第97話:罠と正面
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「防壁から西へ八千メトル。……アシュラン様たちは、すでに所定の防衛線に展開を終えたようだな」
南西の塔の上で、ハンスは霜で白く染まった真鍮製の望遠鏡の角度を少しだけ下げ、白く濁った息を吐き出した。
レンズの向こうには、平原のただ中で待ち構える味方の小さな陣形が見える。そして再び望遠鏡を西の地平線へと向けると、ハンスは思わず手すりを強く握りしめた。
八千メトルの彼方で蠢いていた黒い帯は、もはやただの点ではない。朝日に照らされて立ち昇る巨大な土煙は、明確な殺意と質量を持った「軍勢」として、アシュランたちの待つ丘へと真っ直ぐに迫ってきている。
ハンスは望遠鏡から目を離し、迫り来る圧倒的な暴力の波に立ち向かう彼らの無事を、ただ強く祈ることしかできなかった。
◇
村の防壁から西へ数千メトル離れた、平原のただ中。
俺たちは、緩やかな傾斜を持つなだらかな丘の上に陣取っていた。
ここは見晴らしが良く、向かってくる敵からも俺たちの姿がはっきりと「見える」位置だ。だが、当然ながら白兵戦を挑むような距離ではない。 俺の足元には、カインが組み上げた三基の『魔力追尾型バリスタ』が並べられ、自警団の若者たちが緊張で顔を強張らせながら、太い鋼の弦をギリギリと巻き上げている。 すぐ傍らには、滅多に持ち出さない愛用の白銀の杖を構えたエレノアと、地面にしゃがみ込んで土と対話しているリナの姿があった。
俺の視線の先には、昨夜のうちにクラウスたちが仕込んだ「盤面」が広がっている。浅い窪地、不自然に生い茂った枯れ草、そして一見して平坦に見えるが、実はその下に深いぬかるみが隠されている。戦場はすでに、大軍が最も嫌がる形へと誘導されていた。
地響きが、ブーツの底を通してビリビリと伝わってくる。
ズン、ズンという規則正しい太鼓の音と、低く唸るような角笛の響き。
朝霧を切り裂くようにして平原の向こうから姿を現したのは、高度に訓練された強大な軍事国家の正規兵たちだった。
重装歩兵の巨大な盾列が、まるで動く鉄の城壁のように連なっている。その後ろには、鋭い刃を輝かせる長槍が天を突く森のように林立していた。両翼には弓弩を手にした軽歩兵が等間隔で配置され、さらに後方では、指示を伝える伝令の騎兵が砂埃を上げて絶え間なく駆け回っている。旗、太鼓、角笛によって完全に統制された、美しさすら感じる完璧な行軍。これが、王国軍の誇る「正面圧」だ。
その大軍の中央、何重もの護衛に守られた極めて安全な位置に、ひときわ高く掲げられたリヒテンブール公爵家の紋章旗が見えた。
アルベールはそこから一歩も前に出るつもりはないのだろう。指揮官としては極めて真っ当で、狂信的な怒りに飲まれて突撃してくるような愚かな真似はしないということだ。
風に乗って、アルベールの怒号が平原へ響き渡った。
『見ろ! あの丘の上が、逆賊アシュランだ! 一兵たりとも逃すな! 踏み潰せ!』
その号令に応えるように、数千の軍勢が一斉に雄叫びを上げ、盾列の歩みを速めた。
彼らは俺の姿を視認し、「正面から圧倒的な数で押し潰す」という、強者として最も正しい判断を下したのだ。
「引きつけろ」
俺は右手を上げ、震える若者たちを静かな声で制した。
敵の前衛が、俺たちが想定した境界線を越える。
五百メトル、四百、三百……。
「……撃て」
俺の振り下ろした腕に合わせて、三基のバリスタが凄まじい発射音を立てた。 放たれた巨大な杭のような矢は、カインの魔力誘導を受けて空中で不規則な弧を描く。 だが、その切っ先が向かったのは、迫り来る強固な盾列ではなかった。
矢は前衛の頭上を飛び越え、その後方へと正確に降り注いだ。ズガァン! と鈍い破壊音が平原に響く。狙ったのは、兵糧や予備の矢を積んだ輜重の荷車、そして各部隊へ指示を伝える伝令騎兵が頻繁に交差する「指揮の結節点」だ。
