第100話:敗走と断絶
お読みいただき、ありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。
朝の冷たい空気を震わせ、王国軍の陣地から進軍を告げる角笛が鳴り響いた。
だが、その音色は昨日までの完璧な和音を欠き、どこか不揃いな響きを帯びていた。
昨夜のクラウスたちの夜襲の影響は、戦場が明るくなるにつれて如実に現れ始めていた。
予備の車軸や工具を失った輜重の荷車が平原のぬかるみで立ち往生し、そのせいで後続の歩兵部隊が前進できずに団子状態になっている。革を裂かれた太鼓の音は間延びし、部隊間の歩調が全く合っていない。
一つの巨大な生き物のように俺たちを包み込もうとしていた陣形は、所々で千切れ、いびつな形に歪んでいた。
「止まるな! 歩調を合わせろ! 右翼、遅れているぞ!」
敵の実戦指揮官であるモンフォール元帥の怒号が、乱れた隊列を力業で繋ぎ止めようと響き渡る。
だが、その懸命な指揮を無にするような光景が、敵の本陣で起きていた。
最後方に安全な陣を敷いているはずの総大将、アルベールの顔色は、遠目から見ても青白く強張っていた。昨夜、得体の知れない夜襲を受けた恐怖が、彼の中から全く抜け切れていないのだ。
「放て!」
俺の合図と共に、魔力追尾型バリスタが太い杭のような矢を放つ。
狙いは昨日と同じく、敵の指揮系統の結節点と、詰まっている輜重の周辺だ。
ズガァン! と鈍い音が響き、平原に再び混乱の砂埃が舞う。リナが局所的に根を隆起させて足場を崩し、エレノアが白銀の杖を構えて前線に局所結界を展開する。
俺たちの狙いは本陣ではない。だが、「安全だと思わせる場所」を残す気もなかった。矢は本陣のほど近くへ突き刺さり、乾いた着弾音だけを残した。
その攻撃は、極限状態にあったアルベールにとっては致命的だった。
「ひっ……!」
アルベールが馬上から身を乗り出し、恐怖に満ちた声で叫ぶのが見えた。
「退け! 俺を後方へ下がらせろ! ここは危険だ!」
「アルベール様!? お待ちください!」
側近の将校たちが慌てて制止しようとするが、パニックに陥った彼を止めることはできなかった。アルベールは手綱を乱暴に引き、馬を反転させると、我先にと後方へ向かって逃げ出した。
総大将を守るのが第一義である護衛の騎士たちも、慌ててその後を追う。
「……総大将が、逃げたぞ」
「俺たちを置いていく気か!?」
その無様な敗走は、前線で必死に盾を構えていた兵士たちに最悪の形で伝播した。何のための討伐か。誰のために命を懸けているのか。兵士たちの間に致命的な不安と不満が走り、昨日まで強固だった士気が、音を立てて割れていくのが分かった。
◇
「浮き足立つな! 盾列を維持しろ!」
崩壊しかけた前線を一喝で押し留めたのは、モンフォール元帥だった。彼は逃げ去るアルベールの背中を冷徹な隻眼で一瞥すると、即座に信頼する副官へと向き直った。
「右翼と左翼はそのまま前線を維持しろ。私が中央の突破口を開く」
それは短い、迷いのない命令だった。モンフォール元帥は自ら馬を降り、長槍と大盾を手にすると、歩兵たちの先頭へと歩み出た。 総大将が逃げ出した戦場で、実戦指揮官が自ら「柱」となる。その歴戦の軍人としての圧倒的な格に当てられ、兵士たちの顔に再び戦意が戻る。
元帥が真っ直ぐに見据えていたのは、俺たちが撤収線の「門」として再投入していた、二体のスマートゴーレムだった。
「あの鉄人形を破壊し、線を割る! 続け!」
モンフォール元帥の猛攻は凄まじかった。スマートゴーレムの圧倒的な膂力と装甲を前にしても、彼は決して力で正面から受け止めようとはしなかった。盾で攻撃の軌道を滑らせるように流し、長槍の石突きで関節の微かな隙間を的確に突く。 自らぬかるみへと誘導し、ゴーレムの足場を崩した瞬間。
「シィッ!」
鋭い呼気と共に放たれたモンフォールの槍が、一体のスマートゴーレムの右膝関節に深く突き刺さった。駆動系を完全に破壊された巨体が、ガクンとバランスを崩し、その場に膝をついて沈黙する。 残るは一体。 だが、その一体もモンフォールの執拗な攻撃により、肩口の装甲が大きく剥がれ落ち、鋭く裂けた金属の断裂面を痛々しく晒していた。
