第125話 共感と限界
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夜の帳が下りた礼拝堂の周辺は、昼間の重苦しい熱が嘘のように静まり返っていた。
堂内の灯りはすでに落とされ、入り口の短い外階段の脇にぽつんと置かれたカンテラの淡い光だけが、周囲の暗闇をわずかに切り取っている。
そのカンテラの灯りを頼りに、ロッテは一人、階段に腰を下ろして手元の記録板を見返していた。
羊皮紙に並ぶ数字の羅列。今日の利用人数も、滞在時間も、あらかじめカインと共に定めた運用規則から大きく逸脱したものは何一つない。記録という事実だけを追えば、今日の礼拝堂も「平穏無事」に一日を終えたことになっている。
だが、ロッテの胸の内は、その整然とした数字とは裏腹に、泥濘のように濁って重かった。
彼女の中では、昼間の出来事の整理が全くついていなかったのだ。
『ここでは、どうか祈りに留めてください』
自分が放った言葉と、その直後に堂内を満たした、あの気まずく冷え切った沈黙が耳の奥にこびりついて離れない。
逃げるように背中を丸めて出ていった遺族たちの姿を思い出すたび、記録板を握る指先にぎゅっと力が入る。
(私は、あの方たちを追い払いたかったわけではない)
ロッテは唇を噛み締め、羊皮紙の端を見つめた。
ただ規則を盾にして、機械的に彼らの口を塞ぎたかったわけではないのだ。
彼らが背負っている喪失の深さも、やり場のない憤りも、この村で共に泥にまみれて働く中で痛いほど感じていた。
(むしろ、傷つけると分かっていたからこそ、あんなにも言葉を選んだはずだったのに)
彼らの悲しみを否定しないよう、言葉を尽くした。
それでも結果は、明らかな躓きだった。自分の言葉は彼らの心に届くどころか、かえってその口を閉ざさせてしまったように思えた。
その苦い事実が、ロッテの胸を容赦なく締め付けていた。
「……そんなに睨んでも、今日の空気までは書いてないだろ」
ふいに、暗がりから声が落ちてきた。
ビクッと肩を揺らして顔を上げると、いつの間にかロイルが数歩離れた場所に立っていた。彼は両手をポケットに突っ込み、カンテラの灯りの外周で、呆れたような、けれどどこか気遣うような視線をこちらに向けている。
ロッテは慌てて記録板を胸に抱え込み、少しだけ身構えた。昼間の自分の立ち振る舞いについて、現場を知る彼から厳しい言葉が飛んでくるのだと思ったからだ。
だが、ロイルは説教じみた口調にはならなかった。ただゆっくりと階段の下まで歩み寄ると、夜風に吹かれながら短く口を開いた。
「先に言っとく。今日のお前は、前みてえに頭から切ったわけじゃなかった」
その言葉に、ロッテはわずかに目を見開いた。
彼は、責めるのではなく、まずロッテが「踏みとどまろうとしたこと」を肯定したのだ。
「……分かっていたのですね」
ロッテは抱え込んでいた記録板を少しだけ緩め、ポツリとこぼした。
「あの方たちの言葉を止めることが、どれほど傷つける結果になるか……私も、分かっていました」
カンテラの灯りが、俯いたロッテの顔に落ちる影を揺らす。彼女は、今の自分が直面している苦しさを、ぽつりぽつりと自分の言葉で形にし始めた。
「私は、あの方たちの悲しみを無視したつもりはありません。止める前に、何を言おうとしているのかも見ていたつもりでした」
「……」
「……傷つけないように、言葉も選んだつもりでした」
ロッテの声が、最後は微かに震えた。
「それでも……届きませんでした」
前のように「規則だから」と切り捨てたわけではない。分かろうとし、寄り添おうとし、言葉を選んだ。それでも、自分が引いた「線」は、彼らにとって冷酷な壁としてしか機能しなかった。
それが何よりも悔しく、苦しかった。
ロイルは黙って彼女の言葉を聞き終えると、一度だけ短く息を吐いた。
「いや。たぶん、言い方だけの話じゃないな」
ロイルの返答は、ロッテが予想していたものとは違っていた。
彼はロッテの言葉選びが間違っていたとは言わなかった。
「お前がちゃんと分かろうとしていたのは、現場で見ていれば分かる」
「では、なぜ……」
「さぁな……でも、まぁ、あの人らが欲しかったのは、分かってもらうことだけじゃなかったんだろ」
ロッテは顔を上げ、彼の意図を探るように問い返した。
「……どういう意味ですか」
「吐き出すこと、そのものだよ」
ロイルは真っ直ぐにロッテを見据え、現場の熱を知る者としての言葉を刺した。
「『分かる』って言ってもらうだけじゃ足りなかったんだろうな」
ロイルはそこで、短く息を吐いた。
