第110話:言葉と熱
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市場が開かれてから、十日ほどが過ぎた。
カインが整えた台帳の運用と、ギードが定めた市場の許可制は、確実に避難民たちの生活を回す歯車として定着しつつあった。大きな暴動や致命的な物資の枯渇は防げている。だが、八千人の生活から摩擦が完全に消え去るわけではなかった。
夜の炊き出し場の裏手。巨大な鍋の片付けも終わりかけ、赤々と燃えていた竈の火も落ち着きを見せていた。昼間の怒号や喧騒はすっかり引いていたが、遠くに見える建設中の長屋やテント群からは、まだ子供の泣き声や誰かの言い争う声といった生活音が微かに響いていた。人が本音をこぼすにはちょうど良い、薄暗い時間帯だ。
俺は迎賓館の三階にある会議室での運営会議を終え、夜警のハンスに声をかけるついでに炊き出し場へ立ち寄ったのだが、そこで思いがけない二人のやり取りを耳にして、物陰に足を止めた。
「なあ、ロッテ。少し良いか」
洗い終わった木箱を重ねていたロッテに、ロイルが声をかけていた。彼の顔には、昼間からずっと抱え込んでいたらしいモヤモヤした疲労感が滲んでいる。
「はい。何でしょうか」
ロッテは手を止め、真っ直ぐにロイルを見る。
「昼間、市場で揉め事があっただろ。あの時の、お前の対応についてだ」
ロイルは頭を掻きながら、言葉を探すように口を開いた。
昼間、市場で小さなトラブルがあった。老婆が布を交換しようとした際、相手の男が後から「やっぱり麦粉も付けろ」と吹っかけたのだ。老婆は泣きそうになりながら抗議したが、男は凄んで譲らなかった。そこに割って入ったロッテは、男をなだめるでも、老婆を慰めるでもなく、ただ「事前に申請された内容と違うお取引はお断りしています。お困りごとは登録所で伺いますので、今は決められた手順をお守りください」とだけ告げ、強引に取引を停止させたのだ。
「お前の言ってることは間違ってない。ルール通りだし、あの場はそれで収まった」
ロイルは溜息混じりに言った。
「でもな……ああいう場で、誰が相手でも同じ言い方ばかりしてたら、いつか必ずあぶれる奴が出る」
「あぶれる、ですか」
「ああ。人間はみんな、理屈だけで動けるわけじゃない。怒ってる奴、泣いてる奴、上手く言葉にできない奴だっている。そういう連中にまで、帳面を読むみたいな同じ調子で言っても……声が『届かない』んだよ」
ロイルの声に、彼女を非難するような刺々しさはなかった。彼なりに、現場で泥まみれになりながら避難民たちと向き合ってきた実感として、純粋な「届き方の問題」を指摘していた。
だが、ロッテも引き下がらなかった。
「ロイルさんの言うことは分かります。でも……」
ロッテは静かに、しかし芯のある声で反論した。
「その場その場で、相手の感情に合わせて言い方や答えを変えすぎたら、必ず後で揉めます」
「揉める?」
「はい。『あちらにはあんな風に親身に言ってくれたのに、こちらには違った』と言われます。言葉の温度が違うだけで、人は不公平だと感じます。私は、後で誰かに不公平だと言われないように、同じことを同じように伝えたいんです」
ロッテは感情が分からないわけではない。村の連絡係として、言葉の重みと「例外を作ることの恐ろしさ」を知っているのだ。現場の感情に寄り添いすぎて制度が壊れれば、結局全員が不幸になる。
「それじゃ、人を動かすんじゃなくて、ただ決まりを読んでるだけだ!」
ロイルの声が少し大きくなった。
「お前は正しいよ。でもな、現場は帳面通りにはいかないんだ。人が生きてる場所なんだからな」
「帳面通りにいかないからこそ、絶対にブレない基準が要るんです!」
ロッテも負けじと声を張った。いつもは控えめな彼女が、ここまで感情を露わにするのは珍しい。
「その場の勢いや可哀想だという感情で『例外』を作ったら、次から皆がそれを求めます。あの老婆を特別扱いして助ければ、明日には百人の老婆が同じように助けを求めてきます。その時、全員を助けられますか?」
