第98話:包囲と撤収
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地響きが強くなる。
敵陣の奥深くから鳴り響く太鼓が、一段、その音色とリズムを激しく変えた。それに呼応するように、短く鋭い角笛の音が平原を切り裂く。
正面からじりじりと圧力をかけていた重装歩兵の盾列はそのままに、後方に控えていた軽装の歩兵と騎兵の混成部隊が、猛烈な速度で左右に割れ、俺たちが陣取る丘の側面へと回り込み始めた。
(来た。包囲は予定通りだが……速い)
俺は舌打ちを堪え、即座に声を張り上げた。
「線を崩すな! 走るな! 次の線へ下がれ!」
退却において最も危険なのは「背中を見せて走ること」だ。一人がパニックを起こして走り出せば、その恐怖は瞬く間に伝染し、整然とした撤収は単なる敗走へと変わり果てる。敗走になれば、背後から一方的に狩られるだけだ。
「バリスタの解体を急げ! 弦を緩めて台座を分解しろ!」
「焦るなよ、部品を落とすぞ!」
自警団の若者たちが、顔を青ざめさせながらも必死に魔力追尾型バリスタの解体と移送を行っている。彼らの手が震えているのは、両翼から迫り来る敵の砂埃が、刻一刻と距離を詰めてきているからだ。
「エレノア、結界を維持しろ! リナ、両翼の先頭を削れ!」
「はいっ! ……でも、これ以上は……!」
エレノアは愛用の白銀の杖を両手で強く握り締め、額に汗を滲ませながら半透明の局所結界を維持している。しかし、後退しながらの展開は集中力を著しく消耗する。結界の範囲はバリスタ班と俺たちを辛うじて覆う程度にまで縮小していた。
「やるよ! えいっ!」
リナが地面に両手を強く押し当てると、左右から迫る敵の進路上に局所的な根の隆起が起こった。数人の騎兵が馬の脚を取られて転倒し、後続の歩兵がそれに巻き込まれて盛大に転がる。
だが、それも万能ではなかった。王国軍の兵士たちは、局所的な足止めを躱し、大軍の波は確実に俺たちの横腹へと迫っていた。
「いけない! 右翼の部隊が結界の外側に……!」
エレノアの悲鳴に近い声が上がった。
迂回してきた敵の右翼部隊が、丘の斜面を駆け上がり、俺たちの結界の死角——まさにバリスタ班の若者たちが荷車を引いている横腹を突く位置にまで到達したのだ。
『射掛けろ!』
敵の下士官の号令と共に、十数本の矢が放たれる。
結界の外側に一歩はみ出しかけていた荷車の車輪を押し上げようとしていた若者の一人に、無慈悲な矢の雨が迫った。
「危ない!」
エレノアが咄嗟に白銀の杖を向けようとするが、間に合わない。彼女自身も、自分の展開する結界の範囲の限界と、守り切れない命が出るという戦場の現実を痛感し、顔を蒼白にしていた。
「カイン!」
「承知です、マスター」
俺の叫びと同時だった。
荷車と敵兵の間に、金属の重い駆動音を響かせて二つの巨体が躍り出た。
カインが密かに待機させていた、最新型の『スマートゴーレム』だ。
旧式の鈍重なゴーレムとは違う。滑らかな流線型の装甲を持ち、人間の熟練兵すら凌駕する素早さと的確な動きで、彼らは矢の雨の前に立ち塞がった。
カンッ! キィン! という硬質な音を立てて、矢が装甲に弾かれる。
スマートゴーレムはそのまま武器を振るうことなく、盾として両腕を交差させ、迫り来る敵兵の波に向かって「体で押し返す」ように前進した。
「な、なんだこの鉄人形は!?」
「怯むな! ただのゴーレムだ! そいつの足を止めろ!」
一瞬、敵の歩兵列が未知の兵器を前にしてほどけかけた。スマートゴーレムの圧倒的な質量と機動力は、王国軍の兵士たちにとっては恐怖の対象だ。一気に押し返せるか——そう思い始めた瞬間。
ギギィン!
