幕間7-1:灰と神輿
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夜の王都。
かつて大陸一の繁栄を誇った巨大都市は今、不気味な静けさと焦げ臭い匂いに包まれていた。
貴族街の石造りの館々は静まり返っている。だが城壁の向こう、平民たちが暮らす下層区からは、くすぶる焼け跡の煙が細く夜空へ立ち上っていた。勝敗が決した後もなお、クーデターの爪痕は王都の各所に生々しく残っていた。
王都の中心部に近い、リヒテンブール公爵邸。
その奥深くにある重厚な扉に閉ざされた会議室では、深夜にもかかわらず会議が続けられていた。
長大なマホガニーの机の上には、王都の精緻な地図が広げられている。その上には、食糧倉庫の位置を示す駒、王都を分断する主要な橋の封鎖状況、市門の警備配置、そして羊皮紙に書き殴られた暫定布告案が乱雑に散らばっていた。
「はははっ! ついに、ついにこの王都は我が手に落ちたのだ!」
部屋の上座で、リヒテンブール公爵がワイングラスを片手に上機嫌な声を上げた。豪奢な衣装に身を包んだ恰幅の良い肉体を揺らし、彼は誰に聞かせるわけでもなく自画自賛を繰り返している。
「モンフォールの老いぼれも、辺境の泥にまみれて惨めに散ったか。もう少しやると思っていたのだがな。まあ、あれはあれで役に立ってくれた。奴の戦死も、存分に利用させてもらうとしよう。頭目を失った軍部など烏合の衆よ。いざとなれば兵はより強き者に靡く。正統なる血筋と、それを支えるに相応しい力を持つ、この私にな!」
公爵の顔は、権力を手にしたという手応えに酔っていた。
だが、机を囲む貴族や将校たちの表情に勝利の色はない。会議室を満たしているのは歓喜ではなく、致命傷を負った患者の止血をどうするかという焦りだった。
「しかし、公爵閣下……」
実務を担当する初老の文官が、顔色を青くして進み出た。
「王城と主要な貴族街を押さえたとはいえ、王都の機能は完全に麻痺しております。第三食糧倉庫には昨夜も暴徒が押し入りました。物流が止まったことで、東の橋では物資を求める平民と警備の兵が衝突し、死傷者が出ています」
「うむ……」
「さらに、市井では『モンフォール元帥の残党が逆襲に備えている』『西の国境から魔物の群れが迫っている』などといった流言飛語が飛び交い、民の不安は頂点に達しております。このままでは、暴動が王都全域に波及しかねません。至急、閣下の名において暫定布告を……」
「ええい、五月蝿い!」
公爵は不機嫌そうにワイングラスを机に叩きつけた。
「力で押さえつければよいのだ! 逆らう者は容赦なく斬り捨てよ。私が新たな王として戴冠式を行い、逆賊どもを平定したと布告を出せば、愚民どもは平伏すに決まっておろうが!」
「閣下、それはあまりにも……」
文官が言葉を濁し、他の貴族たちも顔を見合わせる。今、力任せに自ら王を名乗れば、間違いなく反発は激化し、内乱の火に油を注ぐことになる。それは火を見るより明らかだった。
重苦しい沈黙が落ちたその時。
公爵は苛立ちを隠せないまま、しかしどこか縋るような視線を部屋の隅に向けた。
燭台の光が届かない深い暗がりに、一人の男が立っていた。目立たない灰色の外套を羽織り、気配や感情を一切表に出さない男。
「……貴公はどう見る。余が直ちに王を名乗るべきではないとでも言うのか」
話を振られた相談役の男は、公爵の野心を頭から否定することはしなかった。ただ、その場から一歩も動かず、冷たく澄んだ声で、盤面を一段ずらすように誘導を始めた。
「冠は、最後でよろしいかと存じます」
「最後だと?」
「はい。まずは民を統制する仕組みが先決です。倉庫の封鎖、橋の許可制、不要な門の閉鎖。流言を吐く者は、密かに消すのではなく広場で見せしめに裁くのです」
男の言葉は、まるで感情を持たない機械のように淡々としていた。
「民が従うのは勝者ではなく『明日の配給』です。胃袋を握り、恵みを管理する。それが新たな秩序となります」
「配給、か……」
「左様です。ですが、配給だけでは飢えた民の『怒り』は抑えきれません。怒りには矛先……失政から目を逸らせる『外なる敵』が必要です」
男の声には、王国の行く末を案じる熱も、公爵を支えようとする忠誠も感じられなかった。
ただ盤上の駒を置き直すように、必要な順序だけを淡々と示している。
そして権力欲に酔った公爵には、それが極上の妙案として響いていた。
「なるほど……怒りの向け先、か。悪くない。実に理にかなっている」
公爵は自らの思いつきであるかのように鷹揚に頷いた。
その時、重厚な扉が乱暴に叩かれ、外で控えていた近衛兵が慌ただしく駆け込んできた。
「申し上げます! ア、アルベール様が、お戻りになられました!」
その報告に、室内の貴族たちがざわめいた。
アルベールが辺境のウルム村の討伐に向かい、無様な敗北を喫して逃げ帰ってきたという情報は、すでに公爵の耳にも入っていた。大軍を失い無様に逃げ帰った彼に、かつての威勢など残されていないはずだった。
「通せ」
公爵が傲慢に顎をしゃくると、扉が大きく開かれた。
