第113話 共同広場と段取り
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「ふぁ……よく寝た……」
朝。丘の家の広々とした寝室で、アシュランは実に久しぶりに、ふかふかのベッドで八時間きっちりと睡眠を取ることに成功していた。
迎賓館の寝椅子でバキバキになっていた体も、ある程度は回復している。目覚めは悪くない。
だが、彼が着替えて中庭の木陰へ出ると、そこにはすでに「仕事」の気配が待ち構えていた。
「遅い。もう日が昇ってる」
中庭のベンチに座っていたリナが、不満げに頬を膨らませた。人化した精霊王の娘は、両足をぶらぶらさせながらアシュランを睨んでいる。
「昨日言ってた広場、いつ作るの?」
「分かってる。だが、俺にはまず朝飯を食う権利がある」
アシュランが大きく伸びをしたその時、玄関の扉が勢いよく開き、元気な声が飛び込んできた。
「おはようございます、師匠!」
眩しいほどの笑顔で現れたのは、エレノアだった。普段の聖女の装いではなく、なぜか動きやすい作業着姿で、その足取りはやけに軽く、どことなくそわそわしている。
「よく眠れましたか? さあ、早く朝食を済ませて、長屋の視察に行きましょう! 私はもう準備万端ですわ!」
「お前ら、朝から元気すぎるだろ……」
アシュランは呆れたように息を吐き、椅子にどっかりと腰を下ろした。 休むために帰ってきたはずなのに、同居人たちはすっかりやる気だった。
「長屋はできた。だが、あれじゃまだ人を詰め込んだだけだ」
アシュランは出された温かい茶を一口啜り、昨夜の考えを改めて口にした。
「洗う場所、干す場所、座る場所、遊ぶ場所。そういう共同の余白がなければ、暮らしにはならん。だから次は共同広場だ」
「はいっ! その通りですわ!」
エレノアが力強く頷く。
「では、さっそくカインを呼びましょうか!」
◇
「……丸一日は冬眠されると伺っておりましたが」
朝食を終えた頃、絶妙なタイミングで丘の家にやってきたのはカインだった。両腕にどっさりと決裁書類を抱え、昨日追い返された分を取り戻しに来たのだが、当のアシュランはすでに何やら新しい事業を立ち上げようとしている。ウルム村の実務を一手に担う有能な男は、思わず深い溜息をついた。
「カイン、ちょうどいい。その書類は後回しだ。散歩に行くぞ」
アシュランはカインの文句を片手で制し、ざっくりとした要望を並べ立てた。
「長屋の各区画に共同広場を置きたい。洗い場と物干し場は分けてくれ。子供が遊ぶ場所も欲しいし、老人が座れる木陰も必要だ。水汲みの動線と、生活排水の動線が絶対に喧嘩しないように組んでくれ」
あまりにも大雑把な丸投げである。だが、カインは抱えていた書類をテーブルに置くと、即座に実務家の顔になり、頭の中で図面を引き始めた。
「……なるほど。共同広場ですか。確かに、長屋の過密状態は治安と衛生の両面で強い懸念がありました。素晴らしい着眼点です」
カインは指で顎を撫でながら、高速で思考を言語化していく。
「洗い場は水場と近すぎると周囲が泥濘むため、少し離して石畳を敷きましょう。排水溝は人の通る通路から完全に外します。物干し台は風下ではなく、日当たりを最優先にした位置に。子供の遊び場は、荷車の通り道とは明確に切り離す必要がありますね。ベンチと木陰は、日照時間の長い南か東側がよいでしょう」
「完璧だ。話が早くて助かる」
「お待ちください。設計の前に、まずは現地の状況と正確な土地の広さを確認しなければ。行きましょう、マスター」
アシュランの思いつきが、カインの頭を通ると、たちまち現実の設計へ変わっていく。
こういうところが、頼りになるのだ。
◇
アシュラン、カイン、エレノア、リナの四人は、一部が完成し、周囲ではまだ建設が続いている長屋区画へとやってきた。
