第99話:夜襲と動揺
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夕闇が西の平原を完全に飲み込み、凍てつくような冬の夜の帳が下りた。
第二防衛線の窪地に張られた小さな天幕の中で、一本の蝋燭の灯りを囲むようにして、俺たちは顔を突き合わせていた。
「殲滅が目的ではない。明日の奴らの『足』を奪う。それが今夜の作戦のすべてだ」
俺は卓上に広げた羊皮紙に、大まかな敵陣の配置図を描きながら、静かに、しかし明確に線を引いた。
「狙うのは四点。太鼓と角笛の周辺、伝令の結節点、そして輜重の要となる荷車の工具束と車軸金具だ」
俺の視線の先で、黒ずくめの軽装に着替えたクラウスが、深く頷いた。その後ろには、同じく闇に溶け込むような装束を身に纏ったセドリックら数名の護衛騎士たちが控えている。
「長居は無用だ。敵の首を狙う必要もないし、無意味な殺傷も避けろ。火を大きく放って敵全体を起こすような真似は愚の骨頂だ。あくまで『見えない削り』に徹してくれ」
「畏まりました」
クラウスが落ち着いた声で応じる。
その横で、カインが確認するように口を開いた。
「マスター。私の『絶縁破壊』の出番は、やはり明日の決戦時ですね」
「ああ、お前の切り札は一度しか使えない。その時のために魔力を完全に温存しておいてくれ」
「撤収点での防護結界は、いつでも展開できるように準備しておきますわ」
エレノアも真剣な表情で頷く。
リナも俺の背後から肩越しに顔を覗かせ、付け加える。
「私も、明日の朝のために力は残しておくからね。夜は草も眠ってるから、あんまり無理させられないし」
「分かっている。今夜はクラウスたちに任せよう」
俺は立ち上がり、暗闇の作戦に向かう部隊へと視線を向けた。
「頼むぞ。無理だと判断したら、即座に引け」
「御意」
クラウスと騎士たちは音もなく天幕を出て、夜の闇へと溶け込んでいった。
◇
真夜中の平原。
王国軍の巨大な野営地には無数の焚き火が焚かれ、見張りの兵士たちが等間隔で槍を手に立っていた。
クラウスは低い草むらに身を潜めながら、冷たい夜風に乗って聞こえてくる敵陣の気配を探っていた。大軍ゆえの気の緩みか、それとも昼間の進軍で疲労しているのか、見張りの歩調はどこか重い。
クラウスの短い手信号に合わせて、セドリックたち護衛騎士が三方向に散開した。
彼らは王城を狙うあらゆる脅威から主を守り抜いてきた精鋭だ。甲冑を脱ぎ捨て、身軽になった彼らの足取りは驚くほど静かで、暗闇の作戦においてもその高い練度を遺憾なく発揮していた。
最初の目標は、前線指揮官の天幕近くに置かれた通信用の大太鼓と角笛だった。
暗闇に紛れて忍び寄った騎士の一人が、太鼓の分厚い革の表面にナイフを滑らせる。ズバッという鈍い音と共に、ピンと張られていた革が大きく裂け、使い物にならなくなった。さらに、太鼓の木枠の接合部に楔を打ち込んで破壊する。地面に無造作に置かれていた真鍮製の角笛は、静かに回収された後、泥の中に深く埋められ、その上から容赦なく軍靴で踏み潰された。
別の班は、野営地の後方に並べられた輜重の荷車群へと潜入していた。荷車そのものを燃やすような派手な真似はしない。彼らが狙ったのは、車輪の予備の車軸金具と、それを修理するための工具の束だった。留め具を静かに歪ませ、工具の束を麻袋ごと奪い取る。明日、荷車が壊れた時、彼らはそれを直すすべを失うことになる。
さらにクラウス自身は、伝令騎兵たちが使用する馬の繋ぎ場へと向かった。馬を殺すことはしない。繋ぎ縄を刃で半端に傷つけ、少しだけ刺激を与えて馬を驚かせたのだ。いななきと共に数頭の馬が繋ぎ場を抜け出し、野営地内を無軌道に走り始める。
「おい! 馬が逃げたぞ!」
見張りの一人が物音と騒ぎに気づき、松明を掲げて声を上げた。
その瞬間、物陰から滑り出たセドリックが、見張りの背後を完全に取り、その口を分厚い手袋で塞ぐと同時に首の急所を突いて気絶させた。
音を立てることなく兵士を地面に横たえ、セドリックはクラウスへと視線を送る。
「……潮時ですね。全員、撤収します」
クラウスの極めて小さな、だが鋭い号令で、騎士たちは一斉に野営地から離脱した。
火の手も上がらなければ、けたたましい戦闘の音も鳴らない。だが、王国軍の「内臓」は確実に抉られていた。
◇
王国軍本陣、ひと際巨大で豪奢な天幕の中。
