幕間:8-1 失政と疲弊
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王都の朝は、ひどく冷え込んでいた。
それは季節のせいだけではなかった。街全体を覆う重く沈んだ空気が、人々の肌から体温まで奪っているようだった。
王都南区画の広場。そこには夜明け前から、気が遠くなるほど長い列ができていた。
配給を待つ平民たちの列である。
列に並ぶ女性、エルザは、腕の中でぐずり始めた幼い息子をあやしながら、重い溜息を吐いた。
「……また、配給の開始が遅れているね」
「昨日もそうだったさ。役人の数が足りてないのか、それとも配る麦が足りてないのか……」
前後に並ぶ顔見知りの女たちが、疲労に満ちた声でぼやく。そこに怒りや激しい憤りはない。ただ、ただ、果てしない「うんざり」とした諦めだけが漂っていた。
あの大規模な動乱と政変から、すでにいく月も過ぎていた。。
王城を制圧した公爵派は、新たな秩序の回復と平民の生活の保証を高らかに宣言したはずだった。
だが、市井の人々の暮らしは、少しも楽になっていなかった。
ようやく列が動き出し、エルザの順番が回ってきた。だが、乱暴に器に注がれたのは、底が見えるほど薄い麦粥と、石のように硬いパンの欠片だけだった。
「……これだけですか? 子供がいるんです」
思わずこぼしたエルザの言葉に、配給を取り仕切る下級兵士が苛立たしげに舌打ちをした。
「文句を言うなら後ろに回れ! これでも昨日よりはマシなんだ。備蓄庫は軍の管轄下にあるんだよ。嫌なら食うな!」
エルザは反論する気力もなく、器を抱えて足早にその場を離れた。
背後で、別の者が兵士と短い口論になりかけるが、周囲の者たちが「よせ、目をつけられるぞ」と弱々しく止める声が聞こえた。
新しい政がどうの、誰が王城に座ったの、そんなことは平民にはどうでもよかった。
勝者の名が変わっても、一向に腹は膨れない。むしろ、以前より明日の命の方が頼りない。
エルザは冷え切った麦粥をすする息子を見つめながら、ただ静かに絶望を飲み込んだ。
◇
配給所からほど近い、区画管理を取り仕切る役所の一室。そこには、山のように積み上げられた書類の束と、頭を抱える下級役人たちの姿があった。
「……また、東区画の配給所から暴動寸前だと報告が来ています。備蓄庫からの麦の引き出し許可を、至急お願いします」
「馬鹿を言え。昨日、軍務局から『治安維持部隊の糧食を最優先とし、平民への配給は二割削減しろ』という通達が来たばかりだ」
「しかし、内政局からは『不満を抑えるため、滞りなく配給を行え』という真逆の命令が下りています! どちらに従えばいいのですか!」
下級役人のニコラスは、同僚たちの不毛な言い争いを聞きながら、乾いた笑いを漏らしそうになるのを必死で堪えていた。
公爵派の重鎮たちは、確かに王城という拠点は押さえた。だが、「街を治める」という実務は、まるで噛み合っていなかった。
上層部から下りてくる命令は、その日その日の思いつきのように一貫性がなく、部署間で完全に食い違っている。しかも、誰もその矛盾の責任を取ろうとはしない。
(統治というのは、威圧的な命令を増やすことではないはずだ……)
ニコラスは心の中で毒づく。 少しでも上の意向に逆らえば、旧王家への内通や反逆の意志ありとして容赦なく粛清される。その恐怖が蔓延しているため、中級以上の役人たちは誰も自分から決断を下さなくなった。
「上層部の確認を取る」と言って、書類に印を押し、決済をたらい回しにするだけだった。
結果として、現場には「配れ」と「絞れ」という矛盾した命令と、そのどちらを選んでも責任を取らされるという理不尽な重圧だけが押し付けられる。
書類の束ばかりが高く積み上がり、街を回すための手足は、恐怖と責任回避で痺れきっていた。
王都には、威張るだけの勝者はいても、今日という一日を回す者はどこにもいなかった。
◇
その機能不全の軋みは、街の血管である「商い」にも深い影を落としていた。
王都の西を貫く大通り。
小商人のバルトは、荷車に積んだわずかな野菜と干し肉を布で隠すようにして、逃げるように市場へと歩を進めていた。
