彼らの背中は、いつもより少しだけ緊張し、居住まいを正しているように見えた。
聖教国の正式な使節団、それも高位の司祭がこの村に滞在している。
それだけで、堂内の背筋が少し伸びる。
もちろん、バルテルたちが何かを命じたわけじゃない。
ただ、そこにいる。それだけで、村の空気はわずかに張り詰める。
「誰かが命じたわけでもないのに、こうも空気は変わるんだな。」
壁際に立ったまま、俺は静かに息を吐いた。
誰も村の定めを壊していないし、バルテルたちも許可なく前へ出るような真似はしていない。
なのに、空気だけが確実に変わっている。
「はい、お足元に気をつけてくださいませ」
そんな張り詰めた空気の中で、ただ一人、エレノアだけはいつも通りだった。
彼女は今日も動きやすい作業着姿で、堂内と外とを忙しなく行き来している。その軽やかな身のこなしは、この村にすっかり根付いた働き者のそれだった。
◇
朝の祈りの時間が終わりに近づいた頃だった。
祭壇の近くで祈りを捧げていた年配の女性が、不意に顔を覆い、抑えきれない嗚咽を漏らし始めた。動乱で家族を失い、この村に辿り着いたばかりの難民の一人だった。
周囲の空気が揺れる。
「どうぞ、こちらへ。堂内は静かな方がよろしいですもの」
泣き崩れる女性の肩を、エレノアがすぐさま柔らかく抱き寄せた。
彼女は決して堂内で説教めいた慰めを始めたりはしない。周囲の祈りを妨げないよう、それでいて女性を急かすこともなく、礼拝堂に隣接する休息所へとごく自然に誘導していく。
「お茶がありますわ。少し座って、ゆっくりなさってくださいませ」
休息所の長椅子に女性を座らせ、世話役が温かいお茶の入った木製のカップを差し出す。
祈りの場である礼拝堂を中立に保ち、そこから溢れ出た感情の熱は、外の休息所で村の者たちが受け止める。祈る場所と、泣いていい場所が、ちゃんと分かれている。
その間、バルテルたちは堂内の隅で静かに控えたまま、口も手も出さなかった。少なくとも、この時点では……。
◇
だが、問題はここからだった。
休息所の長椅子に移った女性は、温かい茶を前にしても、まだ震えが止まらなかった。失ったものの大きさに押し潰され、呼吸さえままならない様子だ。
エレノアや世話役たちも彼女の背中をさすり、静かに寄り添ってはいるものの、深い喪失感を前に、どう声をかければいいのか迷っているのが分かった。
そこへ、礼拝堂から出てきたバルテルが、音もなく近づいてきた。
そして、エレノアと世話役の方へ向き直り、穏やかに一礼する。
「差し支えなければ、一言だけ、言葉を添えさせていただいてもよろしいでしょうか」
村の規則に反しない、徹底して礼を尽くした申し出だった。
「……はい。お願いいたしますわ」
エレノアが道を譲ると、バルテルは女性の前に静かに膝を折った。
「無理に忘れようとなさらずとも、よいのです」
バルテルの声は深く、清冽な水を思わせる響きがあった。
「悲しみは、抱えていてもよいのですよ」
そう言うと、バルデルは静かに女性の目を見た。
「ここで、どうか御霊の名を呼んで差し上げなさい」
女性は嗚咽を漏らしながらも、その合間合間に途切れながらも誰かの名を呟いた。
「祈りは、失った者を切り捨てるためのものではありません」
バルテルは、決して難解な教義を語ることはしなかった。ただ、目の前の圧倒的な喪失に対して、静かで確かな言葉を与えていた。
「祈りとは、決して手放さずに、その御霊を心に抱き続けるためのものです。あなたの流す涙は、間違いなく神の御元へ届いておりますよ」
その声は、穏やかで、よく通った。
休息所にいた者たちの視線が、いつの間にか彼へ集まっていた。
言葉を与えられた女性の顔から、張り詰めていた緊張が少しずつ解け、悲しみの中にも確かな安堵の色が広がっていくのが見て取れた。
傍らにいたエレノアも、その瞬間だけは素直に感心したように目を丸くしていた。
◇
「……ありがとうございます、司祭様」
やがて女性が落ち着きを取り戻し、深く頭を下げて休息所を後にした。
そのやり取りを見ていた休息所の村人たちの間に、さざ波のような安堵の空気が広がった。
「司祭様がいてくださると、やっぱり助かるねえ」
「ああ……やはり、正式な方の言葉は胸に響くよ」
周囲の者たちが、誰に聞かせるでもなく小さく漏らす。
村で決められた定めは決して崩れてはいない。
だが、この時、休息所にいる者たちの心は間違いなくバルテルの言葉へ寄りかかろうとしていた。
少し離れた場所で、記録を取っていたロッテの表情はいつも通りだった。しかし、記録板を持つその指先が、わずかにこわばっていた。
そのロッテの背後から、見回りに来ていたロイルが低く呟いた。
「……村の定めは崩してねえな」
彼は腕を組み、バルテルの背中を忌々しげに睨む。
「けど、あれが当たり前になると面倒だな」
ロイルは、そういう小さなズレに妙に敏い。
一段落した後。俺は休息所にいたエレノアに歩み寄っていく。
その気配を感じたのか、空になった茶器を片付けながら、エレノアがぽつりと漏らした。
「……慰めるのが、とてもお上手でしたわね」
エレノアの声に棘はなかった。素直に感心している。
しかし、ふと茶器を拭く手を止め、エレノアが小首を傾げた。
「よいことのはずですのに……なんだか少し、胸がざわめきますわ」
「まぁな、露骨に踏み込んでくる相手なら、まだやりやすいんだがな。善意で来られるとやっかいだよな」
問題は礼拝堂の中だけじゃない。ここで生じた村人たちの感情。それが、外に伝播することの方が問題だった。
◇
その日の夕方。
管理窓口の近く、客舎へと続く廊下ですれ違いざまに、バルテルがエレノアへ穏やかに声をかけた。
「エレノア殿。本日の休息所での振る舞い、皆に寄り添うお姿はまことに素晴らしかったですな」
「あら、ありがとうございます!」
エレノアは、空の薬缶を片手に天真爛漫な笑みを返す。
「しかし……」
バルテルは足を止め、深く慈愛に満ちた目でエレノアを見つめた。
「あなたのようなお力を持つお方が、教会に所属していないというのは、実に興味深いことですな。多くを救う御手ほど、どの場に置かれるかが大切になるものです」
だがエレノアは、その言葉の裏を気にする様子もなく、あっさりと答えた。
「儀式をしているだけでは、温かいお茶も配れませんもの!」
それは、泥だらけの長靴でこの村の生活を回している彼女にとって、ごく当たり前の真理だった。
「……なるほど。そういうお考えですか」
バルテルは穏やかに微笑み、それ以上踏み込むことなく一礼して去っていった。
エレノアはその後ろ姿を不思議そうに見送っていたが、やがてふと、自分でも少しだけ引っかかったように小首を傾げた。
◇
夜。迎賓館の自室に戻った俺は、窓の外に灯る村の明かりを眺めながら、今日の出来事を頭の中で整理していた。
バルテルたちは、何一つ決め事を逸脱はしていない。
だが、形がそのままでも、その中で人に渡されるものは少しずつ変わっていく。
礼拝堂で起きたことは、村の目に見えない部分へ、静かに手をかけ始めていた。
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