アルベールは、外の微かな騒ぎと苛立ちによって目を覚ましていた。毛皮の寝椅子から身を起こし、舌打ちをする。
そこへ、血相を変えた部下の将校が天幕に駆け込んできた。
「アルベール様! 敵の夜襲です! しかし、すでに敵の姿はどこにもなく……!」
「夜襲だと!? 被害はなんだ! いくつ首を取られた!」
アルベールは怒鳴り声を上げ、傍らに置いていた宝剣を引っ掴んだ。
「それが……人的な被害はほぼありません。ただ、荷車の工具が奪われ、太鼓がいくつか破られ……伝令の馬が数頭逃げ出しました」
「はあ?」
アルベールは理解できないといった顔で、将校を睨みつけた。
「嫌がらせか! そんな小手先のことで、我が数千の軍が揺らぐとでも思っているのか! 逆賊アシュランめ、兵力がないからとこそこそと鼠のような真似を……!」
口ではそう吐き捨てながらも、アルベールの背筋には冷たい汗が伝っていた。
「何が起きているか分からない」という事象は、指揮官にとって何よりの恐怖だ。圧倒的な武力で押し潰すはずの戦争が、得体の知れない泥沼に引きずり込まれているような焦燥感が、彼の理性を内側から削り取っていく。
「本陣の警備はどうなっている! 逆賊どもをこれ以上、本陣に近づけさせるな! 護衛を倍に厚くしろ! お前たち、俺の周りを絶対に離れるな!」
それは、怒りを装った明確な恐怖の表れだった。 自身の安全だけを最優先し、全体を見る視点を失いかけている総大将。その滑稽な姿を、天幕の入り口から静かに見つめる歴戦の将がいた。 王国軍の実戦指揮官、モンフォール元帥である。
彼は武人らしく、アルベールのように感情を取り乱すことはなかった。だが、その眼には強い警戒の色が浮かんでいた。
(ただの嫌がらせではない。奴らは、我が軍の『指揮系統』と『行軍速度』をピンポイントで削りに来ている)
太鼓と角笛がなければ、数千の兵を同期させて動かすことは困難になる。伝令の馬が減れば情報の伝達が遅れ、工具がなければ壊れた荷車を放棄するしかなくなる。兵を無闇に休ませず、精神的な圧をかけながら、翌日の戦場での致命的な「遅れ」を仕込んできたのだ。
「……修復班を起こせ。予備の太鼓と角笛を各部隊へ再配置しろ。馬は夜明けまでに必ず探し出せ」
モンフォールは淡々と将校たちに指示を出す。だが、彼もまた理解していた。夜襲で削られた部分は、パッチワークのように修復したところで、決して昨日と同じ精度には戻らないということを。
見えない敵の不気味な刃が、王国軍の喉元にじわりと食い込んでいた。
◇
夜明け前。ウルム村の南西の塔の上。 ハンスは吐く息の白さも忘れ、望遠鏡の視界に釘付けになっていた。
東の空が白み始め、西の平原に広がる王国軍の巨大な陣容が再び姿を現しつつある。
彼らは今日も、ウルム村を平らげるために陣形を整え、進軍を開始しようとしていた。
だが、昨日とは明らかに違う。
「……隊列が、乱れてる」
ハンスは望遠鏡を覗いたまま、信じられないものを見るように呟いた。
土煙の帯が途切れ、止まっている箇所がいくつもある。 荷車が何台も止まり、そのせいで、後続の歩兵が前進できずに団子状態になっていたのだ。伝令の騎兵の数が明らかに少なく、部隊間の連携が取れていないため、前進する部隊と停止する部隊が入り乱れていた。
ハンスは望遠鏡から目を離し、背後で待機していた自警団の若者に叫んだ。
「アシュラン様たちのいる第二防衛線へ知らせろ! 敵の足並みが、明らかに乱れていると!」
◇
第二防衛線。
朝の冷たい光が、俺たちの陣取る窪地へと差し込み始めた。
伝令からの報告を受けるまでもなく、遠くから迫り来る敵の土煙を見据えれば、その「異変」は一目瞭然だった。
敵は再編して進軍してきているが、昨日感じたような、一つの巨大な生き物のような圧倒的な圧力はない。各部隊の動きがギクシャクとしており、軍全体の歯車が「噛み合っていない」のだ。
「……今日、折れるぞ」
俺の口から、自然と冷酷な言葉が漏れた。
ズン、ズン……ズン……
風に乗って、敵陣から太鼓の音が聞こえてくる。
だが、昨日までの腹の底に響くような重低音ではない。革が緩んだような、あるいは数が明らかに足りないような、どこか間の抜けた音が混じっていた。
太鼓は鳴り直すが、音がどこか違う。
——決着の朝が、来た。
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