◇
しかし、モンフォールの動きは止まらなかった。むしろ、さらに速度を上げ、残る一体のスマートゴーレムの懐へと、常軌を逸した踏み込みを見せたのだ。
「殺すな! ——押し返せ!」
カインが血相を変えて叫んだ。
ゴーレムのプログラムは「殺傷」ではなく、あくまで敵の「排除」を優先するように設定されている。残る一体は、自らの懐に飛び込んできた将軍を、その太い腕で突き飛ばそうと挙動した。
だが、将軍の踏み込みは、ゴーレムの即応動作よりもさらに深かった。
そして俺の目には、将軍がゴーレムの腕を「避けようとしなかった」ように見えた。
激突。
ゴーレムが押し返そうと振り下ろした腕。その装甲が剥がれ落ち、刃のように鋭く尖った肩口の断裂面が、モンフォール元帥の胸部装甲を容易く貫き、その胸の奥深くへと突き刺さった。
「……ガ、ハッ……」
将軍の口から大量の鮮血が吐き出され、大盾が力なく地面に落ちた。致命傷。誰の目にも明らかな、致死の激突だった。
「……元帥!!」
周囲の兵士たちから、悲鳴にも似た絶叫が上がる。 モンフォール元帥はゴーレムの腕に縫い留められたまま、ゆっくりと、その場に崩れ落ちた。
精神的支柱であった柱の、唐突すぎる死。前線の空気が完全に凍りつき、兵士たちの手から槍が力なく下がる。アルベールの逃亡でヒビが入っていた士気と指揮が、完全に抜け落ちた瞬間だった。
◇
前線が不気味なほどの静寂に包まれる中、カインが苦渋に満ちた顔で俺の横に並んだ。
「遅かったか……すみません、マスター」
俺は首を横に振った。
「いや、カインのせいじゃないよ。あれは、自分から殺されに行った気がする」
「まさか……」
カインが絶句する。
アルベールに見捨てられ、統制も崩れかけた軍をこれ以上進ませれば、待っているのは犬死にだけだ。自らの死をもって、軍に「撤退」という名分を与えようとしたのか。それとも、単に歴戦の将としての矜持が、彼を退かせることを許さなかったのか。
真実は、物言わぬ骸となった彼にしか分からない。
「……全軍、後退!!」
敵陣の奥から、悲痛な声が響き渡った。倒れた元帥に代わり、指揮を執った副官が、震える声で命じている。
「元帥閣下の御遺体を回収し、王都へ帰還する! 殿を固めろ!」
総大将は逃げ、実戦の柱は折れ、輜重は詰まっている。これ以上戦線を維持することは困難だ。それは臆病な逃げではなく、被害を最小限に抑えるための極めて合理的な指揮判断だった。兵士たちが将軍の遺体を慎重に回収し、盾列を後退させ始める。
「追撃はするな」
俺は小さく息を吐き、周囲の自警団員たちに短く命じた。
俺たちの目的は敵の殲滅ではない。これ以上血を流す理由はどこにもなかった。陣形を維持したまま、敵が完全に視界から消えるまで警戒を続ける。
第二防衛線の後方、救護と集合の拠点に、前線からの伝令が飛び込んできた。
「敵軍、後退を開始! アシュラン様の指示により、追撃は行わず警戒を維持!」
興奮と緊張で早口になる伝令の言葉を、シャルロッテが落ち着いた声で復唱する。
「王国軍は撤退を開始しました。我々は追撃せず、この場で警戒を維持します。……皆様、どうか落ち着いて、怪我人の手当てを続けてください」
その静かで澄んだ声が、救護所に広がりかけていた勝利の陶酔や、突発的な恐慌を静かに鎮めていく。彼女は泥にまみれながらも、情報を正確に繋ぎ、現場の空気を守るという自らの「見届ける」役割を、過不足なく果たしていた。
西の平原を覆っていた巨大な土煙が、ゆっくりと遠ざかっていく。
俺たちは、あの強大な王国軍を打ち負かしたわけではない。ただ、彼らの歩みを「止めた」だけだ。
だが、それでいい。
この村の未来を繋ぐための戦いは、これでひとつの決着を見たのだ。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!
「☆☆☆☆☆」からの評価やブックマークをしていただけると、今後の創作の大きな励みになります。
感想やレビューも、心からお待ちしています!