「これは……確かに、想定通りには機能していませんわね」
エレノアが顔を曇らせるのも無理はなかった。
カインの基本設計では、日当たりや風通しを最低限確保するように建物の配置を組んでいたはずだった。だが、避難民を一日でも早く収容するための急ピッチな建設作業の中で、現場の職人たちが、そこに余白を取った意味まで完全には汲み取りきれなかったこと、そして何より想定以上の人数が殺到した結果、長屋の周囲は生活の不便さが「景色」となって表れていた。
狭い通路の壁際には、洗ったばかりの衣類がロープに無秩序に干され、生乾きの湿った空気が淀んでいる。井戸の周りも、排水の施工が不十分なため、こぼれた水でひどく泥濘み、汚れた水が人が歩く場所にまで流れ出していた。
「こら! 走るんじゃないよ! せっかく洗った服に泥が跳ねるだろうが!」
「だって、走れる場所がここしかないんだもん!」
母親のヒステリックな怒鳴り声に、泥跳ねを気にしながら走り回っていた子供が不満げに口答えをしている。そのすぐ横では、腰の曲がった老人が、わずかに日の当たる壁際の狭いスペースに所在なげにうずくまっていた。
「……洗える場所は一応あるんですけど、とにかく干す場所が足りなくて。少しでも日が当たる場所は取り合いなんです」
通りすがりに声をかけた母親は、疲れ切った顔でそうこぼした。
「座って日向ぼっこできる場所があれば、昼間ずっと薄暗い部屋で縮こまらずに済むんだがな……」
老人はアシュランたちを見て、寂しそうに呟いた。
「ここ、走るとすぐ怒られるんだよ。つまんないの」
子供は不満顔で石ころを蹴り飛ばした。
雨風はしのげる。だが、それだけでは暮らしにはならない。
その息苦しさが、住人たちの声になって表れていた。
「必要性は明白だな」
アシュランがカインを見ると、カインも無言で頷き、手元の羊皮紙に素早くメモを書き込んでいた。
「師匠! 手洗い場は絶対に必要ですわ!」
悲惨な衛生状態を目の当たりにして、エレノアが勢いよく身を乗り出した。聖女としての使命感というよりは、人々の暮らしを良くしたいという純粋な熱意が彼女を前へ押し出している。
「病を防ぐための基本です。それから、洗い物をする場所と、飲み水を汲む動線は明確に分けませんと。小さな花壇があるだけでも、人々の心は休まり、空気が変わりますわ。 あと、泥んこになって遊んだ子供たちのための、簡単な足洗い場も欲しいです。」
「いいアイデアだ。採用しよう」
アシュランが頷くと、今度はリナが長屋の間の空き地へと駆け出していった。
「ここ、風がよく通るよ!」
リナは両手を広げ、目に見えない風の通り道を心地よさそうに全身で受け止めた。
リナは理屈ではなく、心地よい場所と嫌な場所を次々と示していく。
「こっちの隅っこは、じめじめして嫌な感じ。水が溜まる匂いがする。……この辺なら、私がちょっと手伝えば、すぐに大きな木陰が作れるよ。つる草も這わせられるし」
リナが理屈ではなく感覚で心地よい場所、悪い場所を次々と指し示していく。
カインはそれを受けて、冷静に図面へと翻訳した。
「なるほど。では、風の通るここを物干し場に。じめじめする低い土地は、洗い場からの排水の集積所にして下水路へ繋ぎましょう。休憩のための木陰と花壇は、リナ様が示してくださったこの位置ですね」
エレノアが生活の豊かさと衛生を提案し、リナが自然と調和する場所を選び、カインがそれを設計図に落エレノアが生活と衛生の案を出し、リナが心地よい場所を選び、カインがそれを設計図へ落とし込んでいく。
そのやり取りを見ているうちに、周囲の顔にも少しずつ明るさが戻っていた。
「よし、配置のイメージは固まったな」
アシュランはカインの図面を覗き込み、一つ頷いた。だが、その直後、ふんわりとした幸福な空気に冷や水を浴びせるように、現実的な楔を打ち込んだ。