「でも、目の前で困ってる人を見たら、その場で手を差し伸べるしかない時もあるだろ。 後先考えて見捨てるのが正解なのかよ」
「それを毎回やっていたら、限界が来ます。そして最後に損をして切り捨てられるのは、ズルができない人や、声の小さい人なんです!」
二人の応酬は、どちらかが間違っているわけではない。
ロイルの言う通り、情がなければ人はついてこないし、不満は澱のように溜まっていく。
ロッテの言う通り、基準がなければシステムは崩壊し、結局は弱者が割を食う。
「どっちも要るんだよ」
二人の間に割って入ったのは、奥で大鍋を洗っていたマルタだった。
布巾で手を拭きながら、呆れたような、しかしどこか温かみのある目で二人を見据えている。
「マルタさん……」
「線がなきゃ揉める。顔を見なきゃ上手く回らない」
マルタは二人の間に立ち、ドンと腰に手を当てた。
「決まりだけじゃ腹は収まらないし、情だけじゃ上手くいかないこともあるのさ。お前さんたち、片っぽだけで現場を全部回そうとするから、そんな言い合いになるんだよ」
マルタの真っ直ぐな言葉に、ロイルは気まずそうに目を逸らし、ロッテはハッとして俯いた。
「現場ってのは両輪だよ。どちらが欠けても前に進まない。自分に足りないものがあるなら、意地張ってないで相手からふんだくっちまいな」
マルタはそれだけ言うと、「さ、片付けの続きだ」と背を向けて奥へ戻っていった。俺も物陰で、小さく頷いていた。長年、過酷な環境を生き抜いてきた彼女の言葉には、どんな理論よりも重い説得力がある。
後に残されたロイルとロッテの間に、気まずい沈黙が落ちた。
遠くの長屋から聞こえる子どもの泣き声。誰かの笑い声。そして、竈の中で燃え残った薪がパチッと爆ぜる音だけが、夜の冷たい空気の中に響く。
しばらくして、先に口を開いたのはロイルだった。
「……お前の言うことも分かる」
頭をボリボリと掻きながら、ロイルはバツが悪そうに言った。
「たしかに、俺のやり方じゃその場は良くても、後で収拾がつかなくなる時がある。お前みたいに、先の混乱まで見据えて線を引く役目がないと、俺はパンクする」
ロッテは驚いたように目を瞬かせた。ロイルが、行き当たりばったりではなく、自分の言葉の「後の責任」まで考えてくれたことが意外だったのだ。
「私も……」
ロッテは少し間を置いて、小さく答えた。
「私も、ロイルさんのやり方が要る場面はあると思います。目の前の人の表情や空気の変化を読む力は、私にはありません。それは、帳面や掲示板の言葉では絶対に代えられない力です」
「だろうな」
「はい」
短いやり取りだったが、二人の間を隔てていた熱が、スッと引いていくのが分かった。
完全に相手に迎合したわけではない。だが、互いが「別の視点」で村を支えようとしていることは、はっきりと理解できたはずだ。
「……分かった。次は、最初に『基準』を出してみる」
ロイルが照れ隠しのように言った。
「先にハッキリと線を見せりゃ、余計な揉め方は減るんだろ。情をかけるのは、その後でも遅くねえか」
「……私も、最初から言い切る前に、まずは相手の話を聞いてみます」
ロッテも真剣な顔で頷く。
「何に困っているのか、先に分かった方が、言葉を選びやすい気がします。ただ決まりを読み上げるだけでは、届かない人もいますから」
お互いに言ってみたものの、どこかぎこちない。自分の手札にないものを急に使おうとしているのだから当然だ。
「まあ、やってみな」
奥から、片付けを終えたマルタが笑いながら声をかけた。
「最初から上手くできる奴なんていないよ。転んで覚えるのが現場さ」
ロイルが「ちげえねえ」と苦笑する。
それを見たロッテの口元にも、小さな笑みがこぼれた。
俺は物陰から静かに離れ、執務室へと歩き出した。人を動かすのは、その場の熱を帯びた言葉か、絶対にブレない冷徹な基準か。 その答えは、おそらくどちらか一方では足りないのだろう。
まだどちらも、おぼつかない。
けれど、相手のやり方を自分の中に入れようとした、その一歩だけは確かだった。
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