嫌な金属音が響いた。
敵は歴戦のプロフェッショナルだ。一瞬の動揺から即座に立ち直り、ゴーレムの急所——関節部を正確に狙い始めたのだ。
熟練の槍兵が放った鋭い突きが、ゴーレムの肩の装甲の隙間に深く食い込み、装甲板がひび割れて吹き飛ぶ。別の兵士が放った鉤付きの鎖が肘関節に絡みつき、その機動力を強引に奪っていく。さらに、リナが隆起させた泥濘に片脚を踏み入れ、スマートゴーレムの動きが決定的に鈍った。
やはり、多勢に無勢。最新型のゴーレムであっても、軍隊の波を完全に押し留めることは不可能だ。
だが。
「構わん!全員、ゴーレムの間を抜けろ!」
ゴーレム二体が左右の敵の波を文字通り体で堰き止めているその数分間。
俺たちが欲していたのは、敵を殺傷することではない。安全に撤収するための「通り道」と、「時間」だ。
若者たちが必死に荷車を引き、ゴーレムの間を抜けていく。
「……やはり、まだまだ実戦投入には早かったですね」
損傷し、動きが鈍っていく自らの作品を見つめながら、撤収線を下がるカインが開発者としての悔しさを滲ませて呟いた。
「いや。あれで十分だ。——欲しいのは勝利じゃない。」
俺は短く答えると、腰のポーチから取り出した黒い玉を、迫る敵陣の足元へと力一杯投げつけた。
パンッ! という破裂音と共に、特殊な配合で作られた濃密な煙幕が平原に爆発的に広がる。煙幕から生じた煙は、敵の弓弩部隊の視界を物理的に削り取り、何より「正面と両翼の動きを同期させるための視覚情報」を完全に遮断した。
「見えないぞ! 止まれ、同士討ちになる!」
「太鼓を鳴らせ! 位置を知らせろ!」
敵陣の中で太鼓と角笛がけたたましく鳴り響き、混乱を収拾しようとする。だが、視界を奪われた軍隊の動きは、どうしても一拍遅れる。
その「一拍」こそが、俺たちの命綱だった。
「第二防衛線に到達! バリスタ再設置!」
当初の線より二千メトル後方、予め用意していた窪地を含む新たな防衛陣地に辿り着いた。 エレノアが息を切らしながら最後尾で結界を張り直し、リナが最後の力を振り絞って背後の土を隆起させ、追撃の進路を塞ぐ。
遠く煙の向こうで、敵の巨大な包囲網が俺たちのいた丘の上で「完成」したのが見えた。 文字通り、間一髪。完成しかけた包囲の顎から、俺たちはギリギリのところで抜け出したのだ。だが、これで終わりではない。敵はまた陣形を整え、この第二防衛線へと向かってくるだろう。
「深追いはしないか。……当然だな」
俺は額の汗を拭いながら、遠くで停止した軍勢を見据えた。
次の手は、すでに決まっている。
◇
第二防衛線のさらに後方。見晴らしが良く、かつ敵の矢が絶対に届かないよう計算された浅い窪地に、仮設の集合点と救護所が設けられていた。
そこは、血と土と汗の匂いが立ち込める場所だった。
ズシン、ズシンと重い足音を立てて、旧式の作業用ゴーレムが戻ってくる。その太い腕に抱えられた急造の担架には、撤収の際、転倒して足を負傷した自警団の若者が乗せられていた。
「い、痛い……痛えよ……!」
泥にまみれ、苦痛に顔を歪める若者。
その生々しい傷と、鼻を突く血の匂いに、シャルロッテは一瞬だけ足がすくみ、息を呑んで固まった。
(怖い……)
本能が逃げ出せと叫ぶ。だが、彼女は両手を強く握り締め、その場に踏み止まった。
「ここに寝かせろ! 誰か、添え木と清潔な布を!」
救護班の怒号に近い指示が飛ぶ。
シャルロッテは弾かれたように動き出した。医療の知識など何もない。だが、今の自分にできることがあるはずだ。
「お水です。少しずつ、飲んで」