「ただ綺麗で便利な場所を作るだけじゃ駄目だぞ」
アシュランの鋭い声に、エレノアとリナが不思議そうに振り返る。
「誰でも自由に、勝手に使っていい場所にすれば、必ず荒れる。洗い場は残飯と泥ですぐ汚れ、物干し場は日当たりのいい場所の取り合いになる。子供の遊び場と大人の作業場を分けないと怪我人が出るし、掃除の当番を決めなきゃ数日で悪臭が漂うようになる」
アシュランは、人が集まる場所がどう荒れるかをよく知っていた。
「人が集まる場所ほど、最初にきっちり線を引く。善意と譲り合いだけで回るなら、苦労しないからな」
善意だけで回るなら、最初から苦労はしない。
だからアシュランは、揉める前に仕組みを作る。
「おっしゃる通りです」
カインは即座に応じた。彼もまた、アシュランの意図を完全に理解している。
「各長屋の代表者を集め、広場の『区画札』による使用時間の割り当て、週替わりの掃除当番制、洗い場と排水溝の清掃の役割分担をルール化すべきでしょう。子供の遊び時間帯と、大人の大規模な洗濯の時間帯も明確に分けましょう」
「頼む。ルールを破った時のペナルティも決めておいてくれ。広場の使用権を数日停止するくらいでいい。俺は快適にダラダラしたいんだ。後で『揉めたから裁定してくれ』なんて持ち込まれないように、最初にガチガチに固めておきたい」
◇
方針とルールが決まれば、行動は早かった。
カインの手配により、手の空いている自警団員や村の職人たちが集められ、さっそく予定地に着工の手が入る。
「ここからここまでが洗い場だ! 石を敷くから排水用の溝を掘るぞ!」
「物干し台の柱はここだ! まっすぐ縄を張れ!」
トントンと地面に木の杭が打たれ、ピンと張られた縄が、何もない空き地に明確な「線」を引いていく。洗い場の予定地には、水はけを良くするための平らな石が運び込まれ始めた。
「なんだい、何が始まるんだ?」
遠巻きに見ていた長屋の住人たちが、ざわめきながら集まってくる。
「共同の広場ができるらしいぞ。洗い場も、物干し場も、別々に作ってくれるってよ!」
その声を聞いて、先程の母親が顔を輝かせた。
「本当かい!? じゃあ、もう狭い通路で干さなくて済むんだね!」
「ここで遊べるの!?」
泥だらけの子供が、目を丸くしてエレノアを見上げる。
「ええ、そうですわよ。あそこに広い遊び場ができますの。その代わり、遊んだ後はちゃんと足洗い場で泥を落とすんですのよ?」 エレノアが優しく微笑むと、子供は「うん!」と元気よく頷き、縄が張られた遊び場予定地の周りを嬉しそうに走り始めた。
「ほら、おじいさんたちの座る場所はここ」
リナが、広場の南側の陽だまりになる場所にしゃがみ込み、地面にそっと触れた。
すると、固く乾いていた土から柔らかな若草が芽吹き、あっという間に小さな緑の絨毯を作り出した。今はまだこれだけだが、いずれここには、気持ちの良い木陰を作る樹木が植えられ、花壇が整備されるだろう。
「おお……こりゃあ、ありがたい。座れる場所があるだけでも、本当に助かるよ……」
老人は目を細め、シワだらけの顔に深い安堵の笑みを浮かべた。
長屋はようやく、ただ寝るための場所から、暮らしの匂いが生まれる場所へ踏み出し始めていた。
その光景を少し離れた場所から眺めながら、アシュランは肩をすくめた。
「休むつもりだったのに、また仕事が増えちまったな」
呆れたようにぼやきながらも、アシュランの口元はわずかに緩んでいた。
「まあいい。こういう面倒は、まだマシだ」
活気づく広場の喧騒と、心地よい春の風。
アシュランは小さく息を吐いた。
まずはこれでいい。
後はカインたちが形にしてくれるだろう。アシュランは着工の様子を見届けると、満足げに丘の家へ向かって歩き出した。
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