「おい、そこの荷車。止まれ」
辻に立っていたのは、公爵派の腕章を巻いてはいるが、兵士というよりごろつきにしか見えない男たちだった。にやにやと笑いながら道を塞いでいる。
「治安維持のための臨時検問だ。積荷を検めさせてもらおうか」
「検問は昨日も受けました! これは市場に卸す正規の品で……」
「口答えする気か? 旧王家残党への資金源として差し押さえてもいいんだぞ」
バルトは唇を噛み締め、懐から銀貨を数枚取り出して男の手に握らせた。男は舌打ちをしながらも、道を空けた。
正規の税なのか、ただのゆすりなのか、もう誰にも分からなかった。治安維持という名目で街には兵士や自警団が増えたが、彼らは街を守るどころか、最も身近な脅威として振る舞っていた。取り締まりは名目だけで、実際は袖の下でどうにでもなる。だが、その袖の下を払えなくなった者から順に、店を畳み、街から消えていく。
市場に辿り着いても、活気などどこにもなかった。
通りには空き店舗が目立ち、商売をしている者たちも、日が暮れる前にそそくさと店じまいを始めてしまう。夜になれば、本当の強盗が公爵派の兵士のふりをして押し入ってくるからだ。
「……前は、まだ金さえ払えば何とか話が通ったもんだがな」
隣で細々と芋を売っている顔馴染みの商人が、バルトに小声でこぼした。
「今は、誰が本当に権限を持ってるのかすら分からん。あの兵士が本物なのか、ただのゴロツキなのかもな」
「ああ。街の底が、完全に抜けちまってる……」
商いが止まれば、品物が回らなくなる。品物が回らなければ、物価は跳ね上がり、配給に頼る平民の暮らしはさらに苦しくなる。
悪循環だった。王都の暮らしは、食も、行政も、商いも、どれもが崩れ始めていた。
◇
夕方。
薄暗くなり始めた路地裏の古びた井戸端で、数人の女たちが水を汲みながら、ひそひそと声を潜めていた。エルザも、眠った息子を背負いながら、その輪の端にいた。
政治を批判する気力など、誰にも残っていない。彼女たちが交わすのは、明日を生き延びるための些末な情報交換と、ただの気休めの雑談だ。
「ねえ、聞いたかい……?」
一人の老婆が、周囲を警戒するようにキョロキョロと見回してから、声を落として口を開いた。
「王女様が……シャルロッテ様が、生きているって話」
その言葉に、エルザを含めた数人が息を呑んだ。
「まさか。あの日、王城の奥深くで焼け死んだって、公式にお触れが出ているじゃないか」
「でも、死体は誰も見てないって言うじゃない。それに、東の街道を通った商人が、それらしい一団を見たって……」
「馬鹿なことを言うな。もし本当だとしても、こんな火の海みたいになった王都に、あの王女様が戻ってこられるはずがないだろ」
誰もが、その噂を「あり得ない」と頭では否定した。
王城は焼け落ち、旧王家を支えていた有力な騎士たちも大半が討ち死にするか、捕らえられた。あのお飾りのように美しく、政治の場では影の薄かった王女が生き延びていたところで、この絶望的な状況を覆せるはずがない。
だが、その場にいた誰一人として、その噂を笑い飛ばし切ることはできなかった。
「……でも、もし本当なら」
誰かが、ぽつりとこぼした。
「今の連中よりは、あの方の方が……まだ、私たちの方を見てくれるんじゃないかって……」
それは、具体的な待望論でも、政治的な希望でもない。
極限まで疲弊し、明日の配給すら約束されない街で、人々がすがるかすかな「受け皿」だった。
誰も治めていない、荒涼としたこの街の空虚さが、あり得ないはずの噂を、静かに、しかし確実に人々の胸の奥へと根付かせていく。
王都には今日も、人が生きていた。だが、それは「暮らしている」と呼ぶには、あまりにも痩せた営みだった。
誰が王城を取ったかより、明日のひと切れのパンの方が大事だった。
それでも、人が極限まで疲れ切った時、あり得ないはずの噂ほど、暗闇の中の小さな火種のように胸の奥で燻り続けるものだった。
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