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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜  作者: しいたけ
第6章 秩序と瓦解

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幕間6-3:鍋と笑い声

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

まだ夜も明けきらぬ、凍てつくような冬の空の下。ウルム村の防壁内、広場に設けられた巨大な炊き出しのテントからは、白い湯気が勢いよく噴き出していた。


「薪! 水! 塩! 器! 足りない物を先に言いな! 鍋の底が見えてから慌てたんじゃ遅いんだよ!」


湯気で白く煙る視界の中、炊き出しの現場を仕切るマルタの怒号が響き渡る。広場の水道の蛇口から勢いよく出る冷たい水が次々と大鍋に注がれ、凍った手を擦り合わせながら、村の女たちが戦場さながらの勢いで走り回っていた。


そこへ、顔を煤で真っ黒にした中年の男、ジャコブが大量の薪の束を抱えて飛び込んできた。


「マルタ! 焚き火に回す薪、これ以上は出せないぜ! 門外の待機区画に回す分もギリギリだ!」


「ジャコブ! 焚き火を増やすな! 火は“守る”もんだよ! 無駄燃やしさせるんじゃない!」


「わかってるよ! だから削れるところは削って、こっちの竈に回したんだ!」


言い合いながらも、二人の連携には一切の無駄がない。


その横で、新入りの若い娘がお玉を取り落とし、けたたましい金属音を立てた。


「きゃっ! ご、ごめんなさい!」


「馬鹿だねぇ! 火傷はないのかい!?」


マルタが慌てて振り返る。娘が涙目で首を横に振るのを見て、マルタはふうと息を吐き、腰に手を当てた。


「次からは手ぇ拭いてから持ちな! 慌てすぎて、お玉と一緒に鍋に落っこちるんじゃないよ!」


「まったくだ。今日のスープの具に、あんたは入ってないよ!」


「マルタおばさんの特製スープは、もう十分具沢山だからね!」


周囲の女たちからドッと笑いが起きる。娘も顔を真っ赤にしながら、慌ててお玉を拾い上げて布で拭った。

極限状態の中にあって、この小さな笑い声が、彼女たちの心を繋ぎ止めていた。



一方、防壁の門前では、自警団のハンスが必死に声を枯らしていた。


「ハンス! 列を割るな! 札を返させてから次を通しな!」


背後から飛んでくるマルタの容赦ない指示に、ハンスは首に巻いた布で汗を拭いながら応じる。


「わかってる! ……おい、そこのあんた! 家族ではぐれても横から入るな、後ろに並び直せ!」


何万という避難民の列は、少しでも気を抜けばすぐに崩壊の危機に瀕する。

列の中ほどで、小太りの男が配給の「青い木札」を高く掲げ、周囲と揉み合いになっていた。


「おい、これ当たり札だろ! 俺にもっといいもん食わせろ!」


「当たり札じゃねぇよ!」


ハンスが歩み寄り、男の手から青札を取り上げた。


「それは重病人や、小さな子供がいる家族のための優先札だ! あんたみたいな図体のでかいおっさん一人が持ってる時点で不正取得だ。誰から奪った!」


「ち、違う! 拾ったんだ!」


「嘘をつけ。隔離だ。——後で、話を聞く」


ハンスの容赦ない指示で、男は自警団の若者たちに両脇を抱えられ、抗議の声を上げながら列の外へと引きずられていく。

その断固とした対応に、周囲の難民たちから安堵の溜め息と、微かな笑いが漏れた。


そこから少し離れた洗い場では、マーサが山積みの器を前に、凍るような冷水と格闘していた。そこへ、手元の旗の色を間違え、食事を受け取る列ではなく「返却列」に並んでしまった難民の老婆が、困惑した顔で立っていた。


