第112話:帰宅と違和感
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春が来た。
冬のあいだ、冷たい風と泥に追い立てられるように身を寄せ合っていた避難民たちにも、ようやく季節の移ろいが目に見える形で届き始めていた。建設を急がせていた長屋は、早いものから完成し、子供や老人を抱えた家族から優先的に入居が進んでいる。仮設市場の怒号も以前ほどには響かなくなり、値札と登録の仕組みは、まだぎこちなさを残しながらも確実に根を下ろし始めていた。
新しく再編された自警団も、未熟さと危うさを抱えたままではあるが、それでも見回りと夜警の形だけは整いつつあった。村のあちこちで起きていた小さな揉め事は少しずつ減り、ウルム村はようやく「押し寄せる難民を受け止めるだけの場所」から、「人が暮らし続ける街」へと変わり始めていた。
だからこそ、そのしわ寄せはすべて、迎賓館の執務室に積み上がっていた。
◇
執務机の上に積み上がっていた書類の山が、ようやく半分以下の高さになった頃、アシュランは深く溜息をついた。執務机の上に積み上がっていた書類の山が、ようやく半分以下の高さになった頃、アシュランは深く、とても深い溜息をついた。
窓の外はすでに完全な夜の闇に包まれている。村のあちこちに灯る魔力光の淡い輝きが、かつての何もない開拓地だった頃とは比べ物にならないほど増えていた。
ここはウルム村の中心に位置する迎賓館の一室。外来の客を歓待し、あるいは村の重要事項を決定する「役場」としての役割を持つこの館の一角が、アシュランの執務室兼工房となっている。
だが、急激な人口増加と制度設計の激務で、ここ数日のアシュランは文字通りこの部屋に缶詰だった。寝椅子で仮眠を取り、運ばれてくる食事を書類を見ながら流し込む日々。
「……限界だ」
アシュランはペンを置き、凝り固まった首を乱暴に回した。ボキボキと嫌な音が鳴る。
そこへ、ノックの音とともに若い文官が顔を覗かせた。
「アシュラン様、南区画の配給所の件でご相談が――」
「却下だ」
アシュランは顔も見ずに手を振った。
「いや、まだ何も申し上げておりませんが……」
「今から俺に持ち込まれる相談は、すべて明日以降に回せ。急ぎの案件ならカインの頭に叩き込んでおけ。俺は帰る」
「えっ、しかし……」
「俺は、迎賓館の寝椅子で一生を終えるためにこの村を発展させたわけじゃない。快適な家で、ふかふかのベッドで眠るために働いているんだ。せめて丸一日は誰も俺を起こすな。来客があっても塩を撒いて追い返せ」
有無を言わさぬ圧を放ち、アシュランは外套を羽織って足早に部屋を出た。
為政者としての威厳など、今の彼には欠片もなかった。あるのは「一秒でも早く家に帰ってダラダラしたい」という、それだけだった。
◇
夜の冷たい空気が、酷使した頭を少しだけ冷やしてくれた。
迎賓館から少し離れた丘の上に建つ、アシュランの自宅。厳重な結界に守られたその領域に足を踏み入れた瞬間、ピリピリと張り詰めていた空気がふっと緩むのが分かった。
分厚いオーク材の扉を開け、中庭へと足を踏み入れる。
そこには、迎賓館の無機質な機能性とは全く異なる、静謐で澄んだ空気が満ちていた。
月明かりに照らされた中庭の中央には、一本の若木が植えられている。聖樹ガオケレナ。かつて世界の理そのものであった大樹の分体であり、今はこの丘の家の、そしてアシュランの「快適な生活」を象徴する存在だ。
「……遅い」
風もないのに若木の枝葉がさらさらと揺れ、頭上から不満げな声が降ってきた。
見上げると、太い枝の上に一人の少女が腰掛けていた。
「好きで役場に缶詰になってたわけじゃない」
アシュランは苦笑しながら、外套を脱いで若木の根元にあるベンチにどっかりと腰を下ろした。
「木陰、全然使ってない。私の根元、一番涼しくて気持ちいいのに」
「使う暇がなかったんだよ。毎日毎日、問題ばっかり起きるからな」
「言い訳」
リナがわざと枝を揺らし、カサリ、と一枚の青葉をアシュランの頭の上に落とした。
「文句か」
「文句。アシュランが家にいないと、ここはただの静かな箱庭になる。つまらない」
その言葉に、アシュランは小さく息を吐き、頭に乗った葉を手に取った。
「エレノアは?」
「エレノアも帰ってこない。忙しいって……」
「そうだな。悪かったよ」
精霊王の娘であっても、この家ではただ文句の多い同居人だ。
だからこそ、この場所は役場ではなく、ちゃんと「帰る場所」でいられる。
久しぶりに全身の力が抜けていくのを感じながら、アシュランはゆっくりと目を閉じた。
◇
小一時間後。
アシュランは広々とした浴室でしっかりと熱い湯に浸かり、埃と疲労を洗い流した。
着心地の良い生成りの部屋着に着替え、厨房で手早く用意した冷肉とチーズ、それに上質な葡萄酒をトレイに乗せて、再び中庭の寝椅子へと向かう。
「ああ……生き返る……」
グラスを傾け、星空を見上げながら、アシュランは魂の底から安堵の声を漏らした。迎賓館の寝椅子も高級品ではある。だが、自分がくつろぐためだけに整えたこの空間の快適さとは比べ物にならない。やはりここは、「息の詰まる役場」ではなく「生活のための家」だった。
チーズを齧っていると、屋敷の玄関の扉が開く音がした。
やがて、中庭にエレノアが姿を現した。生真面目な聖女の目元にも、隠しきれない疲労の色が濃く滲んでいる。