シャルロッテは震える手で水筒を差し出し、若者の乾いた唇を潤した。
「あ、ありがとう……」
掠れた声が返ってくる。
救護班が必死に傷口を処置する傍らで、シャルロッテは清潔な布を素早く手で裂き、出血箇所を強く押さえる手伝いをした。血が自分の服や手にべっとりと付着したが、もう気にならなかった。
「前線から伝令!」
馬を駆けさせてきた村の若者が、転がり込むようにして窪地に入ってきた。
「負傷者は三名! いずれも命に別状はありません! 敵は現在、進軍を停止して陣形を再編中!」
息を切らして早口でまくしたてる伝令。極度の緊張から、その声は上擦り、周囲の人間も慌てて聞き返そうとしている。
「落ち着いてください」
シャルロッテはすっと立ち上がり、澄んだ、しかしよく通る声で告げた。
「第二防衛線への撤収完了。負傷者は三名。敵は進軍を停止し、陣形を再編中。……間違いありませんね?」
伝令の若者がハッとして、シャルロッテの顔を見る。
「は、はい! その通りです!」
「ご苦労様でした。こちらへ来て、休んでください」
シャルロッテが復唱することで、錯綜しがちな戦場の情報が正確に周囲へと共有される。言葉で人を繋ぐ。それこそが、彼女が炊き出しの現場で学んだ、自分なりの「役割」だった。
「……見事な振る舞いです、姫様」
背後から、静かな声がかけられた。
常にシャルロッテの傍らに控え、周囲を警戒しているクラウスだ。
「でも、私は何も……傷を治すことも、戦うこともできません」
「こうして現場を繋ぐことも、立派な戦いです。ただし、踏み込みすぎないことです。ロッテ様、ここから先へは決して参りませんよ」
クラウスは優しげな口調だったが、その言葉には「これ以上前線には近づかせない」という明確な境界線が引かれていた。
「ええ、分かっています」
シャルロッテは、泥と血に汚れた自分の手を見つめた。「見届ける」ということは、ただ安全な場所から眺めることではない。 痛みに歪む顔、血の匂い、恐怖で震える声。そういった「怖いもの」から決して目を逸らさないということなのだと、彼女は今、自分の身体で深く理解していた。
「……アシュラン様たちが、戻られました」
セドリックの声に顔を上げると、土埃にまみれたアシュランやカインたちが、第二防衛線からこの集合点へと歩いてくるのが見えた。
彼らの顔には疲労が滲んでいるが、その瞳の光は少しも衰えていない。
「お疲れ様でした、アシュラン様」
シャルロッテが水筒を差し出すと、アシュランはそれを受け取り、一気に喉を鳴らして飲み干した。
「ああ。どうやら、こちらの被害は最小限で済んだようだな」
「はい。ですが……敵はまだ、あそこに」
シャルロッテが西の空を見遣る。更に迫ってきた大軍は、今や肉眼でもその無数の軍旗が見える距離にまで迫り、巨大な陣を敷き直している。
アシュランは口元の水を手の甲で拭い、冷徹な目を敵陣に向けた。
「包囲は一度で終わらない。奴らは必ず、さらに緻密な陣形で俺たちをすり潰しに来る」
その言葉に、クラウスが一歩前に出た。
「では、予定通りに」
「ああ。正面からの殴り合いに付き合う義理はない。今夜、奴らの統制を削り取る」
クラウスが静かに、だが確かな決意を込めて深く頷いた。
夕闇が迫る西の空。
巨大な敵陣からは、依然として黒い土煙が上がり続けている。
ズン、ズン、ズン——
風に乗って響く太鼓の音は止まらない。
——次の手は、夜だ。
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