「おや、あんた、そこは食べ終わった人の列だよ」


マーサは冷水で真っ赤になった手を布で拭いながら、老婆に優しい口調で語りかけた。


「器が返らないと、次のご飯が出せないんだ。器を返せば、次も温かいのが回る。ほら、こっちだよ」


マーサは老婆の背中をそっと押し、正しい列へと誘導する。

怒号が飛び交う中でも、こうしたマーサのような「生活の手」があるからこそ、難民たちはパニックを起こさずに村の制度に従うことができていた。



だが、現実は重い。次の鍋が煮え上がるのを待つ、ほんの数分間の静寂。ふとした瞬間に、現場を覆う疲弊の影が色濃く浮かび上がる。


マルタの手はあかぎれだらけで、所々から血が滲んでいる。マーサの指は氷水に浸かり続けたせいで赤く腫れ上がり、すでに感覚を失っていた。

門前では、ハンスが完全に声を枯らし、咳き込んでいる。


ジャコブが、フラフラになっている若い男の肩を叩いた。


「おい、倒れる前に替われ。無理してぶっ倒れられるのが、一番現場に迷惑なんだよ」


「すみません……」


交代した若い男が、崩れ落ちるように地面に座り込む。

先ほどお玉を落とした新人の娘が、泣きそうな顔で呟いた。


「もう……限界かもしれません……」


その弱音に、テントの空気が一瞬だけ重く沈んだ。

限界なのは誰の目にも明らかだった。人も、物資も、そして気力も。


だが、マルタはピシャリと言い放った。


「笑ってるうちは回る。黙ったら終わりだよ」


その刺すような一言に、誰もがハッと顔を上げる。

同情も慰めもない。だが、その言葉には「絶対に崩れさせない」という圧倒的な芯の強さがあった。

一瞬の静寂の後、マルタはパンッと大きく手を叩いた。


「ほら、煮えたよ! 次、開けるよ!」


その号令で、重い空気は一瞬にして吹き飛び、再び戦場のような活気がテントに戻っていった。



アシュランという村の頭脳は、今この場にはいない。

だが、彼が構築した「仕組み」の土台の上に、村人たちは自らの知恵で「現場の制度」を次々と積み上げていた。


「マルタ! 器の山が詰まってる! 洗い場、入口と出口が一緒だからぶつかるんだ。口を分けな!」


冷水に耐えながら、マーサが大声で提案する。


「こっちもだ!」


ハンスが門外から叫び返す。


「返却口を一本に絞ってくれ! 札と器をセットで回収する場所にすれば、列の詰まりが減る!」


「よし、今日からそれ!」


マルタは一瞬の迷いもなく即採用し、それがそのまま村の新たな「制度」となる。


「ジャコブ、そっちの薪はどうだ!」


「焚き火は減らすことにした! 代わりに、竈で熱した石を布で包んで外の列に配る。交代で毛布も回すように指示した! 火がなくても、暖は取れるように工夫するさ!」


ジャコブの的確な判断に、マルタはニヤリと笑った。


「上出来だ! よし、みんな聞いたね! その通りに動くんだ!」


誰かに指示されなくても、現場の工夫が瞬時に制度となり、村を回していく。それは、この共同体が持つ圧倒的な「厚み」の証明だった。



だが、知恵と工夫だけではどうにもならない物理的な限界も近づいていた。


「マルタおばさん、咳止めの薬草がもうないよ。 葉野菜も、次の鍋で底をつきそう……」


鍋の底を掻き回しながら、女の一人が悲鳴を上げた


マーサが顔を曇らせる。


「畑が追いつかないね……さすがに、この人数じゃあ……」


絶望的な物資不足。その時だった。迎賓館の裏手から、小さな足音が近づいてきた。


「……それ、足りないの?」

くすんだ外套の裾を握りしめた、少女が立っていた。リナだ。

彼女は畑の前でしゃがみ込み、しおれかけた薬草の葉に指先をそっと触れる。


次の瞬間、葉はふわりと持ち上がり、萎れていた緑が戻っていく。土から顔を出したばかりの菜の芽も、ほんの少しだけ背を伸ばした。


「……これくらいなら。いっぱいは、無理」


それは畑を埋め尽くすような奇跡ではなかった。だが、次の数回分の「足しになる」程度には、確実に生命力を取り戻していた。


「……おい、見てみろ。しおれてた葉が持ち直してる。新しい芽も立ってるぞ」


「助かった……これで、もう少しだけ保つ」


村人たちが、安堵の息を漏らす。

マルタはその若木の方角を向き、口元を少しだけ緩めて呟いた。


「……足しになる。ありがたいね」


マルタは深く頷くと、再び振り返り、腹の底から声を張り上げた。


「さあ、刈り取って刻むよ! 鍋の火だけは、絶対消させないよ!」


夜が明け始めた。

東の空が白く染まり、凍てつく空気の中に、炊き出しのテントから濛々たる湯気が立ち昇り続ける。

その湯気は、この村がまだ生きているという何よりの証だった。


湯気が上がっているうちは、まだやれる。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

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