第116話 祈りと居場所
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ウルム村に新設された長屋と共同広場が機能し始め、しばらく時が流れた。配給と寝床の確保に追われるだけの日々は過ぎ、避難民たちの顔にもようやく小さなゆとりが生まれ始めていた。
カインが定めた使用時間や掃除当番のルールは概ね守られ、水はけの良い洗い場と日当たりの良い物干し場は、避難民たちの荒んだ生活に確かな「余白」をもたらしていた。
だが、生活の動線が整い、人々が「ただ生き延びる」段階から「暮らす」段階へと移行し始めたことで、それまで見えなかった新たな摩擦が、広場の片隅で静かに生じ始めていた。
「……ちょっとごめんよ。そこを通らないと、洗濯物が干せないんだ」
朝の陽光が差し込む広場の南側。リナが芽吹かせた若草の周囲で、数人の新住民が目を閉じて静かに祈りを捧げていた。そこへ、洗い桶を抱えた古参の女性が遠慮がちに声をかける。
祈りを中断された新住民の男は、少しだけ眉間に皺を寄せた。
「……今は、朝の祈りの時間です。もう少し静かに通っていただけませんか」
「ここはみんなの広場だろう? そこに座り込まれると通れないんだよ。それに、あっちじゃ子供たちだって遊んでるんだ。静かにしろって言われてもねえ」
女性が指差した先では、遊び場で追いかけっこをしている子供たちの歓声が響いている。
男はそれ以上言い返さなかったが、その表情には明らかな不満と居心地の悪さが滲んでいた。
こうした小さなズレは、広場のあちこちで起き始めていた。
食前の祈りが長すぎて配給の列が少し滞ったり、日陰で静かに瞑想しようとする者の横を、泥だらけの子供が駆け抜けていったりする。
決して大声での言い争いになるわけではない。だが、「日々の祈りを欠かしたくない者」と「広場は生活と作業の場だと考える者」の間に、目に見えない温度差が生まれつつあった。
広場の視察に訪れていたエレノアとロッテは、少し離れた場所からその光景を見つめていた。
「……揉め事、というほどではありませんが」
ロッテが少し困ったような顔で呟く。最近の彼女は、物事をただ被るだけではなく、「治める側」の視点からも見るようになっていた。
「祈るのは個人の自由です。でも、ここは共同の生活の場ですから、わざわざそのために場所を空けたり、子供たちを静かにさせたりするのは、少し違う気がします」
ロッテの言葉は正論だった。だが、エレノアはただ頷くことはできなかった。昨日、広場で聞いた住人たちの切実な声が、彼女の耳に残っていたからだ。
『子供に、祈りの言葉を教えたいんです』
そう言ったのは、幼い子を抱えた母親だった。『ここでは誰も祈りを禁じません。でも、長屋の中は壁が薄くて隣の声が筒抜けで……落ち着いて教えられる場所がどこにもないんです』
また、ある老人は力なくこうこぼしていた。
『生きる場所をもらえたことには、本当に感謝している。だが先日、一緒に逃げてきた妻が死んだ。せめてちゃんと神の御許へ送ってやりたいんだが、あの狭くて騒がしい長屋の片隅で、他の家族に遠慮しながらでは……あまりにも味気なくてな』
その言葉を思い出し、エレノアは静かに首を横に振った。
「ロッテ様の言う通り、ここは生活の場ですわ。でも、あの人たちは決して身勝手で場所を占拠しているわけではないのです」
エレノアのまっすぐな視線に、ロッテがハッとして顔を上げる。
「彼らには、ただ『祈るための場所』がないのですわ。生きるための水場や干し場はできても、心を落ち着けるための居場所が、今のこの村には足りていませんの」
ロッテは小さく目を見開いた。
(……祈りたいのに、それをそっと置いておける場所がないのだわ)
ロッテは、静かに祈りを捧げる人々の背中を、もう一度しっかりと見つめ直した。
◇
「祈る場所が必要、ねえ」
丘の家の、風通しの良い中庭。
寝椅子でダラダラとくつろいでいた俺は、エレノアからの報告を受けて、少し面倒そうに頭を掻いた。その傍らでは、ロッテが静かに二人の会話に耳を傾けている。
