第109話 市場と値札
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新街区として整備が進む集会棟の前。
長屋を建てる槌音が響き、配給用の巨大な竈からは白い煙が立ち上っている。掲示板が並び、人々が行き交うその光景は、難民の野営地から「街」へと変わりつつあった。
だが、避難民であるユストにとって、その活気はどこか遠いものに感じられた。
(配給の粥はありがたい。だが、それだけじゃ生活は回らないんだ……)
ユストは自分の足元を見下ろした。何日も歩き続けたせいで、彼の靴は底がすり減り、ぽっかりと穴が空いていた。村の建設作業に参加すれば、配給を前倒しで受け取れたり、より良い寝床を割り当てられたりする。
だが、この素足同然の靴では土木作業など到底無理だった。
靴底の穴を塞ぐための丈夫な当て布かクズ革と、針と糸。それがどうしても必要だった。配給では決して配られない「個人の事情」に合わせた細かな物資。それが手に入らなければ、彼は明日から労働に出ることすらできない。
その時、集会棟の前に設置された小さな木箱の上に、一人の少女が立った。ロッテだ。
「皆さん、聞いてください。これより、決められた時間だけ市場を開放します」
彼女の透き通るような、落ち着いた声が広場に響いた。
「許可のない露店は禁止です。売買ができるのは、この集会棟前の決められた場所だけです。値段は必ず掲示してください。武器の持ち込みは禁止。登録所で申請した品物だけを扱ってください。違反にはペナルティがあります。「許可のない露店は禁止です。売買ができるのは、この集会棟前の決められた場所だけです。値段は必ず掲示してください。武器の持ち込みは禁止。登録所で申請した品物だけを扱ってください。違反にはペナルティがあります」
その言葉を聞いた避難民たちの間に、ざわめきが広がった。
「これで、持ってる布を塩と交換できるぞ」
「俺の木工の腕が役に立つかもしれない!」
安堵と期待の声が上がる一方で、不安を口にする者もいる。
「でもよ、また足元を見られて、法外なふっかけられ方をするんじゃないか?」
「強い奴が裏で場所代を取り立てるに決まってるさ」
だが、人々の視線は次第に、淡々と告知を続けるロッテへと集まっていった。
「……あの子、若いのに迷いがないな」
ユストの隣にいた男が、感心したように呟いた。
「言い方がきつくないのに、言ってることはハッキリしてるねえ」と、別の老婆も頷く。
「昨日、配給の鍋のところでも走り回ってた子だろ。良くやってるよ」
彼らには、その声が上からの命令には聞こえなかった。
◇
市場が始まると、指定された区画には瞬く間に人々の輪ができた。
ユストは、奇跡的に汚れを免れていた手持ちの綺麗な布切れを握りしめ、露店代わりの敷物が並ぶ中を歩き回った。
やがて、古靴の解体材や修理道具を広げている老人の店を見つけた。その横には、不器用な字で書かれた値札の木の板が置かれている。
『靴底補強用のクズ革・二枚 = 傷口や産着に使える綺麗な布切れ一枚、または麦の粉一握り』
『針と糸の貸し出し一刻 = 固パン半分』
ユストは胸を撫で下ろした。値札があるおかげで、交渉で買い叩かれる恐怖がない。怪我人や赤ん坊のいる世帯にとって、清潔な布切れは貴重だ。クズ革となら、何とか釣り合う。
彼は持っていた布切れをクズ革と交換し、さらに明日の朝の配給パンを半分渡す約束で、針と糸をその場で借りた。
広場の隅に座り込み、夢中で靴底に革を当てて縫い合わせる。不格好だが、これで明日から労働登録に行ける。
「理想郷なんてどこにもないが……ここには、手が届く改善がある」
直った靴で地面を踏みしめ、ユストは小さく息を吐いた。生活が上向く確かな実感があった。
市場の様子を見回りに来ていたマルタとマーサが、通りがかりに立ち話をしていた。
「市場を別にしたおかげで、配給の列で物をやり取りする馬鹿が減ったよ。あれが一番邪魔だったからね」
マルタが満足げに言うと、マーサも頷いた。