車軸が砕け散り、巨大な荷車が横転する。荷馬がパニックを起こして暴れ回り、周囲の兵士たちが巻き込まれて悲鳴を上げた。 指揮の連携が一瞬だけ断ち切られ、前進しようとする前衛と、後方で足を止めた部隊との間に致命的な「詰まり」が生じた。
直撃による大量の死者が出たわけではない。だが、軍隊という巨大な生き物の「機能」と「速度」を確実に削ぎ落としたのだ。
しかし、相手は歴戦のプロフェッショナルだ。『立ち止まるな! 工兵、邪魔な荷車を路肩へ蹴り落とせ! 盾列は間合いを広げて前進を続けろ!』すぐさま下士官たちの怒号が飛び交い、混乱は力技で押し留められていく。この程度の初撃で崩壊するほど、正規軍は柔ではない。
「リナ、頼む」
「うん、少しだけね。いっぱいは無理だからね」
リナが小さな両手を地面につくと、淡い緑色の光が地表を走った。
敵の進路上の枯れ草が異常な速度で伸び、太い根が蛇のように地表へと隆起する。
「なっ、足が……!?」
「草が絡みついて——!」
重い鎧を着た歩兵たちの足が根に取られ、進軍の足並みがガクンと乱れた。だが、リナの言う通り、その力も無限ではない。効果範囲は局所的であり、広大な平原のすべてを覆うことは不可能なのだ。 敵の指揮官もすぐに異常に気づき、足場の悪い中央を避けて、両脇のルートへ兵を誘導し始める。
『弓隊、前へ! あの丘の上の小賢しい連中を射抜け!』
敵の弓弩部隊が一歩前に出て、一斉に空へ向かって矢を放った。 空を覆い尽くすような矢が、黒い雨の如く丘の上の俺たちへと降り注ぐ。
「エレノア!」
「任せてくださいませ!」
エレノアが白銀の杖を天に掲げると、俺とバリスタ班、そして背後の退避点を覆うように、半透明の局所結界が展開された。
カンッ、キンッ! と激しい音を立てて、無数の矢が結界の表面で弾き飛ばされていく。だが、守れる範囲は極めて狭い。一歩でも結界の外に出れば、たちまちハリネズミにされるだろう。圧倒的な質量を前にした、綱渡りのような防衛線だ。
敵は苛立ちを募らせているはずだ。なぜ、圧倒的な数で押し潰せるはずの小勢に、こうも足止めを食らっているのかと。答えは、昨夜クラウスたちが仕込んだ“盤面”にある。
彼らは俺の指示通り、平原の要所に浅い溝を掘り、足首ほどの高さの目立たない杭を打ち込み、歩兵が嫌がるような微かな傾斜を作っていたのだ。
殺傷能力は皆無。だが、人間の心理として「歩きにくい場所」を無意識に避け、「歩きやすい場所」へと進路を絞ってしまう。
そしてその「歩きやすい場所」の先には、先日の雨でぬかるんだ深い泥濘地が広がっている。
俺たちは敵と正面から殴り合っているのではなく、見えない線で誘導し、疲労させ、速度を奪い続けているのだ。
だが、敵の歩みが鈍る中、俺は望遠鏡で敵陣形全体の不気味な変化を注視した。正面の盾列はそのままだが、後方の予備部隊が左右に大きく割れ、砂埃を上げて平原の外側へと迂回する動きを見せ始めている。
「……来る。包みに来るぞ」
俺は即座に判断を下した。正面から押し潰せないと悟った敵が、その圧倒的な数の暴力を活かして、左右からの巨大な包囲網を敷こうとしているのだ。
「正面の圧力は捨てないはずだ。だが、これ以上の長居は無用。引き線を一つ下げろ!」
俺の指示で、自警団の若者たちが素早くバリスタを分解し、後方へと下がり始める。エレノアは結界の強度を維持したまま、じりじりと後退の歩調を合わせる。その後方、さらに二千メトルほど下がった第二防衛線には、ロッテたち救護部隊が待機しているはずだ。
俺たちは決して背中を見せて逃げるわけではない。「戦線を維持したまま、計画的に後退する」という、プロの軍隊にすら難しい撤収作業を、焦ることなく冷静にこなしていた。
再び、地響きが強くなる。 ズン、ズン、ズン——ドドドドド。
敵陣の奥深くから鳴り響く太鼓が、一段、その音色とリズムを激しく変えた。
——迂回した両翼が牙を剥く、包囲網完成の合図だ。
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