「別に、村の中で祈ることを禁じてはいないだろう。それぞれの長屋の隅なり、広場の空いてる時間なりにやればいい」
「禁じられていないことと、居場所があることは違いますわ」
エレノアは一歩踏み込み、母親や老人から聞いた具体的な事情を俺に伝えた。
子供に祈りを教える静かな空間がないこと。死者をきちんと弔う場がないこと。それが、ただの生活の不便さではなく、人の尊厳に関わる問題になりつつあること。
「なるほどな。状況は分かった」
俺は寝椅子の上で姿勢を直し、冷めたワインを一口飲んだ。
「だがな、エレノア。俺自身は、どうしようもない無神論者なんだよな」
その言葉に、咎めるような響きはなかった。ただ、俺自身の嘘偽りない実感がそこにあった。
「神に祈って腹が膨れるわけでも、結界の外の魔物が消えてなくなるわけでもない。祈りで病が治るなら、お前のような聖女の治癒魔法はいらないはずだ。俺にとっては、水や飯、安全な寝床みたいな『確かなもの』の方がよほど大事だし、それを整えるのが俺の仕事だと思ってる」
合理の塊である俺らしい言い分だった。俺は信仰を攻撃しているわけではない。ただ、前世の記憶が染みついているせいか、俺自身の内側に、それを必要とする感覚が決定的に欠けているのだ。
だが、エレノアは引かなかった。彼女は聖女としての真っ直ぐな瞳で、俺を見据えた。
「師匠が神を信じるかどうかは、別のお話ですわ」
凛とした声が中庭に響く。
「でも、水や食べ物のように数値化できなくても、確かにあるもの。実在して、人を根底から支えるものが、この世界にはありますの。……信仰は、間違いなくその一つですわ」
その言葉に、俺はすぐには口を開かなかった。
反論が浮かばなかったわけじゃない。ただ、自分には実感として持てないものを、それでも切実に必要としている人間がいる――その事実を、改めて突きつけられていた。
中庭に、静かで重い沈黙が落ちた。
その“間”を、ロッテはじっと見つめていた。
(水路や食料や秩序だけでは足りないのだわ。人が何を支えにして生きているのかまで、受け止めなければ……)
かつて王城の奥深くで、ただ守られるだけだった少女は、この辺境の村の小さな摩擦から、また一つ、上に立つ者としての器を広げようとしていた。
その晩、俺は珍しく、すぐに結論を出せなかった。
◇
翌朝。
共同広場には、相変わらず生活の喧騒が満ちていた。
洗濯を巡る声。走り回る子供たち。
そしてその隅では、やはり申し訳なさそうに肩を寄せ合い、祈りを捧げる数人の新住民たちの姿がある。
誰も悪くない。
生活を営む者も、祈りを捧げる者も、ただ自分たちの日常を守ろうとしているだけだ。
だが、このまま互いの領域が重なり続ければ、やがてそれは「不便」で済まなくなる。摩擦になり、分断へ変わっていく。
俺が快適にダラダラと過ごすためにも、そんな火種を放っておくわけにはいかなかった。
少し離れた場所からその光景を眺めていた俺は、深々と溜息をついた。
「……必要なのは分かった」
ぼそりと呟いた声は、隣に立つエレノアにだけ聞こえていた。
「俺自身に信仰はない。だが、彼らにとって必要なものだというのは分かった。……なら、祈りの場を作るしかないか」
その言葉に、エレノアの顔がパァッと明るく輝いた。
「カインに言って、長屋区画から少し離れた静かな土地を見繕わせておいてくれ。後、ギード村長にもな。ただし、豪華な神殿なんか建てるつもりはない。雨風がしのげて、静かに祈れるだけの小さな礼拝堂でいい」
「はいっ! ありがとうございます、師匠!」
満面の笑みを浮かべる弟子から目を逸らし、俺は「また仕事が増えた」と心の中で悪態をついた。
神を信じない男が、神を信じる者たちのために場所を作る。
皮肉ではある。だが、多様な人間が寄り集まる以上、それもまた必要な秩序だった。
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