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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜  作者: しいたけ
第7章 基礎と秩序

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第96話:塔と布陣

お読みいただき、ありがとうございます。

これより第7章スタートです。

第7章も、お楽しみいただければ幸いです。

防壁の四隅に立つ、地上から十メトルの塔。その一つ、南西の塔の上に立つハンスは、凍てつくような冬の夜明け前の冷気に身を震わせながら、真鍮製の望遠鏡を覗き込んでいた。


レンズの向こう側、西の平原の彼方。

ここからおよそ八千メトルの距離。肉眼ではただの暗い地平線にしか見えないその場所に、確かな「異変」が起きていた。


霜の降りた石積みの手すりに肘をつき、ハンスは白く濁った息を吐き出す。 八千メトル先では、人の顔どころか、個々の動きも判別できない。歩けば数刻だ。だが、それでも「巨大な質量がそこにある」ことだけは、嫌というほどに理解できた。


望遠鏡の丸い視界の中で、無数の小さな点が蠢いている。高く掲げられた無数の旗が風に揺れ、その下を這うようにして、長く太い土煙の帯が地平線に沿って伸び縮みしていた。

夜明けの薄明かりに照らされたその土煙は、まるで巨大な蛇が獲物を求めて蠢いているかのように見える。


「……間違いない。軍だ」


ハンスは望遠鏡から目を離し、血相を変えて塔の下で待機している自警団員に向かって叫んだ。


「動きがあった! 迎賓館のアシュラン様たちへ知らせろ!」



迎賓館の管理室に設けられた臨時対策本部。

ハンスからの報告を駆け込んできた自警団員から受けた俺は、長机の上に広げられた周辺地形図を見下ろした。


部屋には、村長のギード、カイン、エレノア、クラウス、ロイル、そして眠い目を擦りながらも真剣な顔をした精霊のリナが集まっている。


「八千メトル先で、敵の軍勢が陣形を整え始めているようだな」


俺は地図上の、西の街道から広がる平原の地点を指で叩いた。


「アルベール・ド・リヒテンブールが率いる数千の正規軍と私兵。対して、我々には正面から槍を突き合わせて戦うような兵士は一人もいない」


俺の言葉に、部屋の空気が微かに張り詰める。だが、そこに絶望の色はない。俺たちはすでに、どう戦うかの意志を固めていたからだ。


「だから、正面で勝つ必要はない。奴らをこの村へ進ませなければいいだけの話だ」


俺は地図の上に、木製の駒をいくつか配置した。


「敵の指揮官が定石通りに動くなら、まずは圧倒的な数に物を言わせて正面から圧力をかけてくる。そして我々が手薄だと分かれば、次に左右からの迂回包囲を狙うはずだ」


俺は駒を動かしながら、作戦の骨格を説明する。


「それに対して、俺たちは『殴り合わない正面』を作る。軍隊というものは、補給と陣形が命だ。囮を使い、誘導し、足を止めさせ、引くべき時には即座に撤収線を下げる。戦場という盤面そのものを操作して、奴らの進軍速度と戦意を削り落とす」


そのためには、個々の役割分担が極めて重要になる。


「前線の盤面設計と全体の指揮は俺が執る。カイン、お前はゴーレム部隊を待機させておけ。使うのは一度だけ、敵の統制を完全に断ち切る瞬間だ」


「了解です。マスター。最高のタイミングで一撃を叩き込みましょう」


カインが力強く頷く。


「エレノア。お前の結界は、俺の周囲や救護点など、局所的な防護に絞って展開してくれ。守れる範囲は狭いが、その分強度は上がるはずだ」


「はい、師匠。すでに調整済みですわ」


次に俺は、椅子の上にちょこんと座っている精霊の少女を見た。


「リナ。平原の草地や根を成長させて、敵の足元をぬかるみに変えて追撃速度を殺してほしい。できるか?」


リナは小さな手で頭を掻きながら、少しだけ申し訳なさそうに言った。


「うーん……アシュランのお願いなら頑張るけど、いっぱいは無理だよ? 少しだけ、足が引っかかるくらいだからね」


「それで十分だ。万能を求めているわけじゃない」


そして俺は、静かに控えている初老の執事へと視線を向けた。


「実働部隊の核は、クラウス、あんたたちだ。セドリックを含む数名の護衛騎士と共に、偵察、夜襲の下準備、そして撤収の段取りを頼む」


「畏まりました。我々の足と隠密行動が、この戦局の要となるわけですな」


クラウスは余裕のある笑みを浮かべて一礼した。


「ロイル。お前とハンスは、引き続き門外待機区画の秩序維持だ。戦いの音が響けば、外の難民たちは必ずパニックを起こすかもしれない。村の若者たち数名を罠の設営と誘導の回収に回すが、それ以外はすべてお前たちで群衆を抑え込んでくれ」