「あの場で、止められずに吐き出すこと自体が要ったんだ」
ロイルは少しだけ声を落とし、残酷な事実を突きつけた。
「お前が最後に線を引く側に立つなら、どんだけ言葉を選んでも、そこで届かなくなる相手はいる……そういうもんだ」
その言葉が、ロッテの胸の奥にすとんと落ちた。
雷に打たれたような衝撃ではなく、ずっと解けなかった絡まりが、静かにほどけていくような感覚だった。
(そうか……)
ロッテはようやく、自分が直面した失敗の本質に辿り着いた。
自分の言葉選びが拙かったわけではない。共感が足りなかったわけでもない。
「……そう、なのですね」
ロッテはすぐには続けられなかった。
自分の中で何かがほどけかけているのに、それをまだうまく言葉にできない。
しばらくして、ようやく彼女は息を整えた。
「私は、私の配慮が足りなかったのだと思っていました。ですが……それだけではなかったのですね」
彼女は記録板を見つめ直し、静かに確信を込めて言った。
「私が守ろうとした礼拝堂の静けさと……あの方たちがあの場で欲していた時間は、あの瞬間には、どうしても並び立たなかったのですね」
中立の場を守ることと、悲しみを吐き出し切ること。
少なくとも、あの場所、あの瞬間には、その二つを同時には抱えきれなかった。
ロイルは、ロッテのその気づきに対して大げさに褒めそやすようなことはしなかった。
「たぶん、そういうことだ」
と、短く肯定するに留めた。それが彼らしい誠実さだった。
「だから、止めるなって話じゃない」
ロイルはそこで視線を礼拝堂の閉ざされた扉へと向け、少し語気を強めた。
「あそこが不満の溜まり場になっちまう方がまずい。礼拝堂は礼拝堂で、きっちり守らなきゃ駄目だ」
ロイルは再び視線をロッテに戻し、次の視点を提示した。
「ただ、その外にこぼれたものを、どこに置くかが決まってないままじゃ……また明日も、同じことになる」
その言葉に、ロッテはハッと息を呑んだ。
線を引くことは正しい。だが、線を引いたことで「あぶれた感情」をどうするのか。それを用意しないまま線を引けば、結局は今日のように人々を追い詰めるだけだ。
「礼拝堂のすぐ脇で立ち話が続くから、祈りの場とごっちゃになるんだ」
ロイルは現場の状況を思い出しながら、具体的な懸念を口にした。
「立ったまま輪になってりゃ、嫌でも熱はこもる。少し場所を離すだけでも違うはずだ。……あとは、誰か受ける奴がいりゃ、まだ違ったかもしれねえな」
彼の言葉は、机上の空論ではない。スラムのいざこざや、難民たちの群衆の熱を肌で感じてきた彼だからこそ見える、人の感情の「逃がし方」だった。
「……祈りの場の外に、別の受け皿が要るのですね」
ロッテはロイルの言葉を受け、自分の領域である「制度」の視点からそれを言語化した。
「しかも、それを“なし崩し”ではなく、村の仕組みとして持たなければならない」
ロイルの「現場の感覚」と、ロッテの「制度の感覚」。
二つの異なる視点が噛み合い、昨日までは見えていなかった『次の一手』の輪郭が、ぼんやりとだが確かに浮かび上がり始めていた。
もちろん、今すぐ完全な答えが出るわけではない。誰がその場を管理するのか、どうやって礼拝堂と切り離すのか、課題は山積みだ。
だが、ロッテの瞳には、先ほどまでの重苦しい絶望の色はもうなかった。
問題の形が明確になったことで、彼女は再び前を向くための足場を得たのだ。
「……まあ、一人で全部やろうとするな」
不意に、ロイルが照れくさそうに頭を掻きながら、ボソリと言った。
「お前が前で線を引くなら、その外にこぼれた方は、俺たちで拾えばいい」
そこまで言ってから、ロイルは口の端をわずかに歪めた。言い切るのが少しばかり照れくさかったのか、夜の礼拝堂から目を外したまま、ぶっきらぼうに言葉を足す。
「そういう話だろ」
それは慰めでも指導でもなかった。同じ泥を踏む者としての、不器用な連帯の言葉だった。
ロッテは少し驚いたように目を丸くした後、肩の力をふっと抜き、柔らかく微笑んだ。
「……はい。今度は、そうしてみます」
彼女は手元の記録板をしっかりと抱え直して立ち上がった。
「明日、カイン様とエレノア様にも相談してみましょう。礼拝堂の運用だけではなく……その後の時間を、どう扱うかについて」
ロイルは短く「ああ」とだけ応え、夜の闇に同化するように背を向けた。
礼拝堂の中を守るだけでは足りない。線を引いたその外へ零れた悲しみは、どこへ行けばいいのか。
次に考えるべきなのは、そこだった。
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