「師匠。戻ってたんですね」
「ああ。だが、俺は今日から丸一日は冬眠する予定だ。何かあればカインに言え」
「カインなら、さっき『どうしても確認してもらいたい決裁書類がある』って、こっちに向かおうとしてましたよ。私が『明日にしたら?』って睨みつけて追い返しておきましたけど」
「でかした。後で特別手当をはずんでやろう」
「やったー! 特別って何ですの?」
エレノアは疲労も忘れたかのようにパァッと顔を輝かせてはしゃいだ。
「中身は後で考える。お前も今日はもう休め。村のことは他の奴らに任せておけばいい」
「はいっ! 師匠もゆっくり休んでくださいね」
エレノアは上機嫌に足取りも軽く、自分の部屋へと向かっていった。彼女もまた、この数日の激務で休息を欲しているのだろう。
静寂が戻った中庭で、アシュランはグラスの残りを飲み干しながら、ふと思考を巡らせた。
数日前、増え続ける避難民の統制と村の治安維持のため、大規模な自警団の再編と選抜が行われた。
その際、アシュランは半ば意図的に、ロッテに意見を求めた。
かつては王都で命を狙われ、アシュランに庇護されるしかなかった王女が、あの時はアシュランの予想を僅かに超える答えを返した。
『強い人より、ルールを守れる人を選ぶべきだと思います』
腕っぷしの強さよりも、規律を守り、村の秩序を理解できる者を重用する。それは、ただの力任せの集団ではなく、法治による組織を作るという為政者の視点だった。
(……いつの間にか、守られるだけの子供じゃなくなってるな)
アシュランは目を細めた。
彼女がただの庇護対象から、この村の秩序の側に立ち、自らの意思で「選ぶ側」へと成長しつつある。それは喜ばしいことであると同時に、このウルム村がもはや複雑な社会を持った「街」へと変貌してしまった証左でもあった。
「まあ、頼もしい人材が育つのはいいことだ。俺がサボれる確率が上がるからな」
言い訳のようにそう嘯きながら、アシュランは寝椅子に深く身を沈めた。
心地よい夜風。リナの気配。ようやく取り戻した、静かな時間。
迎賓館に詰めていた数日が嘘のように、張り詰めていた頭の奥が少しずつほどけていく。
その時、枝の上に座っていたリナが、ふいに身を乗り出した。
「アシュラン」
「あん?」
「春、ちゃんと来てる」
リナが指差したのは、自分の根元だった。
月明かりの下、聖樹ガオケレナの若木の足元では、いつの間にか小さな芽がいくつも土を押し上げていた。名もない草花に混じって、昼にはなかったはずの新芽まで覗いている。
「昼間、子どもが来た。長屋に入ったって言ってた。ここで遊びたいって」
「……ここで?」
「うん。あと、おばあさんも来た。土を触れる場所があると落ち着くって」
アシュランは小さく目を細めた。
長屋ができ始め、市場も落ち着き、自警団もどうにか形になってきた。
だが、それで終わりではない。寝る場所と配給だけでは、人はただ生き延びるだけだ。そこから先、根を下ろして暮らしていくには、もう一段先の何かが要る。
「……なるほどな」
寝椅子の背にもたれたまま、アシュランは夜空を仰いだ。
「家ができたなら、次は中庭か……、いや、共同広場か」
「きょうどうひろば?」
「洗う場所、干す場所、座る場所、遊ぶ場所。長屋のまわりにそういう余白がなければ、ただ人を詰め込んだだけで息が詰まる。せっかく住めるようになったんだ。暮らせるようにもしてやらないとな」
リナはぱちぱちと目を瞬かせたあと、すぐに楽しそうに枝葉を揺らした。
「木陰、作れる」
「だろうな。お前はそういうの好きそうだ」
「好き。春だもん。春は育つ季節」
その時、屋敷の玄関の扉が開き、エレノアが中庭へ入ってきた。
一日の疲れを滲ませていた彼女だったが、アシュランとリナの会話を聞いて首を傾げる。
「共同広場、とは何の話ですの?」
「長屋だよ。寝床と配給だけじゃ駄目だ。共同の洗濯場、物干し場、日除け、年寄りが座る場所、子供が遊ぶ場所。そのへんまでまとめて整えた方がいい」
エレノアの目が、みるみるうちに輝いた。
「まあ! それは素敵ですわ! 手洗い場も必要ですし、洗濯の排水と飲み水の動線はきちんと分けたいですし、少し花壇があるだけでも空気が変わりますもの!」
「やっぱり食いついたか」
「当然ですわ! 長屋に入れたご家族も、あれではまだ『住める』だけですもの。ちゃんと『暮らせる』ようになれば、皆さまの気持ちも全然違ってきますわ」
アシュランは苦笑しながら葡萄酒をひと口飲んだ。
また仕事が増える。
だが、今度のそれは外から押し寄せる厄介事への対処ではない。ウルムで暮らす者たちが、少しでもまともに、少しでも心地よく生きるための面倒だ。
そう思えば、悪くない。
「……よし。次は長屋の共同広場だ」
アシュランはそう呟くと、寝椅子の上で体勢を整えた。
「設計は明日だ。カインを捕まえて、導線と排水までまとめて組ませる。俺は大枠だけ出す」
「またカインが泣きますわね」
「実現役が優秀だと助かるだろ」
「師匠は本当に容赦がありませんわね……でも、楽しみですわ」
リナも満足そうに笑い、若木の枝の上で小さく揺れた。
中庭には、夜の静けさと、春の匂いが満ちていた。
束の間ではあっても、確かにそこには、ウルム村が次の季節へ進み始めた手応えがあった。
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