「わかっています。背中は任せてください」


これで、すべての配置は完了した。



だが、この戦いにはもう一つの、そして最大の懸念事項があった。


「軍を追い払えばすべてが終わるわけじゃない」


俺は地図から顔を上げ、全員を見回した。


「現在、防壁の外には二万人以上の難民が溢れている。王都があの惨状では、軍が引いたからといって彼ら全員が帰還できるわけがないだろう。少なく見積もっても、半分の一万人はこの地に残留することになると考えている」


一万人。その数字の重さに、ロイルが息を呑む。

ただ食わせるだけではない。排泄物の処理、寒さで倒れる者の増加、終わりの見えない不安。それらを物理的なインフラと制度で管理できなければ、村は内側から腐り落ちる。


「今でさえ、水も薪もギリギリなんだ。一万人が残れば、今の村のインフラや快適さは完全に崩壊するぞ……」


「だからこそ、今のうちから手を打つ」


俺の言葉を引き継ぐように、村長のギードが重々しく口を開いた。


「うむ。門外の待機区画を、いつまでも仮設の野営地のままにしておくわけにはいかん。アシュランの提案通り、防壁の外周を拡張し、新たな耐火レンガ壁を築く。区画を整理し、難民たちを正式にこのウルム村の管理下に取り込む仕組みを作るんじゃ」


戦闘の準備と並行して、すでに外の広場では村の職人たちが動き始めている。

遠くから、カコン、カコンと乾いた杭を打つ音が響いてくる。巨大な耐火レンガを積んだ荷車が動き、新たな境界線を示す縄が引かれているのだ。俺たちが西の平原で軍と対峙している間に、東の村では未来のインフラ整備が並行して進められる。


「あの……アシュラン様」


重い決断が下された会議室の空気を縫うように、凛とした声が響いた。

部屋の隅に控えていたロッテが、真っ直ぐに俺の目を見て一歩前に出た。


王城の寝室で震えていた彼女はもういない。自らの足で泥道を歩き、炊き出しの現場で現実の重さを知った彼女の瞳には、強い意志が宿っていた。


「私も、行かせてください」


「ロッテ……」


俺が制止しようとするより早く、彼女は言葉を重ねた。


「安全な壁の中で、ただ祈って待つだけは嫌なのです。最後の王族として、この国が、そして私の民がどうなるのかを、この目で見届ける義務があります。……怖いからこそ、目を逸らしたくありません」


それは、今、この地獄のような現実のただ中にいる一人の人間として、座して待つことができないという切実な感情だった。


俺は彼女の目を見返し、短く息を吐いた。


「戦闘員として前線に出ることは却下だ。足手まといになる」


ロッテの肩が微かに落ちかける。だが、俺は言葉を続けた。


「ただし、後方の撤収点、および仮設救護所での統治役として同行するなら許可しよう。君の言葉と存在が、負傷者や動揺する者たちを繋ぎ止める楔になる」


その言葉に、ロッテの顔がパッと明るくなった。

だが、すかさずクラウスが落ち着いた声で条件を告げた。


「ロッテ様。同行なさる以上、いくつか条件がございます。指定した境界線は決して越えないこと。セドリックら護衛二名を常に随伴させること。そして、私かアシュラン様が退避を告げた場合は、理由を問わず即時に戻ること。――お守りいただけますね」


決して甘やかさない、プロフェッショナルとしての冷たい響き。

ロッテは背筋を伸ばし、はっきりと頷いた。


「……分かりました。約束します」


方針と役割が決まると、部屋の空気は一気に実戦のそれへと切り替わった。

クラウスがすぐさま護衛騎士や村の若者たちに短い指示を飛ばし始める。


「事前の図面通りだ。第一防衛線に溝を掘り、杭を打ち込め。撤収誘導用の縄の配置も忘れるな。夜襲の導線は、草の丈が高い南側から確保しておけ」


「はっ」


詳しい戦術の意図は語らない。彼らは己のやるべき「段取り」だけを完璧にこなす。カインとエレノアも、魔力のパスの最終調整に入った。 俺は愛用の長剣を腰に帯び、防寒用の分厚い外套を羽織った。


いよいよ、盤面を動かす時が来たのだ。



南西の塔の上。

ハンスは再び望遠鏡を覗き込み、冷たい手すりを強く握りしめた。


夜が完全に明けようとしている。薄暗い西の地平線に、巨大な黒い影がはっきりと輪郭を持ち始めていた。

八千メトルの彼方。

先ほどまではただ蠢く点だったものが、今は明確な質量を持った「軍勢」として認識できる。

望遠鏡の視界の中で、赤いリヒテンブール公爵家の紋章旗が風に大きく煽られた。


「……来るぞ」


ハンスは思わず唾を飲み込んだ。

望遠鏡越しに見える土煙の帯が、先ほどよりも明らかに太く、そして濃くなっている。距離が縮まっている証拠だった。

八千メトルという絶望的な距離を越えて、圧倒的な暴力がこの村へと迫りつつある。


土煙が太くなった。——隊列が、こちらへ向けて動き出した。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

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