そこに立っていたアルベールの豪奢な銀の鎧には刀傷一つなく、マントも破れてはいなかった。彼自身は戦場で剣すら振るわず、ただ後方から逃げ帰ってきたからだ。だが、必死で馬を飛ばしてきた逃避行のせいで、全身は泥と埃に塗れ、その表情は疲労と恐怖で無様に歪んでいた。二千の精鋭と魔術院の兵を率いて意気揚々と出陣した男の、惨めな敗残の姿だった。
だが、部屋に足を踏み入れた彼の目には、反省の色も、己の無能を悟った冷静さも欠片ほどもなかった。血走った瞳孔を開き、異常な熱を帯びた声で、彼は広間に向かって言い放った。
「敗北ではないッ!!」
ビリビリと空気を震わせる絶叫に、貴族たちが顔をしかめる。
アルベールはふらつく足取りで机に歩み寄り、血のにじむ拳を叩きつけた。
「私は負けてなどいない! 卑劣な罠と、無能な兵どもに足を引かれただけだ! あのアシュランという逆賊は、正面から正々堂々と戦うことができぬから、泥にまみれた小細工に頼ったのだ! 村などというものは張りぼてに過ぎん!」
「アルベール殿、落ち着きなされ……」
一人の貴族がなだめようとするが、アルベールはそれを猛然と睨みつけた。
「黙れ! 今度こそ、今度こそ正規軍と魔術院の総力を一体で動かせば、あんなちっぽけな辺境の村など、一息にすり潰せる! 私は間違っていないのだ! 間違っていたのは、私に中途半端な手駒しか寄越さなかったモンフォールだ!」
二千の兵を失い、多くの将兵を置き去りにして戻ってきた男の口から出るのが、謝罪でも報告でもなく言い訳と逆恨みばかりだという事実に、室内の空気はさらに冷えた。
それでもアルベールだけは気づかない。彼の中で煮えたぎっているのは敗戦の反省ではなく、自分を愚弄した相手への私怨だけだった。
(この男は、もう使い物にならん……)
貴族たちの何人かは露骨に目を逸らし、将校の一人は小さく息を吐いた。
この場の誰も、もはや彼に将としての期待など抱いていなかった。
指揮官としての能力も、上に立つ者としての器も、この男には欠落している。実の父親にすら「都合の良い神輿」として扱われているという現実から必死に目を背け、今またこうして恥晒しな言い訳を並べ立てているのだから。
だが。
部屋の暗がりに立つ相談役だけは、アルベールを見て、その瞳の奥で微かに嗜虐的な光を瞬かせていた。
公爵は内心で毒づきながら、背後に立つ相談役に向かって、誰にも聞こえないほどの声で囁いた。
「……あの馬鹿息子、どう処分してくれようか。適当な理由をつけて地下牢にでも放り込むか?」
すると、男は音もなく公爵の耳元に身を寄せ、冷たい声で答えた。
「……処分するには惜しいかと。むしろ、実によく出来ております」
「何がだ?」
公爵が訝しげに小声で返す。
「あの狂おしいまでの憎悪。己の非を一切認めず、すべての責任を外なる敵へ転嫁する妄執……。閣下、あの男こそが、今の王都に必要なものです」
相談役の言葉の真意を、公爵は瞬時に理解した。
アルベールという男には、将としての価値は一厘もない。
だが、『民衆の怒りの向け先になる外敵』を作り出すための旗印としては、極上の素材だった。
敗残の嫡男が、アシュランという「王国を脅かす邪悪な逆賊」の恐ろしさを声高に叫べば叫ぶほど、外敵の物語は強固なものになる。民の不安と不満は辺境の村へと向けられ、王都内部の凄惨な失政やクーデターの傷跡から目を逸らせることができる。
公爵が自らの権力基盤を固め、正統性が整うまでの時間稼ぎをするための、完璧なスケープゴート。
「……この神輿、よく燃えるに違いありません」
相談役が冷たい笑みを浮かべて囁くと、公爵の顔にも酷薄な笑みが広がった。
公爵は芝居がかった大仰な身振りで立ち上がり、両手を広げてアルベールに歩み寄った。
「おお、アルベール! よくぞ、よくぞご無事で戻ってきた! 逆賊の卑劣なる罠に落ちながらも生還したその姿、我が息子に相応しい!」
「父上……!」
自分を肯定する声に、アルベールの血走った目に歓喜の涙が浮かぶ。
「モンフォール元帥の采配ミスは、痛ましい悲劇であった。だが、私が王都を掌握した今、お前を孤立させるような真似は決してさせん。不遜なる逆賊を討ち果たし、我が家の誇りを取り戻すため、軍勢のすべてをお前に貸し与えよう!」
「おお……! やはり、私を正しく評価できるのは父上だけだ!」
アルベールは公爵の手を固く握り返し、歓喜に打ち震えた。
「そうだ、私は間違っていなかったのだ! あのアシュランを殺し、自らの正しさを証明するために、私は再び選ばれたのだ!」
アルベールは高揚感に酔いしれ、再び自分が歴史の表舞台の中心に立ったのだと信じ切っていた。
だが、彼を見る周囲の貴族たちの目は、汚物を前にしたかのように冷酷な計算に満ちていた。誰もが、彼が自滅に向かって突っ走るための「生け贄」に過ぎないと分かっている。
王都は、彼を赦してなどいなかった。
クーデター後の混沌に沈むこの巨大な都市が今、彼に必要としているのは、有能な将でも、国を救う英雄でもない。
民衆の不満と怒りを一身に集めて燃え上がり、それでも自分が担がれていることにすら気づかぬまま、いずれ焼け落ちるための『神輿』だった。
そしてアルベールは、なおも自分が選ばれた英雄なのだと狂信したまま、
遥か遠くの辺境にいるアシュランへの、醜く淀んだ憎悪だけを深く燃やし続けていた。
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