「市場を別にしたおかげで、配給の列で物をやり取りする馬鹿が減ったよ。あれが一番邪魔だったからね」
生活を回す彼女たちにとっても、市場による物資の循環は明確な利点となっていた。
◇
だが、人が集まり物が動けば、必ず摩擦が起きる。
「おい! さっきはパン半分でいいって言ったじゃないか! なんで急にパン一個になるんだ!」
広場の一角で、男の怒鳴り声が上がった。
相手の店主は鼻で笑っている。
「値札には『パン一個か、それに類するもの』って書いてあるだろ! お前のパンは小さすぎるんだよ!」
揉め事が大きくなる前に、ロッテが静かに二人の間に歩み出た。
「値札が曖昧な売り方、および口頭で価格を変更する取引は無効です。登録所で明確な品目と価格を再申請してください。今は取引を止めさせていただきます」
「なんだと!? 小娘が口出しするな!」
店主が凄むが、ロッテは一歩も引かず、手元の記録板に視線を落としたまま告げた。
「もう一度言いますね。しっかりとした値札の掲示がない売買はできません。それと、市場で揉めないでください。もし、困りごとがあるなら登録所へ申し出てください。」
声を荒げるわけでもなく、ただ「手順」として取引を停止させる。
「……止め方が上手いな」
「見事なもんだ」
周囲の避難民たちが、その見事な対応に息を呑んだ。ロッテは決して感情で裁かない。ルールの徹底だけを行うことで、現場に奇妙な静寂と納得感をもたらしていた。
◇
騒ぎを聞きつけてやってきたハンスが、店主の書いた値札を手に取って目を細めた。
「同じ品物なのに、相手の身なりを見て口頭で値段を変えているな。おまけに、この値札の字……お前が書いたものじゃないだろう」
店主は舌打ちをして目を逸らした。
難民の多くは字が読めないし、書けない。市場のルールとして「値札の掲示」が義務付けられたことで、字が書ける者が「代書」を持ちかけ、法外な手数料を取ったり、わざと曖昧な表記にして売り手がごまかせる余地を作ったりしていたのだ。
ハンスは剣の柄から手を離し、淡々と告げた。
「値札なし、あるいは虚偽の価格での販売は即刻中止だ。登録所へ行き、正しい価格で再申請しろ。従わずに再発した場合は、配給を三日間最後尾に回す。……短剣は預かる。ここは取引の場だ」
有無を言わさぬ冷徹な通達に、店主は毒気を抜かれたように肩を落とし、渋々と腰の短剣を差し出した。
騒ぎが収束しかけたところに、村長であるギードがゆっくりと歩み寄ってきた。彼は集まった避難民たちを見渡し、低く、重みのある声で宣言した。
「商いは許す。じゃが、人を縛り、騙すような真似は決して許さん。ここは生き延びるための助け合いの場じゃ。一部の輩が甘い汁を吸うような場には、断じてさせんぞ」
ギードの言葉に、周囲から安堵の吐息が漏れた。
◇
少し離れた迎賓館の窓から、俺とカインは市場の様子を見下ろしていた。
「値札による透明化は機能しています。ですが、文字の読み書きが、新たな格差と搾取の温床になっていますね」
カインが眼鏡の奥の瞳を細めて呟いた。
「ああ。ルールの穴を突く奴は必ず現れる。だが、まずは市場という形を見える場所に作ったことが第一歩だ」
夕暮れが近づき、市場の終了を告げる鐘が鳴る。 ユストは修理できた靴の感触を確かめながら、テントへと続く道を歩き出した。市場ができたおかげで、確かに助かる命がある。明日への希望も繋がった。
だが、テントの間の薄暗い路地を通りかかった時、ひそひそと囁き合う男たちの声が耳に入った。
「おい、字が書けねえんだろ? 俺が登録所の申請書と値札を書いてやるよ。……手数料は、今日の配給のパン半分でいい」
「そっちの爺さんは、代わりに許可を取ってきてやるから、売上の二割をよこしな」
ユストは背筋に冷たいものを感じながら、足早にその場を立ち去った。
助かる道ができた。
――だからこそ、奪う道も生まれる。
配給と市場の運用が軌道に乗り始めた村に、今度は「住まうこと」や「見えない格差」から生じる新たな摩擦の影が忍び寄っていた。
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